第44話

 その日は戦闘訓練及び食料調達の訓練とのことで森まで連れてこられたハロルド。鬼教官にじいっと見つめられながら得物を探すという胃が痛くなってくるような状況に、早くも辟易としていた。

 とにかく手に持った鉈で邪魔な蔓や高草を切り払い、さっさと目についた動物――出来れば、兎などの小動物――を狩って帰りたい。ハロルドの胸中を満たすは、そんな感情であった。

 そんななか、それまで実に退屈そうにハロルドを見ていた鬼教官。満を持して口を開く。


「イノシシ……」

「は?」

「イノシシが食いてえな。よし、ハル。獲物はイノシシ限定だ」

「え、初心者の得物を限定するか、普通? しかも、そんな熊に並ぶ森の危険生物に」


 このハロルドの文句は黙殺され、結局、鬼教官のひょんな思い付きで獲物はイノシシに限定されてしまった。


 もちろんゲンガイも、意味もなくかたくて臭くて癖が強くて手間がかかる猪肉が食べたい、と言ったわけではない。ぴょんぴょんと小回りの効く兎なども見方によっては厄介なものだが、やはり獰猛な獣との戦闘をした方が、圧倒的に手っ取り早く今回の遠征の目的が達成できる。

 それゆえのリクエストなのだが、そこはもちろん察しの悪いハロルド。このクソ爺ィ……という感想しか出なかった。




「イノシシ発見……!」


 そんなこんなで目当ての獣を発見したのは、何十匹もの兎や何頭もの鹿を素通りし、数時間が経過してからだった。

 小声でイノシシが居た旨をゲンガイへ伝えるハロルド。


「よし。んじゃ……」

「だらっしゃあぁ! 死にさらせぇ!!」

「は?」


 その報告を聞いたゲンガイが指示を送ろうとしたその瞬間、溜まりに溜まっていたハロルドのフラストレーションが爆発。乱暴な掛け声とともに手に持っていた鉈をフルスイングでイノシシに向かって投げつける。

 とてつもない速度で円を描きながら飛んでいく鉈。しかし運悪く当たったのは刃ではなく柄の部分であり、イノシシの毛皮と筋肉に弾かれ、その先にあった大木の幹に刺さる。

 だが、刃は刺さらなかったものの、ほぼ鉄の塊が思いきり飛んできたのだ。イノシシに痛みを与え警戒させるには十分な威力を持っていたようで、鳴き声をあげて一目散に逃げて行く。


「あっ! くそ、待てやコラ!!」

「テメェが待てやコラ! くそっ。ハルのやつ、鉈を置いていきやがって……」


 その背に向かって恫喝の声を飛ばしながら飛び出し追いかけるハロルドと、彼が置いていった鉈を大木から引き抜きにかかるゲンガイ。

 ちなみにだが、ゲンガイが今回ハロルドに持たした武器はその鉈ひとつ。なので言うまでもなく、イノシシを追いかけるハロルドは現在丸腰である。


 鉈を引き抜いたゲンガイがハロルドが走っていった方向を見ると、障害物関係なしに猪突猛進するイノシシに地を走って追い付くのは諦めたのだろう。まるで猿のように木の枝をぴょんぴょんと飛び回りながら追いかけるハロルドの姿が、すでに遠くなった遥か向こうに見える。


「……なんじゃあの速度」


 野生のイノシシにどんどんと肉薄していくハロルドを見て、思わずそんな感想を漏らすゲンガイ。

 まだこの時点ではゲンガイはハロルドがすでにレベル云十うんじゅうまで到達していたとは知らず、しかもそのうえ珍妙な動きで全速のイノシシに肉薄するほどの天才的な身体能力を持っているとは思ってもいなかったのである。




 一方その頃、イノシシを追いかけるハロルド。

 何だか身体が軽いなぁ、とは思ったものの、その軽さが生む高揚感に酔って深くは考えず、ただただイノシシを追い詰めることのみを考えて、鉄砲玉のようにその背を木の上から追っていく。


 そして、ふと標的がスピードをおとした瞬間を見計らって、


「おぉっっらぁ!!」


 全力で木の幹を蹴り、そのまま飛び蹴りを放つ。

 まるで断末魔のような鳴き声を轟かして転がるイノシシ。だがすぐに立ち上がると、逃げるのは諦めたのかハロルドに向かい合い、そのまま突進してくる。


「なんぼの……もんじゃっ!」


 そんなイノシシに恐れず、むしろその脳天にカウンターとしてパンチを放ち、あろうことか押し返すハロルド。


「はっはぁ!! 効くだろ!? クソジジイ特性の拳骨はよぉっ!!」


 なんてことはない。ここ最近ボカスカ殴られてイライラしていたハロルド。ここぞとばかりに八つ当たりという名のストレス発散を、そのイノシシ相手にしているのだった。

 押し返されまたもや転がされたイノシシに余裕綽々なポージングを取って挑発するハロルド。ゲンガイが見ていたら、間違いなくその『よく効く』拳骨を落としていただろう。


 よたよたと立ち上がり、鼻息荒くハロルドを見つめるイノシシ。脳震盪でも起きたのか、その足はどこか力が入りきらない様子で震えている。


 ――なんだ、余裕じゃん。


 ハロルドはほくそ笑み、そう思った。


 だがそれは間違いだった。ゲンガイの忠告をしっかりと聞いてから行動しなかったことを、この直後に後悔することになる。


 ゲンガイがイノシシを見つけたハロルドにしようとしていた指示。それは、「一撃で殺せ」。

 この世界の生物を決して追い込んではいけない。恐怖や怒り、そしてそれらが転じた反逆心を、決して抱かせてはいけない。

 その感情が追い込まれた獲物の胸中を満たし、己の生死をかなぐり捨てて一矢報いてやるという『意志』へと昇華したとき――


「――ハルッ!! そいつから離れろ! 転魔するぞっ!!」

「は?」


 ――歪に膨らんだ意志力により、その存在は魔へと転ずることとなる。


 ハロルドを見つめるイノシシの目に暗い火が灯り、憎悪にも似た魔力がその身から迸る。

 その瞬間ボコボコと隆起を始めるイノシシの肉体。二本の牙は極太で長大なものへと生え変わり、その身を覆う毛皮は厚く硬い鎧のように変化する。


 咆哮。

 もはやそれは死にかけの獣が発する鳴き声ではない。確実に敵を殺し、己が糧にしてやるという、という決意の声。

 骨をも揺らすようなその咆哮に、さすがに怯んだハロルド。


「や、やべっ。やべぇ!!」


 慌てて走り、目についた大木の枝まで跳んで避難する。

 それはおそらく、無意識ではあれど、一時避難としては大正解な場所取りであっただろう。


 ――ただし、『普通の動物相手』には。


 地を蹴った瞬間、一気にトップスピードへと乗ったイノシシの魔物、『ボア』。それは何も関係ないとばかりにハロルドが登った木の幹に頭突きをかまし――そしてあろうことか、そのままへし折ってしまう。


「まま、マジッ!?」


 唐突に訪れる浮遊感。なんとか幹に掴まっていたため宙に浮くことは避けたものの、木が倒れるにしたがってぐんぐんと地面が近づいてくる。

 だが、さすがにこのまま地面に転がされるわけにはいかないハロルド。適当な木々を探し、何とか木が倒れきる前にそっちへ飛び移ることに成功する。


 ふうと安堵の息を吐いて地面を見るハロルド。数本の木々をなぎ倒してようやくその突進を止めたボアがキョロキョロと見回し、そして木の上に居る自分をロックオンする一部始終を見てしまう。

 再びの咆哮。そして突進。

 どうやらあのイノシシは確実に自分を殺すまで狙い続けるらしい、と踏んだハロルド。絶望にその顔を真っ青にする。


「……っ! しゃあねぇな!!」


 だが、そんな顔をしていたのもつかの間。またもや自分が居た木が突進により倒されたが、今回は他の木へ飛び移らず、おとなしく自ら地へ降り立つ。その横をズズンと音を立てて木が倒れ、その余波で土煙が自分へと吹き付けてくる。が、気にしない。

 振り向いて真っ直ぐ、向こうも急旋回して真っ直ぐこちらを見つめているボアを睨み、


「っしゃ! 来いやぁ!!」


 素手をぎゅっと握り、ファイティングポーズにてそう威嚇する。

 そんなハロルドの恫喝に答えたのは、ボアの咆哮――


「来いやじゃねえ。死にてぇのか……。ったく」


 ではなく、そんなマイペースなゲンガイのセリフであった。

 そういえば、さっき爺ちゃんの声が聞こえてたな。と、今更ながらその存在を思い出したハロルドの横を、ゲンガイが悠然と歩く。

 そのまま腰に下げていた打刀うちがたなの鞘を持つと、抜けないよう鍔に巻き付けられていた朱色の下緒さげおをほどき、その柄を握り、腰を下ろしてボアを見据える。

 ツツツ、と親指で鍔を押し、数センチだけ刃を見せて、ぴたりと動きを止める。


 音が消えた。

 ハロルドはそう錯覚した。


 それほどまでの完成した構え。それほどまでの威圧感。しかし、それなのに目を離せない美しさ。

 そのゲンガイの後ろ姿に、ハロルドはそんな感想を抱いた。


 実際は音が消えたなんてことは無い。木々は相変わらずさざめいて、ボアの荒い鼻息だって相変わらず吐かれている。やがてボアは吼え、そしてハロルドを殺すべく、その前に佇むゲンガイもろとも轢き潰そうと突進をしてくる。


「っっハァッ!」


 その瞬間、気合一閃。ゲンガイの居合切りが放たれる。そして、上下に分断されたボアの死体が、どちゃどちゃと崩れその血で土を濡らす。

 まさしく、一瞬。

 並外れた刀の腕と、居合の速度。そして一瞬で【空太刀からたち】にて刃を伸ばす魔力制御と、そしてボア――突進に特化した『ラッシュボア』をも両断する筋力。

 全てが、そのときのハロルドには、別次元の力であった。


「……一匹の猫が獅子を殺すことはあり得るか?」


 呆けるハロルドの耳に、刀をしまったゲンガイからそんな問いが届く。


「答えは、否だ。普通はあり得ない。……だが、この世界じゃ、その理屈はまかり通らない」


 最初から答えを期待してなどいなかったのだろう。その問いの答えは、ゲンガイの口からすかさず発せられた。


「蛇に睨まれた蛙が次の瞬間その蛇を丸のみにする。鳥につつかれた虫が次の瞬間その鳥の身体を貫く。追い詰めていたはずの獲物に、次の瞬間には殺される。そんなこと、この世界じゃ日常茶飯事だ」

「……」

「それが転魔だ。それが魔物だ。今回は身に染みてわかっただろ。絶対に油断しちゃいけねえ。魔物になっちまえば、元がどんな動物であっても全部脅威だ。……ま、今回は俺の注意も遅かったがな」


 ハロルドは頷くことしかできなかった。

 冷静になって思い出せば、身体が震えるほどのイノシシの急激な変異。突然膨れ上がった力に、完全に理性を失い殺戮マシンと化した、魔物という存在。

 そしてそれを一太刀で斬り捨てた、ゲンガイの隔絶した実力。


 それらすべてをかえりみて、ハロルドはただただ、気が抜けてへたり込むことしか出来ないのだった。






 ちなみにこのあと、十数発の拳骨とボアの肉をいただいた。拳骨は痛かったし、ボアの肉はかたくて臭かった。


   ◇ ◇ ◇


「あ? この刀をどこで手に入れたのかって?」


 それはある日のこと。街の外に行くときに必ずゲンガイが携帯する打刀について、ハロルドが訊ねたときのこと。


「そうそう。それ、めっちゃかっこいいじゃん」


 鞘も柄も黒塗りで、唯一朱色の下緒がアクセントとして映えるデザインも、なんともハロルドの男の子心をつついた。

 それゆえの、ハロルドの疑問。言ってしまえば、「俺もそれ欲しい」という気持ちからの問いであった。


「はっはっは。そうだろうそうだろう。だが残念。こいつは特注品オーダーメイドで、どこにも存在しないぞ」


 かっこいい、と褒められたのがよっぽど嬉しかったのか、珍しく頬を緩めて刀を見せてくれるゲンガイ。ただその答えはハロルドとしては少々――いや、かなりがっかりな答えではあったが。


「そいつは俺がこの世界に流れ着いた時に持っていた軍刀を基準にして、一からこの世界の貴重な金属を使って打ってもらった打刀でな。銘は〈カラス〉という」

「……カラス? 何で?」

「孤高で、そして何より、どんな手を使ってでも生きるという狡猾さの象徴だ。……俺がこの世界で生きると決めたとき、絶対に死んでなるものかと決めたとき、俺の強さの象徴は、カラスになった」


 そう語るゲンガイは、ふと、寂しそうな遠い目をする。

 それから、ぽつぽつと語り出す。


「俺がこの世界に流れ着いて、それから数年。俺はどうにか帰る方法がないかと模索して、そして見つからなくて、この世界のすべてを呪った。帰れないのならと命を絶とうとしたことだって、十や二十じゃない」

「……マジ?」

「はっは。嘘みたいだろ? だが、本当の話だ。それほどまでに、俺は元の世界に色々なものを残してきちまった」


 そう言って寂しそうに笑うゲンガイが、首にかけられたリングをハロルドに見えるよう、掲げる。


「そんな俺に馬鹿みてぇに寄り添ってくれたのが、この世界で出会った、いずれ俺の女房になる一人の女だ。最初は鬱陶しくて仕方なかったけどよ、ずうっと俺のことを見捨てずに、帰りを待ってやがったんだ。……それからかね。あいつが俺の生きる理由になったのは」

「……その、嫁さんは?」

「死んじまった。お前さんが来る、ほんのちょっと前だ。老衰だ。穏やかなもんだったよ。残されるこっちの身にもなれってもんだがな」


 言葉を紡げず黙るハロルドを見て、ゲンガイは笑う。


「お前さんを引き取ったのは、そんな状態だったからこその気まぐれだ。ま、こんな俺でも寂しかったってことなんかね! かぁ! 恥ずかしっ!」


 そう言ってすっくと立ちあがると、ハロルドが手に持っていた打刀〈鴉〉をひったくるように奪い、背を向けてがりがりと頭を掻く。


「……湿っぽい話をしちまったな。ま、忘れてくれや。んじゃ、おやすみ」

「……ああ、おやすみ。爺ちゃん」


 そう挨拶を交わして、その日の会話は打ち切られる。

 ほんの少しの後味の悪さと、そしてゲンガイに対する親近感を、ハロルドの心に植え付けて。

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