第45話

 ハロルドがこの世界に流れ着いて、三ヶ月が経った。このカラリスはどうやら一年を通して涼しい気候が長いようで、過ごしやすい涼しい季節から、巡り、厳しい冬になった。

 ちろちろとぼたん雪が降る草原を歩いて渡り、森にいく。暖をとる薪のために枯れた木を、そして栄養のある食事のために根菜や薬草、はたまた冬眠中の動物を狩って帰る。それが最近のハロルドの一日のサイクルであった。


「はぁ……。さむっ」


 息を吐くと、白く染まってすぐに虚空に溶ける。

 じくじくと痛む鼻に、ときどき深く息を吸うとつんとその奥が痛くなる。もこもこと毛皮を着込んでいるものの、やはり寒いものは寒い。






 ここ最近、ゲンガイは寝込むことが多くなった。「もう長くないのかもな」とは、そんな彼の言葉だ。

 冗談じゃない。と思う。

 あんだけボカスカと拳骨を落としておいて、弱るのはあっという間だ。まだ教わってないこともたくさんある。一人前とはとてもじゃないが、言えない。

 それに、まだ名前を聞いたら震え上がるようにはなっちゃいない。それどころか、安心感を抱くほどだ。


「はぁ」


 心配で、ため息がこぼれる。

 その息はやはり白く濁って空気に散っていく。


 ふと、そんなハロルドの目の前を、馬橇ばそり――馬車の車がそりに代わったもの――が横切る。

 へぇ、あんなもんがあるんだ。と呆けた顔で見つめていたハロルドの目の前を通りすぎ、少しだけ進んだ場所で、そりが停まる。


「……こんにちは! 前にハウンドから助けていただいた方ですよね!」


 そしてそのそりから降りてきた女性が帽子を脱ぎながら、そう挨拶をしてくる。

 その女性は、間違いなく。初めてハロルドがこの世界で出会った第一村人ならぬ第一世界人。ハウンドに襲われ横転していた馬車の一家、そのお母さんであった。


「あ、ああ。こんにちは」

「やっぱりドリフターの方だったんですね! 言語伝達の儀式魔術を?」

「ああ、そうです。あれ、めっっっちゃくちゃ頭痛いんですよ」


 ははっ、と笑ってそう話すハロルド。正直、思い出したくない程度には本当に痛かった。


「ふふっ。そうらしいですね」

「……そのそりで、どこまで?」

「ああ、私たち一家は、このずっと向こうにある村の出身で、年に何回か畑でとれた野菜やなんだをカラリスまで売りに来てるんです。今回も、その帰りで」

「ああ、なるほど。お疲れ様です」


 どうやら、前回ハウンドに教われていたのもその商売に来ていたときなのだという。

 普段は危険がないはずの街道を通っているのだが、あの日は何かに縄張りを追いやられたのかハウンドが居て、油断していた一家は接近しすぎてしまい、そして逃げきれなかったらしい。


「その節は、本当にありがとうございました!」

「いいんすよ。困ったときはお互い様って言うらしいし」


 へへへと照れ臭そうに笑うハロルド。そのとき、そりの方からてててーと走ってきた小さな存在が、ハロルドの足にぺたりと抱きついてくる。


「うおっ」

「あっ、こら、ルル! 離れなさい!」

「やっ!」

「ああ、大丈夫っすよ」


 そう言って、よいしょと幼女を抱っこしてあげる。

 ちなみにハロルド。よく知らない子供とうまく接する自信はないが、自分になついてくれている子供に冷たく接するほど、子供嫌いではない。


「おにーちゃん、あそこに住んでるの?」

「ん、そうだ。にーちゃんは今カラリスでお世話になってんだ」

「へぇー!!」


 そんなどうでもいい情報にも嬉しそうに歯を見せて笑う幼女、ルル。お母さんはおろおろと申し訳なさそうだ。


「ルル! 急に走り出して、ビックリしたぞ! ……どうも、こんにちは。その節はありがとうございました。本当に、感謝してもしきれません」


 と、そこにお父さんも合流。一同にペコペコと頭を下げられ、だんだんと居心地が悪くなってきたのは秘密だ。


「……これ、よろしければもらってください。うちの畑で取れた芋です。商売の余り物で申し訳ないのですが……」

「え、いいんすか!? いや、ありがたいです! ありがとうございます!」


 しずしずと差し出された紙に包まれた芋を、本当にありがたいと思ったハロルドは満面の笑みで受けとる。ここのところ、森で採れる食材がほぼ毎日一緒で料理のバリエーションに乏しかったのだ。そんなところに食材の差し入れは、素直なままに嬉しかった。


「ねー、ヒーローのおにーちゃん!」


 そんなハロルドに、下ろしたルルから声がかかる。


「……え? ヒーロー?」


 その声に含まれていた謎の一単語を、ハロルドは反復する。


「わあ! すいません! この子、一撃でハウンドを撃退した貴方を見て、ヒーローだって言って聞かないんですよ!」

「……ヒーロー。英雄。なるほど、英雄ヒーローか!」

「……あ、あの?」


 何やら思い付いたようすのハロルド。嬉しそうにルルを高い高いしてやる。


「わあ!」

「良いこと思い付いた! ありがとなあ、ルル!」

「? どーいたしまして!!」


 なにやら楽しげに笑い合う、幼女とお兄さん。お父さんとお母さんの頭に浮かぶは、大量の疑問符である。が、どうにもほほえましいその光景に、いつの間にか頬を緩めて見つめていた。


 それからしばらくきゃっきゃと遊び、一段落してから、一家にルルを返却する。


「あの。…………えっと……」

「ああ、ハロルドです。ハルって呼んでください」

「は、ハルさん。よろしければ、今度うちの村に遊びに来てください。この街道を行って、少し外れた森の中にある、シオン村という小さな村です」

「シオン村……っすね。わかりました。機会があれば、是非!」


 そう言ってにこやかに一家と別れる。「あそびにきてねー! やくそくだよー!」と言いながらいつまでも手を振るルルがとてもかわいかった。


 彼らが遠く見えなくなってから、ハロルドの頭に浮かぶ、ルルから言われた「ヒーロー」という言葉。ぶるりと、身体が震えるほどの衝撃が走った。

 この世界には、魔術という不可思議な力が存在する。どうにも肉体派のハロルドではあるが、それでも多少の魔術は使えるようになっている。全く使えないよりはほんの少しでも使える方が、いろいろと融通が効くものだ。

 そして今まで、そんな不可思議な力があってもどうにも目標も持たずにだらだらと過ごしてきたハロルド。だがこの瞬間。ルルの一言によって、今後の方針が決定する。


「おおおおっ! よっしゃあ! 俺は、変身ヒーローになってやるっ!!」


 それは、ハロルドが元居た世界でも大好きだった、変身ヒーロー。

 仮面やコスチュームで正体を隠し、法で裁けぬ悪を倒し、ときには正し、街の平和を護る正義の使者。

 かつての世界では妄想の産物であったそれらも、この世界の魔術という力をうまく使えば、実現可能なはず。


 このときのハロルド。おそらく、この世界に流れ着いてから最も目が輝いていた瞬間だっただろう。


   ◇ ◇ ◇


「そ、そんな理由で英雄ヒーローを目指しちゃったんですか」

「そんな理由で目指しちゃったんだよ」


 頬をひくひくと引きつらせるエリザベスに、こちらも苦笑したハロルドが答える。


「……それから、すぐにジャスティスマスクとしての活動を?」


 コホンと咳をひとつして気を取り直したエリザベス。ハロルドに問いを投げ掛ける。


「いんや。実際に活動を始めたのは、それからけっこう経ってからだ。……というのも、爺ちゃんにめっちゃ反対されたからな」


 遠い目をして昔に想いを馳せるハロルドは、その続きをぽつりぽつりと語り出した。


   ◇ ◇ ◇


 野草が積まれた籠をわっしゃわっしゃと振り、その中身をちょくちょく溢しながらも、全く気にせずハロルドは石畳の上を駆ける。

 その顔は夢を見る少年のように輝き、その足取りは跳ねるように軽い。

 むしろ、どうして今まで思い付かなかったのだ、と思う。元の世界にはない不可思議な力を目の当たりにして、それどころかちょっとずつ使えるようにすらなってきて、どうして普通の狩猟民のような生活をしていたのだろう。

 目から鱗というやつだ。革命だ。今日、これから、全く新しい生活が始まるんだ!!


「爺ちゃん! 俺、変身ヒーローになるよ!!」

「……あぁ?」


 家のドアを開けるとともに言い放たれたハロルドの言葉に、くつろいでいたゲンガイ。今まで見たことがない顔をした。




「……よし、話してみろ。変身ヒーローってのは?」

「何で話し始めるまでに3発も殴られたんだ、俺」

「単純なもんは叩いたら直る。そういうもんだろ」

「俺の頭は精密機器です!!」


 ハロルドの全力の異議申し立てだが、この言葉はスルーされた。


「いやさ、変身ヒーローっているじゃん? テレビの。仮想の」

「俺の時代にゃなかったな」

「あぇ。ま、まぁ、いるんだよ。素性を隠して、法じゃ裁けないような悪人をこらしめるんだ。正義の味方だよ」

「……あぁ。なるほど」


 ハロルドの端的な説明になんとなく合点がいったらしいゲンガイ。ふむふむと頷きながら、咳き込む。

 その咳き込む姿を少し心配そうに見つめるハロルドだが、深呼吸一つ、落ち着いたらしいゲンガイはそんなハロルドに向かい合い、


「論外だ。絶対に、そんなことはやるな」


 と、にべもない返事をよこす。


「は、はぁ!? 何でだよ!」

「何でもだ。……なぁ、ハル。お前は良いヤツだよ。今なら、引き取ったのがお前で良かったって、俺は思える」

「何をいきなり……」

「だがな、お前の正義感は曖昧だ。あのときは言わなかったが、お前を無理矢理でも夜猫から遠ざけたのは、それが理由だ」


 なんだかよくわからないゲンガイの告白に、ハロルドは首を傾げる。


「あのとき、お前は言ったな。『夜猫に情報が筒抜けで嫌な想いをしているやつは、後ろ暗い何かがあるんだろう』、とな。……そうじゃないんだ。普通は、そういうことじゃないんだよ」


 考えてみれば、すぐにわかる。

 知られるとまずい情報が知られるから嫌だと感じるんじゃない。普通の人間は、単純にプライベートを覗き見されるからこそ嫌だと感じる。そこに後ろ暗い何かがあってもなくても、嫌なものは嫌なのだ。


 だが、ハロルドにはその感性がわからなかった。

 一見常識人、それより少しバカという程度のハロルドの印象。だが、あの瞬間にゲンガイと夜猫は、ハロルドのなかに決定的な『歪み』があることに気が付いた。

 それは簡単に言ってしまえば、『人の気持ちがわからない』という、人間社会で揉まれることでいずれ誰もが身に付ける――身に付けなければいけない能力の欠如。

 もっと言えば、単純に自己中心的なのだ。人の気持ちがわからないから、自分を基準に考える。自分がこう思うのだから、相手もそうなのだと考える。


 別に、それが必ずしも駄目というわけではない。長い目で見て、少しずつ、度が過ぎた部分を矯正していけばいい。

 だがそんな人の気持ちがわからないハロルドが、正義のヒーローなんて存在にはなってはいけない。それは、絶対に許してはいけないことだった。

 そもそも、『正義』というもの自体、その定義が曖昧だ。それを振りかざす何者かの基準に枠取られ、その枠のなかでの一切の行動を正当化する言い訳。言ってしまえば、『正義』とはそういうものだ。

 だからこそ、『正義』の定義にはそれを振りかざす人間の感性が如実に反映される。


 自己中心的で人の気持ちが理解できないハロルドがその正義を振りかざす姿など、思い描くだけで薄ら寒いものしか感じない。


「……ま、お前は『正義の味方』ってタイプじゃねぇってことだよ! 困ってる人間を助けるのなんざ、どんな立場でだってできる。わざわざそれを生業にする必要なんて無ぇだろう」

「えぇー。爺ちゃん、夢がねぇな!」

「死にかけの爺が夢なんか見るかってんだ、バカ野郎」


 だが結局、ゲンガイはハロルドに、反対する理由を明言することを避けた。

 それは単純に、ハロルドを必要以上に傷付けることになるかもしれないという恐怖や、どうせ本気でなりたいと思っちゃいないだろうという希望的観測による判断だった。


 とはいえ、このときにしっかりと理由を述べて反対したからといって、結果が変わるとも思えないが。


   ◇ ◇ ◇


 そんなゲンガイとの別れは、思っていたよりもずっと早く訪れた。

 最初の違和感は、やはり寝込むことと咳き込むことが多くなったこと。だが、季節は冬。きっとただの風邪だろうと、ハロルドは現実から目をそらした。

 次の違和感は、何度も落とされ痛い目を見てきた拳骨が、だんだんと弱くなってきたこと。それも、きっと自分が強くなってきたり痛みになれてきたのだろうと、ハロルドは現実から目をそらした。


 もう目をそらせなくなったのは、ゲンガイが痩せ細り、もう立ち上がることすら出来なくなった頃のことだった。

 まだまだ寒波は続き、しんしんと降る雪が街を真っ白に染めて、一切の音を奪っていくような夜のこと。

 いやにしんと静まり返る街のお陰だろう、


「……そろそろ、かねえ」


 床に臥せったゲンガイの呟くようなその声も、はっきりとハロルドの耳に届いた。


「……なにがだよ」

「はっ。察せよ。バカ野郎」

「察しが悪いんだ。昔から」

「だろうなぁ。お前は、そんな感じだ」


 ニヤリと笑い、だがすぐに咳き込んでその笑みは消える。

 さすがにもう、ハロルドだってわかっている。

 ゲンガイ爺ちゃんは、もう長くない。

 いくら目をそらしても、その現実はずっと目の前に回り込んで、決して逃げさせてなんてくれない。わかっている。いや、わかっていた。歳を聞けば、むしろこの世界じゃかなり長生きな部類だ。


 だからって、それをあっさりと受け入れられるほど、ハロルドは出来た人間でもなければ、ゲンガイとの付き合いが長いわけでもなかった。


「……なあ、ハルさんよ」


 思考の海に沈んでいたハロルドを浮上させたのは、ふいに聞こえたそんな声だった。


「俺にはよ、子供が出来なかったんだ。そりゃ俺もまだまだ現役だったから、昔は死んじまった女房と毎晩ハッスルしたもんさ」

「……ちょっと待って、何の話だよ」

「ああ? 自慢だ。自慢。彼女すらいねぇお前にちょっとばかしの嫁自慢だよ」


 そう言って悪戯な笑みを浮かべては、やはり咳き込む。

 あまり喋らせない方が良いのかもしれない。頭の冷静な部分ではそう思っていたハロルドだが、しかしその話を止めることはできなかった。仮に止めたとしても、ゲンガイが話をやめたかどうかはまた別の問題だが。


「……だが、ついぞ子供は出来なかった。そりゃそうだ。俺と女房じゃ、生まれた世界が違う。きっと姿形が良く似ていただけで、生き物としても決定的な何かが違っていたんだろう」


 収斂しゅうれん進化、という現象がある。

 他の軌跡をたどり進化した生物が、しかし似たような身体的特徴を持つようになる現象のことだ。モモンガとフクロモモンガを一例として挙げれば、わかりやすいだろう。

 これらの生物は非常に似た形態的特徴を持つが、しかし決定的に別種であり、子を成すことは出来ない。ゲンガイが言いたいことは、つまりそういうことであった。


「おめぇもよ、もしかしたら好きな女が出来ても、子供は作れねぇかもしれん。……難儀なもんだ」

「いいよ、別にそんなことは。そんときになったら考える」

「はっ。んだな。それは、そんときになったらでいいか。……俺が言いたいことはな、つまり俺は、幸運だったってことだよ」


 ニヤリと不敵に笑うゲンガイの言葉に、ハロルドは首を傾げる。

 幸運だった、とは。


「あの刀……〈鴉〉な。お前にやる」

「……爺ちゃんが使い続けろよ」

「ガキが欲しいもん我慢してんじゃねぇよ、バカ野郎が。……いいんだ。最初っから、子供が出来たらやるつもりだった」


 俺は爺ちゃんの子供じゃねぇよ。

 その言葉は、思いこそすれ、ハロルドの口から出ることはなかった。


「あれは、俺の意志だ。俺の生きる理由だ。生きる理由ってことは、戦う理由ってことだ。……託してやるよ、お前に。意志を託すとかよ、燃えるだろ? お前は単純だからな」


 燃えねぇよ。

 そういうのは、実力で勝ち取って、それからだから燃えるんだ。

 俺はまだ、爺ちゃんに勝ててねぇよ。


「そこまで俺は単純じゃねぇよ」

「ああ、そうか? はっは! 馬鹿言え、くそガキ」


 ドン、と、布団から出していた腕で胸を叩かれる。

 何度も何度も振り下ろされてきた、拳骨。

 もうそれは、全く痛くないほどに、弱々しいものになっていた。


「……んじゃ、俺ぁ寝る。まだまだ寒いからよ。明日も薪集め、頼むわ」

「ん……おお。任せろ」


 ゲンガイはそう言って目を閉じた。

 珍しく、明日の話なんてものをして。

 それは、きっとハロルドを安心させるためのものだったのだろう。

 現にハロルドは明日のことを考えて、何の疑問も抱かずに、自分の部屋へ行き、眠って朝を迎えた。






 翌朝。ゲンガイは眠るように息を引き取り、もう冷たくなっていた。

 享年86。老いと寒さによる衰弱死であった。

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