第37話 危機

 部屋に残った三人は、エリザベスによって開け放たれたままの扉を見つめたまま、誰も声を発することなく、ただただ重苦しい空気を身に纏っていた。

 なかでもニコルなど酷いもので、自分の判断で主を追い掛けることはやめたものの、しかしまだ追い掛けるべきなのではと逡巡している様子で、項垂れ唸っていた。


「…………はぁ」


 そんな重苦しい空気と沈黙を破ったのは、ハロルドのため息だった。

 ハロルドはため息を溢してから、行き場を無くしたようにエリザベスに振り払われたままでいた手を持ち上げ、頭をガリガリと掻くと、


「あーあ。……ヌレハ、頼むわ」


 と、ヌレハに対し端的に、エリザベスがどこに向かったか、何をしているかの探知を頼む。

 それはわかる。わかったが。


「っ!! あんたねぇ!!」

「うがッ!?」


 その如何にも「あーあ、めんどくせぇ」と言わんばかりの態度がさすがに目に余り、ヌレハの癪に障った。

 

 一気に頭に血がのぼった勢いそのままに、ハロルドの顔面を思いきりぶん殴るヌレハ。

 どれだけ力を込めて殴ったのか、身体能力や頑丈さに関しては化け物に分類されるハロルドですらいくつかの椅子を薙ぎ倒しながらよろめき、そのままドタンと床に尻餅をつく。


「えぇっ!? 今度はこっちですか!? 何なんですか、もうっ!!」


 その物音に肩を跳ねさせたあと、ごもっともな抗議を大声でもの申すニコル。

 ヌレハは怒りによる息切れで肩を上下させ、握った拳からポタポタと血を滴らせるだけで、その声には答えない。どうやら、殴った際の衝撃で、拳の皮が裂けたらしい。


「……ってぇな。んだよ、いきなり」


 床に座り込んだままのハロルドも、どうやら口の中を切ったらしく、その口角から赤い血を一筋流し、少々苛立った様子でそう問う。


「何だよ、ですって……?」


 その言葉に、落ち着きかけた神経を再び逆撫でされ、怒り心頭に歯を食い縛るヌレハ。


「あんた、言って良いことと悪いことがあるって、その歳になってもわかんないわけ!? あの子がどれだけあんたのことを信頼してたか、慕ってたか……それがわからないわけじゃないでしょ!」

「向こうが勝手に積み上げた信頼だろ」

「……はぁ。そうかもね。でも、それをわざわざあんた自らの手で崩す必要なんて、それこそ無かったはずよ! あんたはムキになって言う必要のないことまで言って、意識的にあの子を傷つけた。そうでしょ?」

「……」


 ヌレハの問いに、沈黙を以て答えるハロルド。それは暗に肯定を意味していた。


 もちろん、抗議の気持ちの一つや二つは当然ある。例えば、その信頼に応える義務なんて持ち合わせていないことや、言ってしまえば、頭に血がのぼっていたため「傷つけよう」などと考える余裕もなかったこと、などなど。


 だが、その抗議をハロルドは口にしなかった。

 何故なら、確かに腹が立ったのは事実で、必要以上にエリザベスを責め立てたのも事実。それ以前として、彼女の行動を頑なに律していた理由に私情が含まれていたことを、ハロルドは強く否定できなかったからだ。

 その感情が、五つも年下の女の子に向けるには、いささか不相応なものであることも、心のどこかではわかっていた。


「あとで謝りなさいよ。それくらい、あんたにも出来るでしょ」

「……ああもう、わあったよ。チッ。顔面殴られて叱られるなんて、いつぶりだか」


 だから、ハロルドは手厳しいヌレハの言葉に苛立ちながらも素直に従い、ぽんぽんと尻についた埃をはたき落としながら立ち上がる。


「にしても、随分と熱く王女様の肩を取り持つんだな。よっぽどお気に入りか?」


 だが、流石になにも言い返さないのは溜飲が下がらないというもの。軽めの意趣返しとばかりに、からかうような声色と表情で、ヌレハにそう言ってのける。

 とはいえ、さっきは珍しくも相当頭に血がのぼっていたヌレハも、もうすでに普段通りとは言えずとも平静を取り戻しているので、


「そうね。確かに、エリザベス様のことは、自分でもビックリするくらいには気に入ってるわ」


 ハロルドの健闘むなしく、飄々とそう受け流されてしまう。


「あっそ」


 ハロルドが不満げにそう言い捨ててから、少しの間、沈黙が訪れる。

 ニコルもどうやら喧嘩は落ち着いたようだと判断し、ハロルドが倒れる際に薙ぎ倒された椅子と位置がずれたテーブルを直している。自分で直せ、という感情が湧きもしていないあたり、従者としての生活が板についているようだ。

 そんななか、


「……あんたはさ」


 ふと、ヌレハが、ぽそりと言葉を発した。が、それ以上言葉が続くことはなく、言うべきか悩んでいる様子で口ごもる。そして結局、


「……何でもない」


 と締められてしまう。


「え、いやいや。そこまで言われたら気になるから」

「……」


 だが、変なところで引っ込もうとしても、声をかけられた本人からしたら気になるというもの。当然ハロルドは続きを促す。

 それでも眉を顰めて一瞬だけ逡巡した様子を見せたヌレハだが、はぁ、とため息ひとつに「じゃあ、言うけど」と前置きした上で、ぽつぽつと語り出す。


「あんたはきっと、エリザベス様に……あの子の行動に、昔のあんたを重ねてるんでしょうね。無理無茶無謀は承知の上。策を弄する前にまず行動。いつでも心のままに、ただ実直に正しいと思ったことを貫く。……ほら、昔のあんたにそっくり」

「……」

「だから、あの子のことをあんたがそこまでして止めたい気持ちも、わからないとは言えないわ。……私にもまぁ、覚えはあるしね」


『あんたはいつか、その身勝手で不用意な行動のしっぺ返しを、絶対に受けることになる。……いや、あんただけじゃない。周りの人も巻き込んで、その全員を不幸にする。そうなってから後悔したいの?』


 その台詞は、かつてハロルドがヌレハからかけられた言葉だった。

 その台詞を思い出したハロルドは、失笑を溢す。まさしく彼女の言うとおり、今現在躍起になってエリザベスを止めようとしてる自分の姿そのままだったからだ。


「……でもね」


 笑みを浮かべたハロルドを見て一瞬だけむっとしたヌレハだが、言及はせず、会話の続きを紡ぐ。


「でも、エリザベス様はあの頃の私やあんたより、よっぽどマシだと思うわよ。少なくとも、このまま突っ走っても、あんたが思ってるような悲劇はきっと訪れないと思う」

「……はぁ? そうか?」

「ま、誰かがあの子のことをあらゆる危険から護ってあげれば、っていう前提条件はつくけどね」


 不満げに眉を顰めるハロルドだが、ヌレハはそれ以上の言葉を発することはなく、会話は締め切られる。

 だからそれが条件としておかしいんだろ、という不満がハロルドのなかにもやもやと残るが、そんなことはお構いなしに、ヌレハは言いたいことを言えて満足げである。


「……あのぉ」


 そこに、会話が終わったことを察して、ずっと手持ち無沙汰に蚊帳の外で暇をもて余していたニコルが、おずおずと口を挟んでくる。

 その声を受けて、なんだ? という視線を二人が彼女に向けると、


「それで、エリザベス様はどこへ行かれたのでしょうか?」


 と、至極もっともな、しかし完全に二人の頭から抜け落ちていたエリザベスの現在地および安否について言及する。


「わ……ちょっと待ってね」


 忘れてた、と思わず言いそうになった口を閉じ、少し時間をもらう旨を伝えてエリザベスの行き先を探知するヌレハ。

 うっかりしていたことを正直に教えてしまったら、ハロルドからどんなからかいを受けるかわからない。小さなことだが、いつもからかっている相手であるハロルドに逆にからかわれることは、ヌレハのプライド的には断固許しがたいことだった。


 沈黙。

 エリザベスの探知を行っているヌレハに口出しをするのも野暮というもの。しかし二人で会話をする気にもならず、ぼうっとヌレハのことを見つめるだけのニコルとハロルド。

 そのとき、【千里眼】を使用できる本人にしかわからないが、しかし明らかな異常事態に、目を閉じたヌレハの眉間に皺がよる。


「どした?」

「……おかしい。居場所の特定に時間がかかりすぎる」


 そんなヌレハの退っ引きならない様子に素早く気がついたハロルドが、どうしたのか訊ねる。が、返ってきた答えは要領を得るものではなく、ハロルドは頭の上にクエスチョンマークを余計に浮かべる羽目になるのだった。


 これは、日常的に【千里眼】という能力を使ってきたうえに、世界級という異常な効果範囲を誇るヌレハだからこそ感じる程度の違和感であった。

 効果範囲内から視覚情報を得ることができる特殊能力、【千里眼】。使い手である彼女はその能力を使うことを『視る』と言っているが、厳密に言えばそれは間違いである。

 この能力は擬似的な目を飛ばして現場を実際に視ているのではなく、性格に言えば、能力を使ってその場の現在状況というデータを直接頭にインプットしているのだ。つまりは、世界という巨大なコンピューターにハッキングを行い、欲しいデータを奪っているようなものである。

 となれば当然、その情報が分かりやすい位置――この場合は自分の近く――にあればあるほど、ハッキングに必要な時間とエネルギーは少なくなり、自分から遠ければ遠いほど、それらはより多く必要になる。


 今回の違和感は、そこにあった。

 エリザベスが飛び出していったのはついさっき。まだ30分も経ってはいないだろう。それから走ったとしても、エリザベスの足ならばそれほど遠くにはいけない。それこそ、この街から出ることすら叶わないだろう。

 であれば、【千里眼】で情報を得るのに、そこまで長い時間など必要ないはずなのだ。

 少なくとも、このように数十秒もかかるはずがない。それだけの時間があり、探知の対象をエリザベスというよく知る人物一人に絞り、ヌレハの探知速度をもってすれば、探知可能範囲は優に王国全域にまで及ぶ。


 だが、それでも見つからない。

 それはつまり――


「……なっ!」


 ――エリザベスが、少なくとも王国の領土には居ないことを意味していた。


 ようやく探知に引っ掛かり、ヌレハの脳裏に映し出されたエリザベスの姿。

 その姿を見て、一瞬でヌレハの顔色が青白く変色する。


「ん? おい、何が」

「ちょっと待って!! 黙って!!」


 その変貌ぶりに慌てて何が見えたのか訊ねるハロルドだが、それに被せるようにヌレハの大声が轟く。その明らかな異常事態を伝える様子に、ニコルの顔も青ざめてくる。


 【千里眼】によって映し出されたエリザベスの姿は、ヌレハの冷静さと血の気を一瞬で失わせるほどには異様であった。

 暗い石造りの部屋。窓一つない部屋の様相から、

おそらく牢屋であることが予想できるその部屋のなかで、椅子に縛り付けられ、青白い顔でぐったりと項垂れ、見る限り確実に意識はないエリザベス。

 そして何よりもヌレハの冷静さを失わせたものは、エリザベスが縛られている椅子の、その後方。壁一面に血を思わせる赤いインクでデカデカと書かれた、奇妙な文字であった。


 青白い顔で身動きひとつしないエリザベスに、もし人一人から取られた血であれば確実に致死量であろう、壁文字に使われている赤いインク。

 それをセットで見せられて、まずエリザベスの死を想像してしまっても、それは無理からぬ話であった。


 必死にエリザベスの様子を視続けるヌレハに、邪魔してはならぬとハロルド、そして本当は気が気でないだろうニコルが、固唾を飲んで見守る。

 そのとき、微かにだが、エリザベスの胸が呼吸により上下していることを、ヌレハは確認する。


「はっ。……はぁ……。よかった……。良くないけど、最悪の事態は避けられたみたい……」


 それにより、少なくともエリザベスの生存を確認できたヌレハは、いつの間にか止めていた息を安堵と共にゆっくりと吐き出す。


「何が……エリザベス様は、どこにいらっしゃるのですか……?」


 あわやそのまま椅子にもたれ掛かりそうな様子の安堵を見せるヌレハに、ようやく口を開けたニコルが詰め寄る。


「……ここは……」


 その質問を受けて、そういえばと慌てすぎて気がまわっていなかった、エリザベスの所在地の座標を確認したヌレハは、


「カラリスとモルネイアの国境にあるリラ湖。その湖の中心にある、湖上要塞みたい」


 確認したエリザベスの居場所を、ニコルに伝える。


「な……っ! なんで……、なんでそんな場所に!?」

「ちょっ、離して。揺らされてもわかんないわよ!」

「お、おい。ちょ、落ち着けって」

「これが落ち着いていられますかっ!!」


 その瞬間、我を失ってヌレハの肩に掴みかかり、がくがくと揺するニコル。

 すかさず眉を顰めたヌレハがそれを鬱陶しそうに振り払い、ついでとばかりにハロルドに制止させられる。が、だからといって主のピンチに落ち着けるわけがない。

 尚も鼻息荒く、行き場のない焦りの気持ちにより、冷静さを取り戻せずにいた。


「エリザベス様が出ていったのはついさっき! そんな短時間で、リラ湖!? ここから馬車でも、飛ばして一週間はかかりますよ! 何でそんな場所に、いつの間にか行っているのですか!?」

「そんなの、私も知りたいわよ!」

「……でも、たしかに、何でだ?」

「はぁ!? だから、私だって……!」

「ああいや、そうじゃなくて」


 行き先のない気持ちの捌け口にされ、こちらも少々苛立ってくるヌレハ。ヌレハとてエリザベスが現在のところ死亡してはいないことが確認できたから多少は冷静でいられるだけで、だからといって安心できる状況じゃないことくらいわかっている。

 そして、何故エリザベスがそんな短時間で遠くまで行けて、そしていつの間にかピンチになっているのかは、当然ながら彼女にもわからない。


 そんな不毛な状況で言い合っているうちに徐々にボルテージの上がっていく二人のやりとり。その合間にふと、ハロルドがぽそりと口を挟む。

 そして、


「王女様もこれを身に付けてるんだから、なんかありゃすぐにお前に知らせが届くはずだろ? なのに大人しく拉致されたからさ。何でだろうなって」


 と、己の右手中指にはまっているシルバーリングを指して、疑問を口にした。

 それを聞いて、そう言えばそうだ、という表情を浮かべるヌレハと、それどころじゃないだろうと焦るニコル。

 ある種場違いとすらとれるハロルドの疑問。だが、その答えはすぐに、思わぬ方向からもたらされた。


「ちょっといいか?」


 開いたままの扉を律儀にノックし注目を集めてから、そう声をかけてきたのは、くの一メイド、シルヴィアであった。


「これが廊下に落ちていたのだが……。勘違いじゃなければこの指輪、エリザベス様が身に付けていたものだよな?」


 手に握っていた指輪を見せて示しながら、確信めいた口調で確認をとるシルヴィア。彼女の掌に乗っている紐が通されたシルバーリングは、間違いなくヌレハがかつてエリザベスに渡したものだった。


「……マジか」

「あんの……じゃじゃ馬!!」


 ぽつりと頭が痛そうに感想を漏らすハロルドに、さっきとは打って変わって今度は真っ赤な顔で怒りを露にするヌレハ。

 ニコルに関しては、そろそろ女性として出してはならぬアレコレを垂れ流しそうな勢いの絶望をその顔に宿している。

 床に落ちていたシルバーリング。それもシルヴィアが拾ったということは、廊下にでも投げ捨ててあったのだろう。もしかしなくてもこれは、頭に血がのぼったエリザベス自身が、八つ当たり気味に捨てていったことを意味していた。


「……何があったんだ。何やらドタドタ暴れる音が聞こえたあと、エリザベス様が慌ただしく寮を出ていったが……」

「端的に言うと、ピンチだ」

「……どういう意味だ?」


 その一同の不穏な空気を感じとり、眉を顰めて何があったのかを訊ねるシルヴィアに、ハロルドが極々端的に答える。が、それ以上の追求には答えず、ひとまずこの状況を打破するべく、唯一現地の状況がわかるヌレハに視線を向ける。


「……ひとまず、今のところ怪我をしているわけじゃなさそうで、命の危険は無さそう。他の人間の姿も、エリザベス様の周囲には無いわ。……それでも、安心できる状況じゃあないわね」

「んだな。早く助けにいくべきだ」


 その視線を受けて阿吽の呼吸でハロルドが欲している情報を理解し、現地の状況を伝えるヌレハ。どうやら一刻の猶予もない、というわけではなさそうだが、それにしたって安心できない。


 余談だが、ハロルドが危機感を感じつつも落ち着いていられるのは、ヌレハの転移魔術を用いれば、よっぽど切羽詰まった状況じゃない限り、そっこうで助け出すことができるとわかっているからだ。

 まだそれをしていないのは、一重に現地の観察不足で、転移する上で危険がないという確信が得られていなかったからだ。

 転移魔術は転移門ゲートを事前に設置しそれを潜るという特性上、どうしても転移門ゲート設置と実際の転移との間にラグが生じる。そのうえ、当然のことながら、開いた転移門ゲートにより、その設置場所付近に居る者に必ず魔術を察知される。なので、そのラグの間にエリザベスに危害を加えそうな人物が彼女の近くにいた場合、直接その場に転移門ゲートを繋げるのは得策ではないのだ。


 だが、今回はどうやらそっちの心配はなさそうなので、ハロルドも早く助けるべきだという判断を下す。


「そうね。じゃあ、ゲートを繋げるから……っ。ちょっと待って、誰か来た。男が8人」

「は、はちっ!? それマズいんじゃねぇか!?」

「いえ、少なくとも、危害を加えるために来たわけじゃなさそう。理性的な顔をしてる。ちょっとだけ様子を見させ――っ!?」


 様子を見させて。そう言おうとしたヌレハの口が、何かを視たショックで固まる。


「ま、また何かあったのですか?」


 ただでさえ気が気じゃないニコルが、それを見て狼狽える。シルヴィアも、何も説明こそされていないものの、何やら己の主君に危険が迫っていることはわかったのか、真剣にヌレハの次の言葉を待っている。


 数秒ほど、信じられないものを視たように呆けていたヌレハだが、一度口を閉じ、ふぅー、と、心を静めるために深く息を吐く。それから訝しげにヌレハを見ていたハロルドに向き直ると、口を開き、


「手段は相変わらずわからない」

「……? おお」

「けど、犯人はわかったわ。……そして、だとしたら、あの悪趣味な壁文字は間違いなくハル、あんた向けよ」

「は?」


 頭の上にクエスチョンマークを浮かべるハロルドに、壁に書かれた奇妙な文字を、そっくりそのまま部屋にあった紙に書き写して見せてやる。


「……ああ、なるほど」

「っ!!」


 その瞬間、ドロリと、空気が粘性を持つ。

 突然息苦しくなったことに驚き、また肺の酸素濃度が急激に低下したことにより、胸に手を当てて必死に息を吸い込もうとするニコル。シルヴィアも、そこまでではなかったが、息苦しそうな青白い顔で目を見開き、ただただ、現状を作り出した元凶であるハロルドのことを見ることしかできていなかった。


 正確には、空気が突如粘性を持つことなど有り得ない。今もなお、部屋を満たす空気にはさっきから何の変化も起きていない。が、息苦しい、空気が確かな質量を持ったと錯覚するほどの気迫――この場合は完全なる殺気――を、書き写された文字を一目見た瞬間、ハロルドが思わず放ったのだ。

 ゼェゼェと呼吸を荒くし、ぞくぞくと背筋を走る悪寒に、いつの間にか起きていた身体の震えを止められないニコルとシルヴィア。


 周囲に尋常ではない殺気を振り撒き、瞳孔を開き、それでも落ち着こうと深呼吸をしたハロルドは、


「生きてやがったのか、クソニワトリ野郎……ッ!」


 ヌレハが視た、エリザベスが囚われている牢に入ってきた男たちの、その最後尾に居た男の名を。

 かつての自分を絶望のどん底へと突き落とした、人をかたどった悪魔の姿を思い出し、歯を食い縛りながら、憎々しげにそう吐き捨てた。




 ヌレハが書き写した、エリザベスが囚われている牢に書かれていた壁文字。

 ヌレハはそれを、見たことがない奇妙な文字として判断した。

 しかしそれは当然で。そこに使われていた文字はハロルドのかつて居た世界、さらにそのなかの、彼の故郷にて使われていた文字だった。

 そう。そこに書かれていた文字は、間違いなくアルファベット。

 鮮血を思わせる真っ赤なインクで、初めて書いたのだろうちっともバランスがとれていない文字で、しかしそこに書かれていたのは、間違いなく英語だったのだ。


『WELCOME BACK, MY HERO!』

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