第29話 帰省

 馬車二台を連ねて、トコトコと街道を行く王女一行。

 すでに旅は二日目を迎え、取り立てて事件が起こるでもなく、先んじて先触れを送っていたことも相まって、実に快適な旅を送っていた。


「はー……は、ハルキゲニア」

「何ですか? それ」

「古代生物、俺が元居た世界の。ほら、『あ』だよ『あ』。次はニコルだろ」

「い、いや、それは無しじゃないですか。ハロルド殿……」

「ええ。またかよ」


 どれほど快適か、というと、馬車内の四人でしりとりをするほどには、快適であった。別名、ひま、とも言うだろう。

 時々ハロルドがこの世界にはない生物名や固有名詞を言うせいで、合間合間にジャッジタイムが挟まれるものの、実に和やかな雰囲気で道中を過ごしていた。


 そんなとき、ぐぅうう~、と誰かの腹の虫が騒ぎ出した。


「はうぅ……」


 誰か、と言っても、とたんに顔を真っ赤に染めて恥ずかし気な呻き声を王女様が漏らしたせいで、誰の腹の虫なのか、一目瞭然ではあったが。


「……い、いやー! しかしお腹が空きましたなあ! おや、もうこんな時間ですか。エリザベス様、そろそろお昼休憩を取りませんか? 馬も休ませたいですし」


 気を使ったのだろう、一瞬の沈黙のあと、ニコルがわざと大きい声でそう進言する。顔に浮かんでいる冷や汗と引き攣った笑みが無ければ、実にスマートな対応であった。


「そそ、そうですね。はい。それじゃあ、そろそろ休憩を挟みましょうか。ええっと、停まって休めるようなところはありそうですかね……」


 顔を紅潮させたまま、こちらもオドオドとしながら、窓から外を眺め、きょろきょろと辺りを見遣るエリザベス。

 停まって休める場所などと言っても、今現在彼女らが通っている道は多少開けた草原に引かれた街道。少し外れれば木が生い茂る森にはなっているものの、停まろうと思えばいくらでも場所は確保できそうだった。

 そのため、とくに駐車するに問題がないと判断すると、前を走る馬車に「休憩にします!」と告げるべく、口をパカリと開く。しかし、その瞬間――


「報告します! 前方、街道から外れた森付近に横転した馬車が二台! ハウンドと思われる犬が数匹群がっています!」


 前方の馬車がいち早く異常を察知し、その連絡を受けた御者を務める兵士から報告を受ける。

 そしてその声にハロルドも少しだけ腰を上げて窓の外を見ると、なるほどその通り、街道からは外れているものの、目視できる距離にて馬車が二台横転している。そこに群がるは見ただけでも5匹は居るだろう大型犬。その身から迸らせる微かな魔力の光を見れば、その犬たちがただの野犬ではないだろうことが一目瞭然であった。

 何かを一心不乱に咀嚼しているのであろう、その場に留まり頭を上げ下げする犬たち。口元は赤黒いネバネバで汚れきっており、あの場にどんな無残な光景が広がっているのか、遠くから見ていても想像に難くなかった。


「なるほど、ありゃハウンドだな。おまけに型は大型犬だ。あんだけ居たら厄介極まりないな」


 ハロルドもそう判断を下す。ハウンドとは犬型の魔物の総称で、当然モデルとなる犬に犬種というものがあるのと同様、ハウンドにも体の大きさなど、個体によって違いがある。

 そして今回、横転した馬車に群がっているなかには大型犬であろう、力強そうな個体が数匹見受けられる。こういう場合の対処は、


「と、停まっ――」

「おい、走れ! 多少馬に無理をさせても、この場を早く離れるぞ! やっこさんが食事に夢中のうちに抜けろ! おら、早く早く!」

「ハロルド様っ!?」


 面倒ごとは避け、逃げるに限る。

 「停まれ」と口にしそうだったエリザベスにかぶせるよう、前方を走る馬車と自分が乗っている馬車を操る御者に大声で指示を飛ばすハロルド。

 そしてその指示はしっかりと行き届いたようで、とたんに馬車はぐんと速度を増す。それまでは、急ぐ旅でもなく、馬のことも気遣っていたため、かなりゆっくりと走っていたのだ。その上昇速度はすさまじく、中腰のまま何にも掴まっていなかったエリザベスは「きゃっ」と小さな悲鳴をあげてよろめき、座席に腰をぶつけていた。


「そんな、何でっ!?」

「エリザベス様、座ってどこかに掴まっていてください!」

「ニコル!?」


 しかしまたすぐに立ち上がり、あわや飛び出して行ってしまうのではという剣幕で扉についた窓に寄ろうとするエリザベスを、ニコルが多少無理矢理に座席へと引き戻し、立ち上がれないようやんわりと拘束する。

 「ぐっじょぶ!」という視線をニコルに送ったハロルドも、馬車の座席に深く腰を下ろし、しかし油断なく外の景色を観察し続ける。

 幸い、距離が離れていたのもあり、そこに潤沢はエサがあったのもあり、ハウンドたちはこちらに一瞥すらくれず、被害ゼロでその場をやり過ごすことが出来た。

 そう、肉体的な被害はゼロで。


「どうしてっ! どうしてですか!?」

「……『どうして』って、何がだよ」

「い、今なら助けられたかも……生きている方が居たかもしれないんですよっ!? なのにこんな、見捨てるような真似……」


 ぐんぐんと遠ざかっていく、横転した馬車。それをじっと見詰めていたハロルドに、エリザベスは悲しみのこもった瞳と、抗議の声を向ける。

 彼女は信じられなかったのだ。『助けられなかった』ことではなく、誰も『助けに行こうとすらしなかった』ことに。だからこそ、心のどこかでは筋違いだとわかっていても、そんな抗議を口にせずにはいられなかった。


「はあ、なるほどね……。ヌレハ。生きてるヤツは居たのか?」


 しかし、そんな抗議の問いを投げかけられたハロルドは、実に冷めた声色と瞳で、ヌレハにそう訊ねる。


「……」


 ヌレハはその問いに対し、眉を顰めて一瞬答えるべきか逡巡したような素振りを見せた。が、すぐに深くため息を吐くと、


「……居たわよ。一人、生きてる人が」

「――っ! じゃ、じゃあ!」

「ただ、両足を喰いちぎられて、失血のせいで意識も朦朧として、助けを求める声すら上げられない状態を、『生きている』と言えるのならばね」


 実に残酷な、一つの真実を口にする。

 その事実は、『生者は居なかった』という情報よりも、ある意味では鋭く、エリザベスの心を引っ搔いた。


「そんな……。で、でも……」


 しかし、それでも彼女は諦めきれなかった。ハウンドを追い払ったところで、その者が生き永らえることが出来たか、わからない。だが、助けられた可能性はゼロではない。その事実がまたエリザベスの正義心に爪を立て、傷をつける。何が正しかったのか、わからなくさせる。


「……なあ、あんたはいったい誰なんだ?」


 そんななか、冷めた視線と共に寄越される、ハロルドの問い。


「……は? え……だ、誰、とは……?」

「あんたは、いったい『どこ』の『どんな立場』の、『何者』なんだ?」

「わ、私は……カラリス王国の、第二王女、エリザベス・フルード・フォン・カラリス、です……」

「そうだ。あんたは王女様だよ。大切な大切な、替えが効かない、たった一人だけの第二王女様だ」


 じっと突き付けられるハロルドの視線から逃れられず、目を離すことすら叶わず、息を荒げて彼の言葉にただただ耳を傾けるエリザベス。


「いいか、先に言っておくぞ。もしもあんな風に見ず知らずの誰かさんが魔物に襲われている、まさにその現場に立ち会ったとしても、俺は今回と同じ判断を下した。『助ける』ではなく『逃げる』判断を、だ」

「……え? だって、襲われてすぐだったら、助けられるじゃ……」

「助けることが可能かどうか、じゃない。俺は助けに行かないと言ってんだ」

「な、何でですかっ!? だ、だって、ハロルド様なら……ハロルド様ほどのお力があれば――!」


 ハロルドからの冷たい言葉に、エリザベスは信じられないとばかりに食って掛かる。

 彼女が信頼するハロルド。とても強く、どんな困難からも自分を護り抜いてくれるハロルド。そんな彼が、困っている人を「助けにいかない」と明言した。

 いったい何故かと。ハロルドほどの力があれば、あの程度の魔物の群れは屁でもないだろう、と。

 しかし――


「……つまり王女様は、自分のことは放っておいて、見ず知らずの他人を助けろと、自分の護衛に向かって頼むわけだ」


 それに答えるハロルドの言葉は、どこまでも冷たくて。それどころか、静かな怒りすら感じられるほどに、鋭かった。


「助けられたかもな、確かに。ハウンド如きの魔物が数匹居ようが、確かに追い払うのは苦じゃねえよ。でも、もしもその間に、俺から見えない方向から王女様を狙う他の群れが来た場合、対処できるかはわからねえ」

「そ、そんなこと……」

「無いって? 確かに、可能性は低いだろうさ。魔物の群れが何個も一ヶ所にある可能性も、畳み掛けるようにそれらが襲ってくる可能性もな。……でも、ゼロじゃない」


 畳み掛けるように、ハロルドは言葉の刃でエリザベスの心をえぐる。

 このころにはもう驚異は去ったと判断されたのか、馬車の速度は相当遅くなっており、まるで歩くようなスピードで、カタコトと場にそぐわない小気味の良い音を立てて進んでいた。


「見ず知らずの誰かを助けるために、護るべき主を護れないなんて、本末転倒だ。取捨選択ってやつだよ。ときには捨てることも必要なんだ。王女様だからこそ、そういう判断は誰よりも磨くべきだと、俺は思うぜ」


 命の重さに違いはない、などという言葉がある。その言葉は、ある意味では正しいだろう。しかし同時に、ある意味では正しくない。

 この場合も、正しくないのだ。ハロルドが護るべきは、エリザベスの命。つまりはこの国の王女様の命なのだ。例え彼女からの命令であったとしても、それは彼女の命を危機に晒しても良いということには繋がらない。

 本来であれば、こういう判断は自分で下すべきなのだ。王女としての自覚が、本当にあるならば。自分は唯一無二の存在で、例え他者を食い潰し踏み潰しその屍の上を横切ろうとも、生き抜かねばならないと。

 しかし、エリザベスはそんな判断を下さない。救える可能性があるのなら、自分の命を顧みず、飛び出して行ってしまう。

 それはある意味、彼女の美徳だ。王女らしからぬその行いは、ときには民の支持を集め、信頼をその手にすることができるだろう。しかし同時に、それは彼女の危うさでもあった。それは、彼女が自らの正義心に折り合いをつけることが出来ていないことを意味するからだ。


「助けられる力を持っているからって、必ずしも助けられるとは限らない。力があるからこそ、俺は必ず助けられるヤツを助ける。そう決めてんだ。今回の場合は、王女様の命を最優先って感じでな」


 だめ押しとばかりに、ハロルドはそう付け足し、それっきり、会話は無くなる。

 エリザベスは意気消沈と顔を伏せ、悔しげに唇を結ぶのみ。ニコルは困ったようにエリザベスを見つめ、しかしハロルドの言ったことはまさしくニコルが思っていたエリザベスの危うさそのものであったがために、下手な慰めをかけることが出来なかった。

 ヌレハはと言えば、


「……あんた、言い過ぎ」


 一言だけ、不機嫌そうにそう言うのみであった。


 程なくして、二台の馬車は安全そうな開けた場所に停車し、昼休憩をとることになった。馬車を引く馬たちの疲労が無視できない程に溜まったのである。

 腹減ったあ、などと呑気なことを口にしながらもう一台の馬車から降りてきた兵士たち。後続の馬車内のお通夜のようなしみったれた空気を見て、一瞬で目を背けると、そこらに腰かけて、アシュリーが配った食事を取り始める。

 実に迅速で懸命な判断であった。触らぬ神に祟りなし、ということである。


「……んじゃ、俺は気晴らしに外で飯食ってくるわ。ヌレハはどうする?」

「あんたについてくわ」

「あ、そ。王女様は?」

「……私は、馬車のなかで食べます」

「ん、わかった」


 完全に項垂れ、元気を無くしたエリザベス。そんな彼女を見て、必要だと思ったから言ったことだが、確かに熱くなって言い過ぎた、とハロルドも少し反省した。

 エリザベスの隣に居るニコルに「頼んだ」という意味を込めた視線を送ると、頷きが返ってくる。彼女はエリザベスの傍を離れないようだ。


「……はーい、エリザベス様ー」

「ありがとうございます……」


 ハロルドたちが外へ出てすぐ、アシュリーが昨晩泊まった村で買っておいたサンドイッチを手渡してくる。

 それを頑張って作った笑顔で受け取るも、やはり無理なのか、すぐに悲しそうな表情になって目を伏せてしまう。

 アシュリーもそんな彼女を心配そうに見詰めたものの、自分にはどうしようもないと判断して、ニコルに任せて馬車の扉を閉めた。


「……エリザベス様」

「大丈夫です。……わかってます。ハロルド様が私に言ったことは、全部正しいことだってことくらい」

「……」


 そう、わかっているのだ。

 ハロルドが口にしたことは、誰でもやっていることなのだと。彼が言ったことは、残酷なほどに、全て正論なのだと。


「わかって、いるんです……」

「エリザベス様……」


 だが、理解したからと、納得できるわけではない。ハロルドが正しいとわかるからといって、諦めきれるわけではない。

 言葉と共に、悔しさから遂にポロリと溢れた一滴の涙が流れるのを、エリザベスは堪えることが出来なかった。

 それを見て、ニコルはただただ隣にいて、黙って彼女の手を握るのみであった。

 ほんの少しだけ、自分が着込んだ鉄の鎧の冷たく硬い感触を、恨みながら。

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