第26話 一発④

「すまない、どいてくれ」


 誰もがもうもうと立ち込める土煙に我を失った顔を向けるなか、最も早く立ち直り言葉を発したのは、エリックだった。

 彼は目の前にいる邪魔な生徒をぐいと押し退けると、魔力枯渇の症状でふらつく足取りのまま、土煙のその中心に向かって歩を進める。

 しかし、そんなエリックよりも再起動こそ遅かったものの、我に返ったクロエが別方向から、


「エリー! ハロルド! 無事っ!? 無事なら返事してー!!」


 と砂煙に向かって叫ぶ。。

 冷や汗をかいて本気で焦った様子のクロエ。だが、そんな彼女の切羽詰まった問いかけに返ってきた言葉は、


「げほっ、ごほっ。おえっ。口のなかジャリジャリだ……」


 という、実に気の抜けた声だった。


「ああー、無事ですよーっと」


 クロエに無事を伝えて安心させるために、そんな言葉を改めて返すと、魔術が苦手ながらも発現させたそよ風にて、立ち込める砂煙を払う。

 砂煙が晴れたその中心地にいたのは、茶色い砂粒を一身に被ったらしいハロルドと、そんな彼に覆い隠されることで難を逃れたらしいエリザベス。


「王女様、怪我無ぇか? ……ん、ダイジョブそうだな」

「私は大丈夫ですけど、は、ハロルド様は……!」


 一歩引いてエリザベスの全身をチロリと見てから、防ぎきれずに積もった砂粒を、彼女の頭をぺしぺしと叩いて払う。無礼極まりない行為だった。


「あ、スカートの端がちょっと焦げてら。ごめんな、ここまでは気が回らなかったわ」

「そ、そんなことはどうでも……」

「あーあ。高そうなドレスだもんなあ、それ。俺の手持ちで弁償できりゃあ良いんだけど……」

「だ、だからっ! そんなことはどうでもいいのです!!」

「え、いや、どうでもいいってことは無いんじゃ……」

「どうでも! いいんですっ!!」


 何やら王女様はお冠の様子で、顔を紅潮させて唇をキュッと結びながら、ハロルドにぐっと肉薄する。

 そんな彼女から戸惑いつつも反射的に一歩後ずさったハロルドだか、エリザベスはさらに一歩近付くことで、結果的に彼らの間の距離は触れ合うほどに接近した。


「ハロルド様は……ハロルド様に、お怪我はありませんかっ? わ、私はハロルド様に護っていただけたので大丈夫ですが……だって、ハロルド様はあの火の玉を背中で――っ!」


 そのまま涙目でハロルドの身体の心配をするエリザベスだが、途中で何かに気付いた様子で、バッと素早い動作でハロルドの後ろに回り込む。

 そこには、焼け爛れたハロルドの背中――


「えっ……え、無傷、ですか?」

「なんだ、俺の心配してたのか。ダイジョブだよ。あの程度だったら、雨みたいに降っても耐えられる」


 ではなく、全く無傷、それどころかマントすら焼き焦げていない、あくまで砂で汚れただけのハロルドの背中があった。


「な、何でですか……?」


 その砂を払いつつ無事も確認する目的で、恐る恐るだが、ぽふぽふとハロルドの背中を叩くエリザベス。ハロルドの無事を自分の手で改めて確認する。

 結果として、本当に怪我一つ負っていなさそうだ、ということがわかる。だが、無事だと気付いた安堵よりも、何故火傷ひとつ負っていないのか、というところに疑問を抱くエリザベスは、眉根を寄せて不可解という表情を浮かべていた。

 そんな彼女に、「そりゃ、俺が頑丈だからだよ」という適当極まりない返答をしたとき、


「エリー、ハロルド! はひー、はひー。よかったあ。無事だった……」


 そこに、ハロルドとエリザベスの姿が見えてから全力で駆けつけたらしいクロエが、ゼエゼエと息を荒げながら到着する。


「クロエ、心配かけてごめんなさい……」

「てか、お前が大丈夫かよ」

「うるっ、さい。馬鹿ハロルド……っ!」


 膝に手を置いてひーひーと必死に酸素を取り込むクロエが逆に心配になるハロルド。だがそんな彼女から返ってきたのは、いつもどおりの可愛らしい罵倒だった。


「エリザベス王女殿下……! ご無事で何よりです」

「え、エリックさん……」


 と、そこに、ふらふらと歩いてようやく到達したエリックも、エリザベスの身を案じながら合流した。


「ハロルドも、大事ないか? お手柄だったぞ。お前は今、国を救った」

「大袈裟だな。……っつーか、お前はおとなしく座ってろよ。ふらふらふらふら、危なっかしいわ」

「ああ、ははっ。これはすまない」


 頭の重さに翻弄されるようにふらついているエリックの肩に手を置いて支えながら少し歩かせ、演習場を囲う障壁を背もたれにするよう、地面に腰掛けさせる。

 何で逆に心配になるようなヤツらばっかりに心配されるんだろう、なんて疑問を抱きながら。


「ハルさん、ありがとうございます。坊ちゃま、大丈夫ですかな?」

「坊ちゃまは止めろ、爺。大丈夫だ。すぐに治る」


 ハロルドがこじ開けた障壁の大穴から演習場内部に入ってきたロバートがエリックに歩み寄るのを見て、こっちは大丈夫そうだとエリザベスのもとに戻ろうとするハロルド。

 そんな踵を返した彼が目にしたのは、いつの間にかエリザベスの傍らに佇んでいるヌレハの姿と、エリザベスの目前まで早歩きで向かうが否や、素早く片ひざを地につけてその場にかしづき、


「ご無事で何よりです! そして、申し訳ありませんでした!! エリザベス王女殿下!!」


 と、声高に謝罪するヘイゼルの姿だった。


「えっ、えっ」

「此度の事態、一重に私の不徳が致すところに思います! 如何様の処罰を下されようと、甘んじて受け入れる所存にございます」

「ちょっと待ってくだ……、処罰? え、何? 何が起きて……?」


 いつもの適当極まりない口調とは打って変わり、王の御前かのように大仰な言葉遣いにて謝罪するヘイゼルに、他でもない目の前のエリザベスは困惑を隠せない。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、口を開けば「えっ」という戸惑いの音を漏らしている。


「そりゃ、王女を消し炭にしかけたんだもの。授業内、不測の事態とは言え、監督不行き届きで打ち首でも文句は言えないわね」

「う、打ち首っ!?」


 全くもって興味無さげに淡々と紡がれたヌレハの言葉に、エリザベスは素っ頓狂な声を上げる。その声によりしんと静まり返っていた場がにわかにざわつきだし、皆一様に不安そうな表情を浮かべる。


「はい。私の首でしたら、何なりと」

「い、いえいえっ。そもそもですね……」

「ですが!」


 ヘイゼルは演習場の一角、そこに尻餅をついてオロオロと狼狽える生徒を指し示し、


「彼のことは、どうかご容赦いただけないでしょうか」


 と言うと、再び深々と頭を下げる。

 当の小太りな男子生徒は、皆の視線が自分に集まったのがわかると、「ひっ。す、すいませんっ! ごめんなさいっ! わざとじゃ……わざとじゃなかったんですっ!」と、ぬるぬるした脂汗をかきながら、誰にと無しに謝罪しはじめた。

 どうやら、彼こそが、あの火の玉を放った犯人らしい。

 顔面を蒼白させ、瞳を忙しなく動かしながら頭を何度も上げ下げするその姿は、こんな状況でなければ、笑みを誘える滑稽さではあった。


「彼は私が課した課題にひたむきに取り組んだだけなのです。どうか、処罰は私だけに。彼は不問にしていただけないでしょうか」


 ヘイゼルの、静かながら熱い気持ちの籠った言葉。

 その言葉はにわかにざわついていた広場にも不思議と凛と響き、誰ともなしにごくりと唾をのみこむと、自然と目線はエリザベスへと集中した。

 ここで、彼女の発した言葉により、彼ら二人に対する処罰が決まる。

 まるで裁判の最終判決が下る瞬間のような緊張感が広間を充満したころ、口を開いたエリザベスは――


「えっと、そもそも、私は怪我をしていないので、そんな処罰とか……特に怒ってるとかもありませんし。だ、大丈夫ですよ……? 私がふらふらと変なところを歩いていたのも、原因のひとつではありますし……。だ、だから、お顔を上げてくださいませんか……」


 相変わらずおろおろと狼狽えたまま、「お咎めなし」という判断を下した。というか、何が起きているのか、いまいち把握できていない感じであった。


「ご温情に、感謝の言葉もございません。ですが、流石に処罰なしでは、示しがつかないかと」

「え、だ、駄目でしょうか……?」

「……いいんじゃない? 別に法的な場でもないし、見ていたのも私たちだけ。本人が気にしてないんなら、皆で見なかったことにすればそれで解決よ」

「じゃ、じゃあ! 私は気にしていませんので、大丈夫です! 皆で見なかったことにしましょう!」


 花が咲いたような笑顔で事件の揉み消しを勧めるエリザベス王女。そのシュールさに、傍らで助言したヌレハは静かに笑っていた。

 そんな彼女らの様子を、相変わらず片膝は地に着けた姿勢で、顔だけ上げたヘイゼルは少し呆然と見つめる。だがすぐにはっと我に返ると、


「はっ。ありがとうございます。せめて、改めて謝罪を。……マシュー、こっち来い」


 すっくと立ち上がり、犯人である小太りの少年、マシューを手招きにて召喚しようとするヘイゼル。だが、マシューは「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、よりその顔から血の気を失わせただけだった。どうやら、話を聞くどころではなかったらしい。

 そんな彼に、ヘイゼルは「大丈夫だ」と柔らかい笑顔で伝える。そうしてようやく、相変わらず顔色は悪く、周りをきょろきょろと忙しなく見渡しながらではあるが、マシューはその腰を上げる。

 そして歩み寄ってきたマシューとヘイゼルが二人で並ぶと、


「この度は、誠に申し訳ありませんでした!」

「す、すす、すいませんでしたぁ!!」


 と、二人そろって腰を90度曲げ、深々と頭を下げた。

 彼らからの誠心誠意の謝罪を受け取ったエリザベスは、一度目をつむり、ふうと息を深く吐く。そうしてざわついていた心に静寂を取り戻してから目を開き、頭を下げる彼らを見据える。


「その謝罪を受け入れます。此度の件は不運が重なった事故であると判断し、お二人の処罰については、私からは不問と致します。以後、このような事故が二度と起こらぬよう、より一層の注意を払うようにしなさい」


 王族として。王女として。高飛車な物言いで彼らを諌めたあと、


「私も、気を付けるようにします」


 ふっと表情を緩めそう言った彼女は、いつも通りの、学園一年生のエリザベスの顔に戻っていた。


「はっ!」

「はいっ!!」


 切れの良い返事にて、その言葉に答えるヘイゼルとマシュー。

 そうなってようやく気が抜けたのか、ふひゅーと変な息を吐いて思わずへたりこみそうになるマシューを、ヘイゼルがさりげなく支え、優しい笑みでぽんぽんと背中を叩いてから、二人して踵を返す。

 この件については一段落ついたのだと、緊張していた場の空気が弛緩する。

 だが、その瞬間――


「え……。それだけ、ですか……?」

「エリー……?」


 去り行くヘイゼルたちの背中にかけられたエリザベスの言葉。その言葉は、隠しきれない失望の色を孕んでいた。

 普段の彼女からは想像も出来ないような、冷たい声。最も近しい友人であるクロエは、そんな彼女の声に真っ先に戸惑いの声を発した。


「……『それだけ』、とは?」


 王女の言葉の真意がわからず、振り返ってそう訊ねたヘイゼルの顔からは、明確な困惑が見てとれた。

 事実、本当に何のことなのか、ヘイゼルはわからなかったのだ。この件については不問。今さっきそう言ったのは、他でもない目の前のエリザベスである。だからこそ、彼らは彼女に背を向けたのだ。

 心変わりでもしたのか、と勘繰るヘイゼル。だとしたら、手のひら返しが早すぎるだろう、と。

 眉根を寄せて本気で理解できていない様子のヘイゼルを見て、エリザベスはその顔に怒りの色を宿す。しかし、深く深く呼吸することでなんとか平静を保とうとしながら、その口を開く。


「私はあくまで、『私からは不問にする』と言ったのです」

「……? は、はあ……」

「……みなまで言わせないで下さい。先生……っ!」


 ぎりっと歯を食い縛り、どうにかこうにか怒りの吐露を抑えるエリザベスは、それでも堪えきれなかった怒りに吊り上がった目でヘイゼルを見据える。

 これ以上口を開けば、怒鳴り散らしてしまいそうだった。だが、王女として、そんな醜い姿を大衆に晒して良いものではない。聡明で、王女としての自覚を持つ彼女だからこそ、ただ多くを語らず、『先生』としてのヘイゼルを信じて、彼をじっと見詰めた。

 だが、そんな目で見詰められても、ヘイゼルの心中を満たすのは、困惑、不理解、焦りといった感情ばかりであった。

 いったい、彼女は何を伝えたいのか。

 そんな、全くぴんとくる答えに辿り着けない彼に、思わぬ角度から救いの手が差し伸べられる。


「……王女殿下が傷一つ負わずに立っていられるのは、いったい何故ですか、先生?」


 障壁に背中を預けて地に腰かけたまま、まだ少しだるそうに、だが少し魔力が回復したのか、先程よりもいくらか焦点のあった目でそう問うたのは、今までずっと黙ってことの成り行きを見守っていた、エリック少年であった。


「そりゃあ、ほら。――っ!」


 そんな彼からの問いかけに答えるべく口を開いたヘイゼルは、途中で目を見開いて、一瞬硬直する。そして、遅まきながらも、エリックが伝えたいこと、エリザベスが気にしていることに、気付く。


「まさか……」


 思わずそう口にしながら、再びエリザベスへと視線を戻したヘイゼルに、エリザベスは瞳を潤ませながら、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


「そうです……! そうですよ。私は傷一つ負ってません。だって、当然です。あの火の玉は、私には当たっていないのですから。怖い思いこそすれ、痛みも、熱さも、私は感じていません! でも、それはつまり……」

「……ああ、そうか……」


 それはつまり、彼女に迫ったその痛みも熱さも、肩代わりしてくれた人物がいるということだ。

 それがわかったヘイゼルは、その彼女に迫った危機を肩代わりした人物、ハロルドへと視線を向けた。

 ぼけっとした顔で一部始終を眺めていたハロルド。だがどうやら話題が自分についてのことらしいとわかると、自分を指さしながら「え、俺?」という間抜けな声を漏らす。


「だからこそ、私は『私からは』と言ったのです。今回の騒動の被害者は、結果として見れば、私ではありません。『王女に傷を負わせるところだった』。『だから謝罪した』。それはわかります。理にかなっています。……でも、私が許したから、それでこの件は終わり、というのは、全く以て可笑しな話でしょうっ……!?」

「え、なに。俺の話してんの? いやいや、俺も気にしてないから、別に大丈夫だって。王女様の言葉を借りれば、俺に関しては『痛みも熱さも、おまけに怖い思いすら』感じてないんだから。だからそこまで真剣に――」

「ハロルド様は、ちょっと黙っていてくださいっ!!」

「はい。すいませんでした」


 余計な茶々を入れたハロルド、あえなく撃沈。


「……」


 王女の言葉に、呆然とするヘイゼル。隣に居るマシューも、クラスの面々も、その限りではなかった。

 そんな彼らを、しかし凛と見据えたエリザベス。


「……悪いことをしたら、謝る。それって、立場なんて関係なしに、当たり前のことですよね、先生……?」


 努めて優しい声色で、そんな言葉をかける。


 思わず、ふうと息を吐いて天を仰ぐと、手で目を隠して「ああ、その通りだな……」と小さく漏らすヘイゼル。これは完敗だと、思わざるを得なかった。

 何が、「お前ら生徒、俺教師」だと。こんな人として当たり前のことを生徒から指摘されておいて、どの口がほざくのかと。

 思わず「くはっ」と自嘲の笑みを溢してから、ヘイゼルはゴチンと自分の頭を殴り、目の前のエリザベスを再び視界に収め、


「ああ、その通りだ。悪かったな、エリザベス。教師として、しちゃあいかん醜態を晒しちまったみたいだ……。気付かせてくれて、ありがとな」


 そう言う彼は、『王族の前でのヘイゼル・オーバーン』ではなく、『教師のヘイゼル・オーバーン』の口調へと戻っていた。

 そして、「ほら、マシュー」と傍らの生徒の背中を叩くと、己の主からの指示通り、ちょっと黙っていたハロルドの元へと歩み寄り、


「謝るのが遅くなったが……。この通りだ、悪かった。それと、ありがとな。最悪の事態を防いでくれて」

「あ、す、すいませんでした……」


 ぺこりと、さすがにエリザベスに謝ったときほどではないにしろ、しっかりと頭を下げて謝罪した。

 自分より明らかな年上にがっつり頭を下げられて、みんなから注目もされて、正直居心地が悪いハロルド。気まずそうに頭をポリポリと掻きながら「あー」と呟くと、


「いや、こちらこそ。なんか障壁をぶち破っちゃって、すいませんっした」


 というと、なぜか頭を下げ返す。

 ハロルドが気まずそうに指し示す一角。障壁に空いた大穴は、本来障壁は不可視であるはずなのに、空間の歪みとして「ここに異常があるよー」と主張していた。

 それを見て一瞬眉を顰めるヘイゼル、


「あの障壁、第八階級の【コード】でも数十発は耐えられるはずなんだが……」


 と呟くも、ゆるゆると頭を振ってそんなどうでもいい思考を振り払うと、


「いや、あんたは王女――いや、この場合は生徒の命、か。何物にも代えられないそれを救ってくれたんだ。魔道具なんて、高価だろうが所詮モノだ。だから、気にしないでくれ」

「ああ、そう? そう言ってもらえるなら、俺としちゃありがたいよ」

「ははっ。お前さん、王女の護衛らしくないヤツだな」

「……自覚はしてる」


 いつの間にか、和やかな会話に興じる、元冒険者二人。ハロルドに関しては、冒険者を辞めたつもりはないが。

 根が面倒臭がりの二人の男。波長でも合うのか、そこにはまるで友人と話すかのような気楽さすら見て取れた。


 そんな二人の光景を、これまた満足そうな笑みを浮かべて眺めるエリザベス。

 その横で退屈そうな表情をもう隠しもしていないヌレハは、しかし次の瞬間、ピコーンと頭の上に電球を浮かべ、口角を吊り上げながら何やらエリザベスに耳打ちする。

 ふむふむと真剣な表情でその密話を聞いていたエリザベス。彼女が「わかりました」と強く頷くと、その耳打ちが終わり、ヌレハがトンと彼女の背中を押すことで、エリザベスはゆっくりとハロルドとヘイゼル、ついでにマシューのもとへと歩み寄っていく。


「どうやら問題は起きなかったようで、それどころか仲良くもなれたみたいで、よかったです」


 にこやかな顔にそんな言葉を添えながら。


「……ヌレハさん。エリーに何を吹き込んだの……?」

「吹き込んだなんてそんな。人聞きが悪いわ」


 伊達に近くで付き合ってきた友人ではないのか、エリザベスが浮かべる笑顔に後ろ暗いものを感じずにはいられなかったクロエは、くっくと悪い笑みを浮かべるヌレハに訊ねていた。


「おお、エリザベス。改めて、ありがとな。ははっ、生徒からこんなことを教わっちまうとは……教師として恥ずかしい限りだよ」


 クロエは訝しんでいたエリザベスの笑みだが、しかしヘイゼルは何の違和感も抱かなかった様子で、向かってくる彼女にはにかんだ表情を見せる。


「いえいえ、そんな」


 にこにこと笑いながらそう口にするエリザベス。足は止めない。

 そして、接近してくる間、全く変化がないエリザベスの笑みに「ん? なんかおかしいぞ?」という違和感――具体的には、まるでマネキンの笑顔を見ているときのような薄気味悪さ――をヘイゼルが抱いたころ。

 そのころには、すでにエリザベスは、ヘイゼルから二歩分も離れていない距離まで接近していて、そして何故か、右手の指を揃えてヘイゼルの鳩尾へ向かってピンと伸ばし、突き付けていた。


「……おい、まさか。嘘だろ?」

「【巨風の圧撃ストンプ】」

「おぶぅっ!?」


 何をやるつもりなのか薄々気が付いたヘイゼルも、しかしまさかこのタイミングでそんなことをするはずがないと高をくくって、引き攣った表情で何のつもりかと問うた瞬間。告げられた短い名と共に放たれる、エリザベスの魔術。

 彼女が得意とする風属性で、暴風で吹き飛ばす、というよりは、面で押し飛ばす、という表現が似合う、攻撃性よりは相手との距離を取りたいときに役立つ、彼女の【オリジナル】。

 まるで壁でも押し迫ってきたかのように一挙に押し寄せた風に、おかしな悲鳴を上げながら飛ばされるヘイゼル。攻撃性は低いとは言え、平面状に押し固められた風が身体を打ち付ければ、普通に痛いというものである。

 ちなみにだがこの魔術、割りと彼女の全力を以て放たれたため、そのぶん魔術の効果範囲である面は広範囲にわたって広げられており、そうなると当然、


「がべっ!」

「いでぁっ!?」


 ヘイゼルの近くに居たハロルドとマシューも、魔術の効果範囲内であった。

 とばっちりをくらって、ヘイゼル同様吹き飛ぶ二人。

 ズザザァと土の上を滑って止まった三人の男だが、その後の様子は文字通り三者三様。ハロルドは小さく「何で……?」と呟いてパチクリと目を瞬かせていて、ヘイゼルはピクリとも動かない。なかでもマシュー少年は悲惨で、若干猫背気味の彼は身体のどこよりも先に鼻面に魔術の直撃を食らったため、真っ赤に赤らんだ鼻を両手で押さえて「んーっ! んんーっ!」と声にならない叫びを漏らしながらじたばたと悶えていた。


 しかしそんな男たちには目もくれず、ヌレハを振り返って「やりましたっ!」と嬉しそうに報告するエリザベス。まさしく、天真爛漫という様子。課題を成し遂げた嬉しさに、悶える男どもの姿は目に映っていないようである。

 エリザベスからの報告を受けたヌレハは、口元を抑えた顔を背け、ぴくぴくと肩を震わしながら、サムズアップだけ向けていた。巻き添えを食らってついでに吹き飛んだ男二人の姿が面白かったのだろう。


 突如巻き起こった出来事と、さきほどまでのシリアスな空気から一転したそんな異様な光景を見ていたクラスの面々及び護衛の皆様は、一様に頬を痙攣させ、まさしくドン引きという表情を浮かべていた。


「……えぇ~。このタイミングで、そういうことしちゃうんだ……?」


 貴族クラスのなかでは比較的一般市民代表ともいえる少女クロエのその呟きが、一同の気持ちを的確に代弁していたのだった。

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