第22話 楽しい一日③

 その日の深夜。

 シルヴィアから不吉な一言をいただいたものの、それからは特に変わったこともなし。ハロルドは自室としてあてがわれた部屋のベッドに寝転びながら、【ライト】という生活魔術の灯りのもと、読書をしていた。

 小難しい顔をして読んでいるこの本。題名を『ゴブリンでもわかる! 基本属性魔術のい・ろ・は』というあらゆる方向に敵を作りかねないこの本を、わりかし真面目に読むハロルドは、実は魔術が苦手であった。

 保有魔力量や魔術構成力などの適正関係なしに使える生活魔術や、例外として一部の光魔術、そしてそこから派生した光熱魔術はそれなりに達者に使用できるハロルドだが、それ以外の属性となると、火水土風という基本属性含み、歪な形でしか発現できない。

 火の玉を作れば熱は逃げ、水球を出せば形を保持できず、風は強く吹くだけ、土で人形を作れば前衛的なデザインになる。

 故に彼は肉弾戦を好み、故に彼の身体能力は異常な高みへと昇華している。


 だが、だからといって切り捨てて良いほど、魔術と戦術とは切り離せない関係にあった。例えば目眩まし、また例えば牽制目的であれば、敵を倒すに十分な威力はなくとも、魔術というものは非常に使い勝手のいい道具となる。


 なので彼は最近、「あんたももうちょい魔術を使えるようになれば?」というヌレハの言に従って、こんな本を読んでいるのである。

 最初は『魔術理論・入門』なる本を読んでいたのだが、コミック以外の本などまともに読んだことのないハロルド。いかんせん眠くなる。なので諦めて現在の『ゴブリンでも~』にシフトしたわけだが……。

 悔しいことに、なるほど、こんな題名をつけるだけあり、これは良い著であった。


「ふわあ……」


 だが、良い著、分かりやすいとは言え、それは眠くならないということには、残念ながら繋がらなかった。

 ハロルドは大あくびをすると、むにゃむにゃと口元を動かし、そろそろ寝るか、と思う。

 すでに日付は跨がれ、外を見ても灯りがついている建物など、数えるほどしかない。

 そしてふよふよと空中に浮かぶ光球を消そうとしたところで――


「……?」


 ふと、ハロルドの視界に、微かに蠢くものが映り込んだ。

 だがそちらに目を向けたところで、そこにあるのはチェストから伸びる影のみ。当然と言えば当然だが、生き物などは見受けられない。


 ネズミでも居たのかな、なんて呑気な考えを頭に浮かべつつ、やはり気になったハロルドは、ベッドから立ち上がって【ライト】を傍らに浮かべつつ、チェストの影に歩み寄る。

 その瞬間――


「うおお!?」


 その黒い影から飛び出してきた、これまた黒い影が、ハロルドの首に向けて刃を構えつつ飛び出してくる。

 完全に油断していたとはいえなんとか回避したハロルドは、しかし優雅な余裕ある回避とはいえず、ドタンと床に倒れこむ。

 そんな彼に立ち上がる隙を与えず、刃が二閃、三閃。それを無様に床を転がるようになんとか避けたハロルド。ちなみに、流石に寝るときは邪魔くさいマントは外しているので、マントが彼の動きを阻害することはなく、そのおかげで狭い部屋内でも動きやすかった。

 攻撃の流れが一瞬やんだうちに素早く立ち上がり、敵の姿をその目に捉え、


「シルヴィアさんじゃねえか!」


 そして全力のツッコミ。

 彼を殺さんと襲いかかってきた影纏う暗殺者は、件のスーパーメイド、シルヴィアであった。

 以前に王国近衛第三師団長であるタダノブが使用していた【影潜かげひそみ】ほど高度な魔術ではないが、それでも高等魔術である【影纏かげまとい】という姿を隠す魔術を使用し、部屋に潜んでいたらしい。


「くそっ! なぜ隠れている私に気付いた!」

「は!? いや、なんか一瞬動いたから……」

「くっ、私としたことが、もう少しで殺せると踏んで、気が逸ってしまったか……!」


 物凄い剣幕で怒鳴るシルヴィアに、面食らって逆に落ち着いてきたハロルド。

 なので、落ち着いたついでに、悔しそうに顔を顰める黒装束のシルヴィアに、


「あの、なんでこんなことを……?」


 と、訊ねる。

 攻撃が止んでいるうちに、話し合いで時間を稼ぎ、あわよくば落ち着かせよう、という作戦である。


「『なんで』、だとぉ……!?」


 作戦失敗。

 何が彼女の怒りを買ったのか。とにかく、質問を受けた彼女は歯が欠けるのではと危惧するほどにぎりぎりと歯を食いしばり、こめかみにピクピクと浮かんだ血管は青く膨らんでいた。


「貴様がぁ! エリザベス様とベタベタ触れあってぇ! 調子に乗っているからだろうがっ!!」

「濡れ衣っ!?」


 攻撃再開。その手に握った黒塗りの短剣を、ときには逆手に、次の瞬間には順手にと器用にクルクル回しながら、隙のない、しかし確実に急所を狙った連続攻撃を繰り出すシルヴィア。

 だが、まるで意に介さないかのようにヒョイヒョイとそれを避けながら、余裕あるツッコミまでしてみせるハロルド。

 そんな彼の態度がより彼女の怒りを買い、攻撃が激化するという悪循環。


「ままま待て! ちょっと待て!」


 このままではらちが明かないと、開いた右手をシルヴィアの方に向けながら、ストップをかける。

 その右手に向けて、やはり短剣による斬撃が繰り出されるが、一瞬だけ手を上にあげて回避。

 その攻撃を最後に、僅かに肩を上下させながら、シルヴィアの動きが止まり、


「……何だ? 遺言なら、一応聞いてやるぞ」


 と、一発も攻撃を当てれてないくせに、大口を叩く。

 もちろん、この後大人しく殺されるので、最後にみんなに言葉を遺させてください、というお願いのために彼女の攻撃を止めたのではない。


「いや、遺言とかいう気はないけど……。なんか勘違いしてるぞ? 俺は別に王女様とベタベタして調子乗ってるとかないし……」

「そんなことは、関係ないッ!!」

「関係ないのっ!? ――ッ!?」


 支離滅裂だよコイツ! と文句を言う前に首に伸びた刃から逃げるため、バックステップにて後退する。

 シルヴィアはそんなハロルドを追撃することはなく、しかしギロリと、下手するとその手に持つ刃よりも殺傷力のありそうな眼差しで、睨む。


「ハロルド様……いや、ハロルド。貴様がエリザベス様とベタベタしようが、むしろエリザベス様の方からベタベタしてようが、そんなことは問題ではないんだ。……問題なのは……」

「……問題なのは?」

「エリザベス様が、私よりも、貴様に信頼をおいていることだぁ!! 何故!? 何で!? 幼少よりお世話をさせて頂いていた私よりも、出会ったばかりのこんな薄汚い男を、何故ぇ!? ああ、ああ、嘆かわしいいぃ!!」

「嫉妬じゃねえか!!」


 頭を抱え、心からの叫びだと言わんばかりの迫力で、予想だにしていなかった理由を声高に言うシルヴィア。

 そしてこちらも、心からのツッコミ。

 しかしそんなツッコミがシルヴィアの鼓膜を揺らしても心を揺らすことはなく、彼女の頭に浮かぶのは、数日前の、こんな会話。

 そう。彼女を殺意の波動へと走らせた会話は、この寮へとたどり着いてすぐ。各自の部屋割りを決めているときだった。あのときは、エリザベスの隣の部屋は、彼女が信頼を置いている人にしよう、という会話をしていた。

 そのときの、ハロルドとエリザベスのこんな応酬が、シルヴィアには赦せなかった。


『……というわけで、このなかで一番頼れるやつは?』

『ハロルド様です』

『だろうなあ。ゲヘヘゲヘヘ』


 いくつものバイアスがかかった彼女の耳には、こんな風に聞こえていたらしい。


「そのときに思ったんだ。『あ、殺そう』、と」

「話が飛んだねえ」

「というわけで、その首、貰い受ける」


 なにやら自己完結したらしいシルヴィアは、手短に宣戦布告をし、腰を落として、すうっと息を吐くと、落ち着いた目でハロルドを見据える。


「……」


 どうやら、会話によって彼女を落ち着かせることには成功したらしい。――ただ、悪い意味で、だが。

 彼女の纏う雰囲気。ただただ、目の前のハロルドを『殺す』ことだけに意識を向けた彼女のそれは、研ぎ澄まされた、まさしく暗殺者の纏う空気である。

 それを目にして、これから彼女から繰り出される攻撃は、先ほどまでの我を忘れた攻撃ではなく、確実に自分の命を刈り取るための洗練されたものになるだろうと、ハロルドは確信する。

 故に、


「……はあ」


 ため息を溢して、こちらも構える。

 こちらは殺す気はない。もちろん、殺される気も。

 なので、取った構えは、手を開いた迎撃の構え。一瞬で彼女の四肢の動きを封じ、締め上げるための構え。

 悪いけど、手足の二、三本は勘弁してくれな。

 ハロルドは胸のなかでそう謝罪し、正面にいるシルヴィアを見据える。


 彼我の距離は五歩分も離れていない。どんなに愚鈍な者でも、一息にて詰められる距離である。

 部屋のなかを、びりびりとした空気が満ちる。一触即発。次の一手にて、結果が出ると確信できる。


 そして遂にそのときがきた。

 静かに、しかし深く呼吸することで、より洗練された雰囲気を纏うシルヴィアが、呼吸を止め、床を踏みしめる足に、ぐっと力を込める。

 それを見て、ハロルドも迎撃のために、意識を深く深く、集中の底へと潜らせる。

 そして次の瞬間――


 ガァンッ! という轟音と共に、部屋の中へ吹き飛んでくる、ハロルドの部屋の扉。

 閉めていた鍵も扉と壁を繋ぐ蝶番ちょうつがいもひしゃげ、なんなら壁の一部もろとも引き連れて、部屋の家具をめちゃくちゃに破壊しながら転がると、対面の壁にぶち当たって、轟音を立てながらようやく止まる。


「…………えっ?」


 十日間ほどの暮らしでようやく慣れ親しんできた自分の部屋が、一瞬のうちに破壊された一部始終をみていたハロルド。口から漏れた短いその音には、『理解不能』の四文字が込められていた。


「……こんな夜中にドッタンバッタンドッタンバッタン……」


 ドアを蹴破るために使用したのだろう、腰の高さまで上げられていた右足を下ろしながら、唖然とするハロルドをゆらりと見据え、


「うるっっっさいのよッ!! いったいぜんたい何時だと思ってんの!?」


 ドアを蹴破った主、ヌレハから轟く怒号。

 怒りを露に頭に青筋を浮かべる彼女に、いやいや俺は被害者だから! という弁解をハロルドが入れる前に――


「あ」


 一瞬のうちにヌレハに飛びかかったシルヴィアから、彼女に向けて凶刃が迫る。それを見たハロルドから漏れる、気の抜ける声。


「は?」


 しかし、その刃がヌレハを傷付けることはなかった。

 これっぽっちも慌てず、それどころか、怒りにつり上がった目でちらりと向かってくるシルヴィアを見ただけのヌレハは、短く怒りの声を発し、しかし回避行動を取らなかった。

 いや、取る必要がなかった。

 振るわれた黒塗りの短剣がヌレハの首に当たる直前、その刃が根本を僅かに残してごっそりと消失したからだ。折られたわけでも、防がれたわけでもなく、文字通り、刃がこの世から『消失』した。そして存在しない刃がヌレハを傷つけることなど当然なく、シルヴィアは思い切り短剣をスカッて僅かによろめく。


「……なに? あんた、喧嘩うってんの?」


 そしてそのシルヴィアの胸倉を掴み、この一言である。

 喧嘩どころか一歩間違えれば死傷となったはずの攻撃を受けてなおこれなのだから、もしかしたら優しい方なのかもしれない。

 ヌレハから覇気に満ちた顔を向けられたシルヴィアは、「はっ」と我に返ったらしき息を吐くと、


「あす、すいませんでした! は、え? ほんと、反射的に、身体が勝手に! いやでも、無事でよかったですヌレハ様! ってあれ、刃が無くなってる!?」


 しどろもどろにバタバタと慌てながら、必死に謝罪を繰り返す。

 その姿を見て、演技では、と疑うものなどいないほどには、彼女の表情も様子も臭いところはなかった。

 まさしく言うとおり、身体が勝手に動いたのだろう。集中の奥底まで沈み混んでいた彼女の意識に割り込んできたヌレハという『異物』に対して、咄嗟に、排除せしめんと。


 あわあわと暴れる、胸倉を捕まれたシルヴィア。

 そんな彼女に対して、ヌレハがはあと困ったような息を吐いたとき、


「ヌレハ様、どうしたんですか? わっ! 扉がめちゃくちゃ! ……そこってハロルド様のお部屋ですよね? いったい何が……」


 こちらも建物に響く音に寄せられて来たのだろう。ヌレハの肩からひょこりと顔をだし、部屋のなかを確認するエリザベス。

 ハロルドからは見えていないが、兵士やニコルなど、寮内にいる者が続々と集まっても来ていた。

 そしてエリザベスが部屋の惨状、唖然とするハロルド、侍女服ではなく黒装束のシルヴィアと、その手に握られた刃半ばから無くなった短剣。そしてその彼女の胸倉を掴み捕縛するヌレハを、キョロキョロと見渡すと――とたんに唇を固く結びぷるぷると震えながら、その顔を真っ赤に染めた。


「シルヴィアッ! 何をやっているんですかッ!?」


 そして放たれる怒号。


「へあっ!? も、申し訳ありませんでした! エリザベス様!」


 びょいーんとバネ仕掛けの人形のように、反射的に背筋を伸ばしたシルヴィアは、こちらも反射的といった様子で、謝罪する。何に対して、というわけではなく、咄嗟に口から謝罪の言葉が出てきたのだった。

 ちなみに、もうヌレハはどうでもよくなったようで、シルヴィアの胸倉から手を離し、脇にどいて、静かに成り行きを見守っていた。


「なんでこんなことをしたのですか!? ハロルド様、お怪我はございませんか?」

「あ、あう……」

「いや、俺は大丈夫だけど……」


 あうあうと意味のない音を口から漏らして狼狽えるシルヴィアをちらりと見てから、身体に異常や怪我はないことを伝える。


「そうですか。よかった……」


 その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろしたエリザベスだが、すぐにまたキッと眉をつり上げると、


「それで、シルヴィアは、なぜこんなことを?」


 と、いつまでも顔を真っ青にしているシルヴィアに肉薄する。


「わ、私はその。エリザベス様に這い寄る悪い虫を駆除しようと……」

「虫っ!? いま、ハロルド様のことを虫と言いましたか!?」

「はっ、い、いえっ! 虫は虫でも、なんかこう……たくましい虫と言いますか、しぶとい虫と言いますか、つまり、普通の虫だとは思っていませんよ!」

「でも虫じゃないですかっ!!」


 何故かムシムシと何度も連呼されるハロルド。思わぬ流れ弾、予期せぬ連撃に、今日イチのダメージを負う。ショックを受けた表情で、胸を押さえている。

 ヌレハは「ぶほっ」と息を吹き出したあと、顔を背けてぷるぷると震えていた。もしかしなくても、笑っているのだろう。


「謝りなさい!」

「申し訳ありませんでした!!」


 一瞬の逡巡も見せずに、腰を90度曲げて、見事な謝罪を見せるシルヴィア。

 しかしその謝罪を受けたエリザベスは、


「相手が違うでしょう! ハロルド様に! 謝って!!」


 もちろん受け入れず、なおも詰め寄る。

 エリザベスの言葉に、そんな! とでも言いたげな顔をあげたシルヴィアだが、己が敬愛する王女の顔にありありと浮かぶ怒りの色に、うぐぐと顔を顰めると、


「はい……」


 頷いて、ハロルドと向き直る。


「うっ、ぐぐ……。この度はぁ、ご迷惑をお掛けしてぇ……。くそっ、なんでこの男に私が頭を下げなきゃ……」


 だが、なかなか出てこない謝罪の言葉。

 ちなみにだが、もういいからみんな出てけよ寝させてくれ、という思いしか、ハロルドの胸中にはなかったりする。

 そんな彼を差し置いて未だブツブツと文句をぶーたれるシルヴィアだが、しかし――


「……はあ。謝罪ひとつできないシルヴィアなんて、嫌いです」

「本当に! 申し訳ありませんでしたぁっ!!」


 王女様の鶴の一声により、撃沈。

 まるで電気ショックでも受けたかのようにその場でびょーんと跳ねたシルヴィアは、変形ロボよろしく空中で手足を折り畳み、膝と掌と頭が床につく姿勢で着地。奇しくもそれは、夕方にハロルドがエリザベスに向けた姿勢と全く同じ、土下座着地であった。

 そんな彼女を見て、「ぶっは!」と、もはや隠しもしない様子で腹を抱えて笑っているのは、ヌレハである。大好きなのだ。こういう、人が惨めになっているところが。


「……はあ」


 かつては扉だったはずの大穴から覗くニコルや兵士たち。必死に笑い声を抑えるヌレハ。怒りを浮かべるエリザベスに、土下座ゲザるシルヴィア。

 そんな一同を目線だけでぐるりと見遣ったハロルドから漏れる、本日何度目かわからない、ため息。そして、


「顔を上げてくれ。俺は別に気にしてないし、まあ、自分が敬愛する主君がぽっと出の男に信頼を寄せてたら、モヤッとする気持ちもわかるから。……ああ、いや。ごめん嘘。ほんとは全然わかんねえけど」


 困ったように眉根を寄せながら、彼なりに頑張った気遣いの言葉をかける。

 そしてゆるゆると顔を上げたシルヴィアに向かって、


「とりあえず、続きは今度にして、そろそろ出てってくれ、な?」


 かつて扉があったはずの大穴を指さして、出てくよう指示。

 その瞬間、シルヴィアの顔にむっとした表情が浮かぶ。おそらく、私が貴様なんぞに頭を下げているのに、という感情の現れであろう。

 しかし、そんなシルヴィアが口を開いて文句を言う前に、


「はい、解散」

「ハロルド様。シルヴィアがご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした。ほら、行きますよ」

「エ、エリザベス様が謝るようなことではっ! い、いえ、すいません。私が撒いた種ですもんね……」


 ぱんぱんと手を叩くヌレハが部屋の外でぞろぞろと中を覗く兵士たちを追い払いつつ、その間を掻き分けて、早々に部屋をあとにする。

 そしてその後にペコリと頭を下げたエリザベスはシルヴィアを引き摺るようにして、二人で出ていく。

 後に残るのは、静寂と、めちゃくちゃになった家具と、廊下と繋がる二度と閉じない大穴のみ。


「……え、部屋についてはなにも触れねえの?」


 そんなハロルドの呟き。

 ここに、ハロルドのプライベートエリアは消失したのだった。


   ◇ ◇ ◇


「勇者どの! 今日は共に護衛ですな! よろしくお願いしますぞ、はっはっは!」

「勇者ハロルドさん、おはようございますッス」


 翌朝、目覚めてから階下に赴いたハロルドに、兵士たちからかけられた言葉である。

 あとで聞いた話だと、『王女に平伏してスリーサイズを訊ねた勇者』として、男たちが自然とこの呼び名を使い始めた、とか。


 とにかく、目覚め一発に意味わからない言葉をかけられたハロルドは、口を半開きに、その場でフリーズ。

 食堂の扉の目の前で立ち止まるそんな彼の肩をぐいと押して通路を開けると、


「邪魔よ、勇者さん」


 小馬鹿にした笑みを隠しもしないヌレハが、その横を通っていった。


「はあ……」


 本当に、夜猫と関わると碌なことにならない。ハロルドはそう強く強く思って、ため息を溢すのだった。


   ◇ ◇ ◇


「勇者さん。エリザベス王女のスリーサイズがわかったら、言い値を払うんでこっそり教えて下さいッスね」


 寮を出るハロルドに近づいてきた若い兵士が、こっそりと彼に耳打ちする。

 ハロルドは「え、ああ。ははっ」と苦笑混じりにはっきりしない返答にて、これをやり過ごしていた。

 彼には教えるべきではないだろう。ハロルドからみて彼の向こう側に、血走った目でこちらを睨むシルヴィアが居ることを。

 ハロルドにできることは、ただそっと、彼の冥福を祈ることだけだった。




「ったく。『勇者』『勇者』って、俺はアルバちゃんじゃねえんだから」


 学園への道すがら、ハロルドの愚痴。


「あれ、ハロルド様。『勇者』アルバさんを知っているのですか?」


 その口を耳にした、隣を歩くエリザベスは、気になったらしいことを訊ねる。


「ん? ああ、そっか。今アルバちゃんは王宮騎士団に入ってんだっけか。ほら、あいつ元冒険者だろ? 関わったことあるんだよ」


 王宮騎士団、副団長アルバ。二つ名を、『勇者』。

 若くして騎士団にスカウトされた彼は、二つ名の通り、金と銀に装飾されたきらびやかな鎧を身に纏い、光属性魔術と剣盾を用いて、まさしく勇者のように振る舞い、華麗な戦闘をする。

 王国全土を護る役割をする『王国近衛師団』とは違い、国王が居る王都、とりわけ王城を守護する役割を担う『王宮騎士団』最強の男。それが『勇者』アルバである。


 なぜ、最強の男と揶揄される彼が、騎士団の団長ではなく副団長なのか、ということについては、彼の人柄の問題としか言いようがない。

 悪がそこに蔓延っていると耳にすれば、一も二もなく飛んでいく『勇者』たるアルバは、『王宮騎士団』という役職に反し、王城に居ることがほぼ無い。それこそ、全然と言っても過言ではないほど、居ないのだ。

 故に、彼は騎士団最強であるが、万年副団長なのである。まあ、本人は自分が副団長であることを忘れてるのでは、と思われるほどに自由気ままに行動しているので、気にしていないのだろうが。


「はへえ。ハロルド様とアルバさんはお知り合いだったのですねえ」

「はっはっは。アルバ殿はお強いですものな。一度手合わせしていただいたことがありますが、手も足も出ませんでした。言い方は悪いですが、化け物ですな、あれは」


 ハロルドの言葉に、はふうと息を吐いて驚嘆するエリザベスと、自分がアルバと手合わせした経験を語る、もう一人の護衛のおっさん兵士、ゴードン。ちなみに彼は、昨日のハロルドに「稽古をつけてくだされ」と申し出ていた、汗でテカテカおっさんと同一人物である。


 そんな会話をしていたら、あっという間に学園へとたどり着き、もう慣れた足取りで向かった貴族クラスの引き戸を開く。

 相変わらず、一瞬だけ向く視線と、気まずそうに下げられる頭。貴族の階級の差によって作り出される心の距離により、エリザベスは未だに友人と呼べる友人が一人もできていない。

 しょんぼりと項垂れるエリザベスに苦笑を向けていたハロルドだが、


「ほう。クビになったと思っていたぞ」


 そんな喧嘩腰な言葉がかけられれば、自然と意識はそっちに持ってかれる。

 そこには、不機嫌そうに眉を顰めるエリック少年と、何を思っているのか、ただ粛々と主のそばに佇む、執事ロバートの姿。

 また絡んできやがった。と思いつつも、言うほど彼に悪印象を抱いていないハロルドは、不敵な笑みを浮かべて、


「人手は腐るほどいるからな。護衛は当番制にしたんだ。……だが、奇遇だな。そろそろ俺も『クビにしてくれないかなあ』と思い始めてるよ」


 意趣返しとばかりに、少しだけ喧嘩腰の対応。

 絡み合う視線。バチバチと飛ぶ火花。

 密かに教室中の視線を集める彼らの、そんなタイミングの悪いときに、


「おはようございま――ひぇっ!?」


 すぐ近くの扉から教室に入ってきた一人の女子生徒が、一触即発な彼らの雰囲気を感じ取った瞬間、ビックゥと肩を跳ねさせて驚いた。


「なんですか、これ。どうしたんですか、これ」

「あ、ええと、あなたは……クロエさん。大丈夫ですよ。彼らは仲良しなだけですから」

「はあ。そうなんですか……。ぎぇっ!? エリザベス王女様!?」


 そして、なんとなしに話しかけた、たまたま側にいた人がエリザベスだということに気付き、おかしな声を上げながら二度目の驚き。

 はわはわと目を回して狼狽えるクロエに、エリザベスもあわあわと慌てながら、


「そそそんな畏まらないでください。私も今は一人の生徒です。どうか、学友として気楽に接してください、クロエさん」

「ひえぇ。私の名前、知っていてくださったんですね」

「それは、もちろんですよ。同じクラスの仲間ですから」


 にこっと微笑み、ごく自然とそう答える彼女。

 お友達作りはまず挨拶から、という言い伝えにしたがって、必死にクラスメイトの名前と顔を覚えた。などとは、そんな彼女の仕草からは窺い知れなかった。


 いつの間にか女学生と和やかに会話をするエリザベスに気付き、どうやら友達作りはうまくいきそうだな、と思ったハロルドは、優しい笑みを浮かべていた。

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