一匹目・パイセン、山を登る


 中二病どころの騒ぎではない大学の先輩に山登りに誘われた。

 ハイキングコースでも歩く遠足の延長みたいなものかと思っていたが、甘かった。俺が今登っている急勾配も酷いものだが、先輩はその道の脇、垂直の断崖をクライミングしている。


『山登り』ですらない。


 と言うか隣が断崖のこの細い獣道を登っている俺も俺だ。先輩の腕が万が一限界を迎えたらと思うとくそ暑いのに加えて冷や汗が出る。しかし最早落下する様を見ていて誰かに報告したりどうにかなるわけでもない高さまで来てしまった。先輩は指二本を岩に引っ掛け垂れ下がりながらこちらを見ている。


「大丈夫かー?」

「だい、じょうぶ、です…はぁ、すぅ、はぁ……」

「酸素切れたら言えよー?」

「なん、で、俺が、酸素、片手で…」


 やめよう、喋ると体力の配分がおかしくなる。

 と言うか、この山、…山?山か?これ?山だな。うん、登り始めて五時間経つから、山だな。丘ではない。なんだろう、なんでこうなった?なんで酸素吸入器の世話になってんだ。今標高何百メートルだよ。さっき1300と言う立て札を見た気もするが、俺が歩いてきた道が蛇行している分高さ以前に距離で疲弊しているのかもしれない。先輩のクライミングを遠くから眺める距離だったり今みたいに隣で登っていたり、ここは迷いの森か。目印が結構な速度で崖を登る先輩とかなんのイジメだこれは。足を止めたら転がり落ちそうだからほぼ道無き道を這うように登っている。俺、文化部なんですけど。いや、先輩もだけど。なのになんで単独で地獄の行軍させられてんだ。崖登る男は知らねぇ。あの野郎はとっくに人知を超えている。とにかくひっこめ太陽、頭皮が焼ける。


「おーい、頂上見えたぞー」

「はぁ、はぁ…」

「がんばれー、あっとすっこし!」

「だ、黙れ、ザリガニ…ぜひぃ…」


 ヒョイヒョイと絶壁を登りながら俺に檄を飛ばす先輩。うっかりザリガニ野郎と口にしたが我ながら蚊の鳴くような声だった。虚ろもいいとこな目線をやや上げると、確かにあと少しで山頂だ。一人座れるか座れないかの面積しかなさそうな。表現が難しい。とにかくそれ以上先は見えないから、あれが山頂だ。

 頂を見つけてテンションが上がったのか先輩は嬉しそうな奇声と共にカサカサと崖を這い上がっていく。すごい速度で。ここに来てペースアップだと。やばい、壁を登るゴ〇ブリにしか見えない。服も黒いし。黒いのは背広だ。先輩はリクルートスーツで崖を這い上がっている。やばい、俺の中でザリガニ返上されたわ。ゴキ〇リだ。生命力的にも適応力的にも色も。鉛のように重い足を動かすのは、ここまで来たらあそこに立たなきゃなんの意味も無いと言う虚無だった。



「だぁっは!」

「おう!無事登りきれたか、安藤!」

「うるせぇ…ザリガ…いや…ゴキ…先……」

「死ぬなー!安藤!!」


 あの位置から更に30分かけてたどり着いた山頂には、ジャケットを脱いで、肩に引っ掛けた左手からそれを靡かせている先輩が仁王立ちしていた。俺はたどり着いた達成感と安堵感で地面に倒れ込み悪態をついた後、意識が飛びかけた。先輩が自分のベルトに引っ掛けてあった酸素を俺の顔面に噴射する。ちけぇ、逆に息できねぇ、殺す気かクソが。腹が立って酸素の缶を奪って脇にしゃがみ込んだスネを缶の底で執拗に殴打する。


「いっだぁぁああ!!安藤!!痛い!!痛い!!」

「うるせぇ…黙れ…永遠に沈黙しろ…」

「だいぶ!痛い!目が!!いだっ!!濁って!!痛い安藤!!目が濁ってる!!濁ってる安藤!!」


 この狭い頂では逃げられまい。ここぞとばかりにへし折るつもりで殴ってやろうと思ったがそんな体力はもう無かった。仕方無しにここに来るまでお世話になった吸入器の口を取り付けて酸素を食う。だめだ、殴りすぎたせいか底が歪んで中身が漏れている。この人のスネ、鋼で出来てんのか。


「大丈夫か、安藤?まだあるぞ?」

「よ、よこせ…」

「強盗みたいだぞ…」


 ベルトにはあと二本缶がある。野営覚悟で下れば一本でも保つはずだ。手前の缶をひったくって吸入器を装着…できない。なんだ?先輩が登ってる間に歪んだのか?ベルトになんて提げるからだよ馬鹿野郎。仕方無い、ちまちま吸うか。倒れたままの体勢で缶の中身を喉に送る。

 待ってこれ、変な味する。酸素じゃない。


「これなんですかせん」

「安藤!?声がめっちゃ高いけど!?」


 缶のラベルを見る。ゆっくり身体を起こして膝立ちになる。心配そうな先輩。ごめんなさい、俺に今出来るのはこれだけです。


「何でヘリウムガスが混じってんだよゴ〇ブリ野郎!!!!」

「ブヘラァ!!」


 恐らく人生で一番甲高い声を上げながら、振り絞った全体力と余りある殺意を缶の側面に込めて下から抉るように顎を殴ってやった。もう落ちても知らんがな。事故だよ。愉快な事故だよ。お前を確実に抹殺するためなら俺も死んでやるよ。今全力使い切ったし。頭がぐらついて体勢を崩す。やべぇ、俺も落ちるわ。絶叫系無理なのに。

 明らかに頭の回っていない俺を誰かがしっかり抱きとめた。誰かってこのお立ち台サイズの山頂に居るのなんて俺とゴキ…先輩しか居ないけど。やっぱり案の定先輩だった。


「落ちるぞ、安藤!しっかりしろ!!」

「先輩…顎…」

「これくらい慣れてる」

「砕け散れよ…」

「明確な呪いの言葉を聞いた!聞かなかったことにする!!安藤、ほら、あっちめっちゃ綺麗だぞ。怒りの沸点と声の音域下げて見てみろ」

「この野郎…」


 勝手に音域上げたのはあんたの手抜かりだろうが。全細胞から放出される殺意でメルトダウン起こしかけながら、先輩が指した方向を見る。


 …確かに、綺麗だ。

 季節、夏。この標高から見下ろすほかの山々は深い緑が生い茂っている。目線の先には山の裾に拓かれたみかん畑が見える。その向こうにはたぶん大学のキャンパス。そしていつも帰路に通る商店街や住宅地。あれは市営グラウンドか?田んぼが広がってる区画もあれば高層とは言えないまでもビルの建ち並ぶ区画もある。ほとんど360度山に囲まれている盆地にこの中途半端な街が拓けている。反対の山は天気がいいにも関わらずずっと遠くに霞んで見える。…無駄に広い街。


「中途半端な街だよなぁ」

「…そうですね」

「俺達は外から来てるから、変なとこ目に付くけどさ。でもなぁ、こうやって見るとなんか」

「………」


 落ち着くよな。

 嬉しそうな声にちら、と目をやる。絵に描いたような端正で綺麗な顔。染め戻した、日に当たるとややグレーが見えるサラサラストレート。曲げた足、長い。支える腕長い、掌、でかい。俺は。


「なんでそーゆー露骨にキモそうな顔するの!?」

「え…だって先輩がイケメン無駄遣いしてるから…すみません、反吐を吐きそうな顔して」

「謝るならしないでくれる!?イケメンの無駄遣いって何!?」

「無駄遣いですよ。用途不明の政治とカネの問題みたいなもんですよ」

「俺の顔面贈賄罪疑惑!!」

「先輩、贈賄とかどこで覚えたんですか?先輩の面の皮なら欲しいですけど。面の皮の厚さ」

「酷いこと言われたのは解る!!解るけど言い返せない勉強教えて貰ってるから!!」


 俺はあんたのイケメン贈賄を収賄する気は断固無いから安心しろ。この長身イケメンが。一枚絵のような微笑みで遠くを見ながら『落ち着くよな』とか、目の前にしたら逆に鳥肌立つわ。都会から来て中途半端な土地で生活三年目、街の魅力わかってきたぜみたいなテロップが流れてきそうで目が死んだサンマみたいになる。

 いや、俺は悪くない。こいつは五時間半垂直の崖をリクルートスーツで這い登っていた。相当デカいゴキ〇リが終始足場を探してカサカサするのを、俺は五時間半ずっと見ていてたのだ。強制登山と言い、もはや害虫認定。その相手が何事も無かったかのように爽やかにそよ風を味方に付けてたら腹立つだろ、普通に。突風に煽られて落ちろと思うだろ。腸捻転起こす前に話題を変えよう。目的だ。そう、俺が先輩が腰をぐるり一周酸素缶(一本ヘリウムガス)で固めてまで俺を山登りに誘った理由を聞こうじゃないか。


「先輩、まさかこの景色を俺に見せるために誘ったとか脳味噌が溶けて顔面の穴全部から吹き出すようなキモイ事言いませんよね?」

「その表現が最もキモイな!そんなわけあるか!!」

「じゃあ何のために誘ったんですか」

「食料確保に人手が欲しかった」

「待ってください、山の上にザリガニは居ませんよ?」

「俺だってザリガニばっか食ってるわけじゃ…うん、まぁ…ザリガニばっか食ってるけど…」

「ザリガニが居るのは河原ですよ?」

「いや、夏だしな。たまには旬のものを食おうかと」

「旬のもの?」

「ああ。セミだ」





 とち狂ってやがる。低音で聞き取りやすく耳馴染みの良い声で、セミを旬の食べ物と抜かしやがった。イケボすらも無駄遣いして行く迷いないスタンス。死んでも尊敬したくない。

 この人の食生活には余り触れたくないが、ザリガニを食ってるのは事実だ。もう当たり前のことだ。俺が入学して以来ほぼ毎日ザリガニを捕獲する様は見ている。むしろ手伝わされている。あえて名誉ではなく汚名を挽回するために言うと、この人は足が生えていれば何でも食う。なんだろう、色々食ったって聞いたけど節足動物と言う事しか記憶に残らないくらいにはダイレクトに俺の脳に衝撃を与える食生活はしている。だから別にセミを食った所で別にどうでもいい。むしろ、セミかよ。セミを旬のものって。ツッコミどころそこだけなんだけど、そこだけじゃない。


「セミは山にいると部長に聞いた!」


 掌で日差しを遮りながら辺りを眺める先輩。何から突っ込むべきか悩む俺。そう、今、俺達の温度差は太陽のフレアと極寒の冥王星の裏。間にあるのは『セミ』の二文字。


「確かにセミは山にいると思います」

「うん、だけどまぁ…ここから見渡した限りじゃ、あんまり…」

「先輩、セミは樹液を吸うと思います」

「ん?ああ、あれ美味い…」

「聞かなかったことにしてやる。と言う事は、セミはこの高山植物に近い草しか生えてない山の頂にはいねぇと思うんですがそこんとこどうなんだ大自然の敵」

「あ」


 え、そこでそんな『彼女の家来たら他の男の靴があって、これから修羅場ですよと思わせる緊迫したシリアス顔』するの?「あ」って何?あなたこの街三年目ですよね?さっきこの街いい街寄っといでみたいなこと言ってましたよね?樹液美味しい?セミと一緒に樹液すすってた記憶は無いの?セミの生息域は知らないけどたぶん山に入って五分の徒歩圏内で何匹かは捕まりますよね?そこに木があるから?木が、あるから?


「木のないところにセミなど居らぬ!!」

「『火のないところに煙は立たない』みたいな語感!!」

「そもそもセミのために五時間半山登り!?朝五時から!?目的の通達も無しに!?しかもあんた酸素の他に用意してたのヘルメットと綱だけ!!何処にも!引っ掛ける所も!無い!綱!!渡れってか!!正に綱渡りだよ!!俺も崖登る前提!あんたが『終わったら就活行く』ってリクルートスーツで現れたから!!油断した!!俺としたことが!!」

「ご、ごめん、安藤!言ったと思ってたんだよ、『セミ取りに山登ろう』って!!」

「文面にしても夏休みの小学生過ぎるだろ!!セミ取りとか!!しかも食用!!いきなり当たり前のように崖登り始めるから俺の頭がまだ寝てるのかと思ったわ!!いや、あんた『山登り』すらしてないじゃん!!『クライミング』だよあれは!!実質山登りしたのは俺のみ!!セミのために!!六時くらいに通り過ぎてきた木々の間で今頃絶賛ミンミンしてる!!セミのために!!」

「なん、だと…」


 なんであんたが愕然とするんだよ、俺が愕然だよ。驚愕だよ。俺の、唯一、講義の無い日が、セミのために。朝五時に登山開始して現在十一時前。こんなに洗濯物と布団がふかふかに乾きそうな真っ青な蒼天の下でなんでセミ食ってみたくなった非常識な男にブチ切れてるんだ俺は。叫び疲れたわ。即刻下山しても夕方。この人はイケメンとイケボの無駄遣い、俺は時間と体力の無駄遣い。明日どころか既に全身筋肉痛。今なら核融合爆発で一面草木も生えない土地にできる気がする。


「ごめんな、安藤…」

「もう、いいです。叫ぶとか体力無駄に使いました。先輩に無いものを求めた俺が馬鹿でした」

「え?常識のこと?」

「知ってるなら常備しろよ…はぁ。仕方無い、セミはここにはいません。とりあえず下りましょう、心を無にして。先輩への殺意が麓まで爆発しないように」

「ふ、麓で殺される…」

「だからその最後の酸素缶ください。休み休み下るので」

「え?あ、これ?はい」

「どう…も…」


『カセットボンベ』。

 ……………………?

 見間違い、か?カタカナがいきなりゲシュタルト崩壊したかな?ん、と…『カセットボンベ』。うん、間違いなくそう書いてあるな?

 カセットボンベってあれだよな?カセットコンロにセットして、カチってつまみを回したら火がつくやつ。


「あ、それ…」

「…すみません、中身だけ酸素ですかこれ?」

「あ、いや…燃焼するガスだと思う…」

「なんで紛うことなきカセットボンベが、ここに」

「あー…山岳部と陸上部に貰った缶だけじゃ腰周り足りそうも無かったから…部室と俺の部屋から一本ずつそれっぽい缶を…」

「あんたが見た目にこだわったせいでしなくてもいいロシアンルーレットが完成してしまったのかよ」

「安藤の目がもはや何も映さない深淵の闇を湛えている」

「生きては帰さん」

「殺される」

「ここが貴様の墓場だ」

「魔王のようなことを言い出してしまった後輩の怒りをどうにか鎮めないと就活の面接に間に合わない」

「この後に及んで五体満足で下山して面接へ行こうとしている思考回路がわからない」

「安藤、今何時だ」

「十一時です」

「やばい、早く下山しなきゃ面接間に合わない」

「いや、登山に五時間半かかってるんですよ。下山にも相応の時間かかりますよね?ここから突き落としたら一瞬だと思いますけど。そんなに面接行きたいのなら落としますね、動けるか知りませんけど」

「安藤怖!その目怖すぎだからほんとにやめてくれ!!やめてください!!」


 うるさい、とにかく今目の前のあんたをどうしたら二度と俺の前に現れられない体にできるか具体的に考えてるから黙れ。


「下山なんか30分もあれば余裕だろ。まぁ、お前ひとり残しては行けないから、諦めるか…」

「は?30分?」


 何言ってるんだこの人は。ここから30分て、さっき俺が登りながら頭皮を焼く太陽に呪いをかけた場所だぞ。胡散臭いものを見る目になった俺に、先輩は当たり前のようににっかり笑う。


「ああ、一番下まで落ちない程度に距離省いて行けばな」


 爽やかな笑顔に殺意に満ちていた身体が戦慄する。距離を省きながら、落ちない程度に…。


「安藤?」

「え、あえて聞きますけど、それ、俺にもできますか?」

「いや、登れなかったし、無理だと思うな」

「まさか崖を、下る…?」

「ああ。慣れればなんてことは無い」

「え?先輩なんで山に誘った時点で俺が崖を登れることと下れること前提だったんですか?」

「安藤は、俺の知らない事を沢山知ってるし、俺には到底できない事もやってのけるからな。体力的な面は浅慮だったよ、ごめんな」

「いや、先輩ができない事なんて致命的に勉強位じゃないですか。俺はそんなに大それたことしません、普通の人です」

「致命的にって言われた。よもや普通の人が初対面の部長の身長をミリ単位で聞き出すとか鬼の所業だけどな」

「え、すごく嫌な予感するんですけど、登り始める時既に下山のプロセスも狂っていた訳ですよね?何か策があって、この無意味な山登りをしたんですか?」

「ああ、別に俺が下る時に安藤を背負うかしたら普通に行けるかなって」


 何考えてんのこの人。

 なんでそんなデッドオアアライブなビックリ大冒険を本人に相談も無しに決めるんだ。今俺が持ってるのなんて、空になった大量の酸素缶が詰まったリュックとヘリウムガスとカセットボンベの缶とあんたへの歪みない殺意だけだぞ。麓でヘルメットと綱を地面に叩き付けてきた事をここで悔やむとは。


「安藤?」


 腹が立つと言うより理解の範疇を超える提案にやれるもんならやってみろと思えて来た。嫌だな、ゴキ〇リの背中に張り付いてこの垂直の崖をカサカサ降りるとか。


「はぁ、俺も早く帰って洗濯したいんで。できるものならどうぞ」

「応!さすがだな安藤!部長すら嫌がった下山に付き合ってくれるとは。よし、じゃあ背中におぶされ」

「はぁ…」


 肩幅の広い背中に荷物ごと全体重をかける。いや、これよく考えなくても先輩は堪えたとしても俺が荷物重くて落下するな?そんな腕力あったら最初から登れてるな?おぶさってから気付くとか脳味噌かなり疲れてるな、俺。


「先輩、やっぱ降ります」

「応、降りるか!」


 違う、立つな。あんたの背中から降りたいんだ俺は。


「ああ、これ、頼むな」

「え、ちょ」


 先輩が背広を投げて寄越した。キャッチするために手を伸ばした瞬間、一瞬宙に浮く。文字通りだ。先輩は崖に飛び込み数メートル下で崖の岩を掴む。そう、掴んだ。つまり、俺は山頂から飛んだ宙に置き去りにされた。先輩が手を離したせいで。



「あんどぉおぉおおおお!!」

「殺す気か!!あんた、うっかりで俺を殺す気か!!」

「すまん!!悪かった!!俺が悪かった!!脱げる!!脱げるから!!」

「脱げないように張り付け!!膝を曲げろ!!」


 崖に捕まった先輩の背後を落下しかけた俺は咄嗟に先輩のズボンのベルトを掴んだ。そのままがくんと衝撃があったが何とか踏ん張って一命は取り留めた。先輩が剥がれなくても良かった。粘着力高くて良かった。全体重と荷物の負荷で先輩は半ケツだが背に腹は変えられない。


「いやぁぁぁぁあああ!!あんどぉぉぉぉおおおおお!!ケツが!!ケツ見ないで!!」

「誰も見ねぇよ!!パンツと言うモラルをはけよあんた!!」

「見てるじゃん!!」

「うるせえノーパン就活野郎!!いいから早く降りろ!!」






「はぁ、はぁ…生きて帰れた…」

「ふぅ、なんとか脱げなかったな」

「先輩の下半身が丸見えになった時が俺の命の終わりだった…嫌なものに命を繋がれた…」

「安藤、今何時だ?」

「ちょっとは九死に一生を得た喜びに浸る時間をくれませんかね。十一時三十分です」

「新記録!」

「何ガッツポーズしてんだよ。『安藤の重さで思ったより落ちる』とかほざいてショートカットし過ぎだろうが。あんた俺に何の恨みがあるの、ねぇ」

「失敬な。安藤はちゃんと護るつもりだったぞ」

「誰か俺をこいつから護ってくれ」


 地上素晴らしい。地に足がつくって素晴らしい。物理的に。カサカサ降りる方が百万倍ましだった。地上まであと30メートルと言うところで先輩が三分の二ケツまで露出していたが本人が気付いてなかったから良しとする。世界一恐ろしい絶叫系乗り物に乗った。しかも乗り物の方が絶叫してくるとか新しすぎる。と言うか常識もモラルも身に付けないとかこの人はどこから来たホモサピエンスなんだ。



「お兄ちゃん見て!いっぱい捕まえたよ!」


 無邪気な子供の声が聞こえる。ああ、山の下は小さな公園だった。小学生かな。兄弟らしき男の子が二人、虫取り網と虫かごを持って楽しそうに笑っている。生きて帰れた実感を噛み締めていると、お兄ちゃんが弟を褒めている、


「いっぱいセミ採れたな!」

「うん!ほら!いっぱい!!」



「……………」

「……………」

「……先輩」

「……なんだ、安藤」

「セミですよ。虫かごにぎっちぎちにセミが詰まってますよ、あれ」

「セミだな。ぎっちぎちだな」

「あの籠にぎちぎちに詰め過ぎて一部鳴くのを戸惑いさえしているセミを取るためにまだ日も登らない中登山して崖からうっかり落とされかけるも先輩を半ケツにする事によってクリアしたデンジャラスアドベンチャーの後の現実がこれですよ」

「現実とはかくも無慈悲で残酷なものか」

「先輩も詰め込まれればいいのに」

「俺もカゴがあったら詰まりたい気持ち」

「先輩、面接、間に合いますか」

「うん。でも俺の心は今虚無に満ちている」

「奇遇ですね。俺もです」



 お互いそれ以上言葉は無かった。腹の底から湧き上がるこの怒りを超えた虚無感。突き付けられた現実。探し求めた青い鳥、否、セミはスタート地点にいた。セミのために死にかけた俺と、セミのために半ケツで下山した先輩。チベットスナギツネみたいな目をする俺の隣で、先輩はスーツを羽織り直した。ネクタイを締め直すと、「安藤、今日はごめんな。ああ、あと、セミ、捕まえておいて」。そう言い残して去って行った。


 なぜ俺が先輩の食料確保をしなければならんのか。知らんがな。あんたはザリガニだけ食ってろ。紅い勇者とクリムゾンとカーマインを胃で混ぜてろ。

 はぁ、帰って洗濯して布団を干そう。


 筋肉痛の身体を引きずりながら、俺はその場を後にした。


 夏の半ば。春、入学当初はこんな事になるとは思わなかったな…



【NEXT・二匹目】

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