ジェロニマ・春・マリノの意外な就職 1642
【ジェロニマ・春・マリノ (Jeronima Faru Marino) の手記。現在は1642年の末ごろ。】
今年(西暦1642年)のはじめ、わたしはこれから生きていくにはどんな職についたらよいだろうと迷っていた。長崎市役所の事務仕事があるかと思って、市役所に行ったら、大坂の都の通詞研修生の募集公示が出ていた。西洋のことばと日本のことばの間の翻訳をする仕事なのだ。そういえば、わたしの洗礼名の由来はサン・ジェロニモ (聖ヒエロニムス) で、聖書をラテン語に翻訳した人なのだ。わたしは、父が生きていたころ、父のイタリア語や、父の同僚たちのポルトガル語を聞いて育った。父が亡くなってからは、母のまわりの人たちに、日本語の読み書きを教えられた。今の能力では翻訳を職業にできそうもないけれど、訓練をしてくれるならばつとまりそうだ。
募集公示の日本語版で「
採用の返事が来て、わたしは大坂に引っ越してきた。 研修が始まって1週間後、 日曜日は研修が休みで、キリシタンのわたしは上町の天主堂に行った。 礼拝のあと、塾長に呼びとめられた。 帝がじきじきに、わたしを名ざしで頼みたいことがあるという。 そんなことがありうるのだろうかと思いながら、ともかく宮殿にかけつけた。
帝の頼みは、会話のあいてになってほしいということだった。 会話を始めてみて、なぜわたしが求められたのかはわかった。 帝が思ったままに話そうとすると、日本語とポルトガル語がまざってしまうのだ。 どちらかのことばに統一するには、注意して文を組み立てる必要がある。 公用ならばその努力もするが、日常会話では気楽に話したい。 それを聞きとれる人、しかも同世代で同性の人に、身近にいてほしいのだった。 わたしは、明正院の女官部屋に住みこみ、そこから研修にかようことになった。
帝は満12歳まで日本語の中で生活し、 それから満17歳までポルトガル語で教育を受けている。 だから、子どもでもわかることは日本語のほうが話しやすいが、 理屈っぽい話になると、ポルトガル語のことばしか出てこない。 わたしが知っているのは、逆で、子どものポルトガル語と、おとなの日本語だ。 だから、帝が思うままに話すことがいつもわかるわけではないのだが、 何度も聞きかえしてもいい、辞書をひいてもいい、ということで、 話はゆっくりと続けられた。 帝がわたしに期待している役割は、帝の疑問を即座に解決する人ではなくて、 言語を探索する行動をともにする人なのだった。
わたしが話す日本語は長崎の商人のもので、 帝との会話にふさわしい表現ではないかもしれない。 そのことを言ったら、 帝は、これからの日本語は民衆が使っている表現を基本にするので、 貴族だけが使う表現などはすたれてもよいと思っている、 また、帝が公用で話す原稿の表現を点検する専門家はほかにいるので、 春は春にとって自然な日本語で話せばいい、と言ってくださった。
帝と中宮さまの夫婦水いらずであるはずの場に同席することも多くなった。 高貴な人の家庭に従者がいるのは当然なのだけれど、 従者はふつう静かにしているものだ。 ところがわたしは、同席しているときはいつも会話しているのだった。
中宮さまは、疲れていないときは、わたしを日本語会話の練習台にした。 理屈で思いついたいろいろな表現をならべて、 これは意味が通じるか、これはどうか、とたずねてくるのだった。たとえば、「人や、犬や、馬が「おる (居る)」というね。本や、つくえや、いすは「ある」だね。草や木はどちらかな? 人をのせて動く車は? 人形は? ...」というふうに。問答はたのしいのだが、体力が必要だ。
疲れているときの中宮さまが話すのは、故郷のガリシアのことばだった。 ポルトガル語に近いので、なんとか聞き取れる。 ところが、わたしはまだポルトガル語の研修ができていなくて、 子どもどうしの会話の経験があるだけだから、 わたしが話す表現は、中宮さまを友だちあつかいしたものになってしまうのだった。 話し始めてからそのことに気づいて恐縮すると、中宮さまはこう言ってくださった。
「公人としてのぼくは、 通詞研修生のきみには、ポルトガル語の公用文表現をきちんと身につけて、 使えるようになってほしい、と言う。 だけど、疲れているときのぼくが求めているのは、 身分や主従関係を意識した形式ばった会話じゃなくて、 子どものころの友だちどうしのような会話なんだ。 その目的には、きみの話しかたは、ちょうどいいんだよ。 ただ、このことはここだけの ないしょにしておこう。 ひとの耳のあるところでは、きみはまだポルトガル語会話はできないことに しておいたほうがよいだろう。」
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