第15話

 数寄屋橋の帝央病院で八弥がスレイに襲われていた丁度その頃、永田町にある学機総裁官邸では、観月が自室の机の上に開いた『九頭文書』を、机に頬杖付いて見つめていた。

 虚ろ気な眼差しは難解な超古代語の羅列に只くれているだけで、心は別の所にあった。


「あんまり斉賀の事をいびらないで下さいな」


 三時間ほど前、玄関に入ろうとする観月にそう言って擁護したのは本郷であった。

 部屋の窓から門の方を臨めば、満月の月明かりの中、今も彼は部下数名と共に、この学機総裁邸周辺の警護を行っている姿が伺えるハズだ。


「確かにあいつは、かなり乱暴な所がありますが」

「どうしようもないスケベでもあるわ」

「おっしゃる通りです」


 本郷は真顔で頷き、


「でも斉賀は、斉賀なりに学機に尽くしてくれています。

 実際、命令拒否はしますが、しかしそれで斉賀が総裁補佐に対して、手を上げた事がありますか?

 命令拒否をしても、何だかんだ言って結局、任務を遂行しています。

 自分の知る限り、斉賀は総裁補佐に服従している様にしか見えません。何もそんなに邪険にしなくても……」


 観月は、ふむ、と呟いて俯き加減に小さく溜め息をつく。


「……確かに、斉賀は良く戦ってくれます。――でも、あの男はお兄様、否、総裁に対し取り返しの着かない事をしているのですよ!」


 突然、観月は怒りだし、本郷の顔を睨みつけて戸惑わせた。

 本郷は観月の指す『取り返しの着かない事』を知っていた。


「……まだ、あの事を?」

「当然ですっ!あの男は一年前、あろう事かお兄様のお顔に――」


 観月はそこまで怒鳴ると、はっ、と我にかえって言葉を詰まらせた。

 裏悲しげな本郷の顔が、観月の顔を静かに見つめていたのだ。


「……そうよね。在仁さん、だからあいつを庇うのよね」


 観月の吹き上がった激しい感情を諌めたのは、感情的になっていた事に気付いてもたらされた昏い後悔ではなかった。その理由を知る本郷は、微笑んで頭を振ってみせた。


「…久し振りに俺を名前で呼んでくれましたね、観月君」

「あ……」

「大体一年ぐらいかな。昌子(まさこ)が自殺したのが夏だったから」


 本郷は昏い顔で溜め息を吐いた。


「……本当だったら、あの地下牢に閉じ込められていたのは俺だったのかも知れない。

 ――否、たとえ、妹が先代の帝央高総番に乱暴された為に怒り狂ったとしても、とても一人で学機をまともに敵に回す真似だけは出来なかったろう」


 本郷の脳裏に、一年前の記憶が鮮やかに蘇っていた。


 陵辱されたショックで、自らの手で命を絶ってしまった妹の亡骸を前にして立ち尽くす、一人の修羅が居た。

 一つ下の、可憐な娘であった。

 両親を早くに亡くし、祖父と共に道場を切り盛りしていた彼は、幼いながらに苦労を掛けてしまったこの妹には、幸せになって欲しいと常々願っていた。

 それを、あの力だけしか取り柄の無いボンクラが、兄の忘れ物を学校へ届けに来た時に偶然会ってしまい、一目で見初めるや、強引に妹を――。


 彼女はその日の晩、自室で首を吊った。


 激情に任せ、仇を愛刀で斬り伏せようと自宅の門を出た時、体育館の中で半裸で喪失状態だった妹を見つけてくれた同級の親友が何故か立ちはだかり、突然自分に当て身を食らわせて気絶させた。


 その晩から一週間、都内は、全国から召集された一万人にも及ぶ学生闘士の軍団と、たった一人の超人学生との戦場と化したのである。





「……昌子の仇を、斉賀がとってくれたのは、親友のあたしも少なからず感謝しています。

 否、九門一派の横暴に業を煮やしていた人達も、斉賀には感謝していました。

 実際、本来なら網走特級刑務所の永久氷牢獄に氷漬けで閉じ込められるところを、全国から山の様に来た嘆願書によって、八王子刑務所の地下懲罰牢へ三年間の幽閉へと減刑されたのですから」


 少し憂い気味に語る観月は、何かに戸惑っている様な昏い瞳を本郷に向けた。


「どうかされましたか?」

「……在仁さん。あたし半年間、斉賀空悟の行動を観察して来たけど、どうもあの男が良く分からないわ」

「良く分からない?」

「粗暴で、捻くれた根性の持ち主が……どうしてあそこまで、他人の為に平気で傷付く事が出来るのですか?」


 問われて、本郷は頭を振った。


「さあ。私も。あいつとの付き合いは高校入学以来、僅か一年では、斉賀空悟という男の本質は掴めません。

 私が分かっている範囲で言えば、男そのもの、と言うか、本能に忠実な面を持っている。

 だがその一方で、物事に打算的な言動を露にする割に、見返りを全く無視する奇特なお人好し、くらいですか。あとはそうですね――」


 そこまで言うと、本郷は暫し沈黙し、


「……あいつは優し過ぎるんですよ」

「優し過ぎる?」


 観月は傾げた。観月の知る限り、空悟が自分に優しかった事など、一度足りともなかったではないか。

 観月は不審の眼差しを本郷にくれる。観月が何を言わんとしているのか気付いた本郷は、思わず苦笑いした。

 結局、本郷は観月にそれ以上空悟を擁護する弁を述べなかった。

 巧く説明出来なかった事もあるのだが、これ以上の擁護は感情論に成り兼ねないと踏んだからであろう。

 しかし観月自身、あれ以上本郷に嘆願されたら、果たしてどう言い返していただろう。総裁補佐としての立場で返答出来る自信が、どうしても湧かないでいた。




「………ふう」


 回想を終えた観月は、机の上に広げた、解読に困難を極める古文書を再び見遣って溜息をついた。


「…それにしても、どうして『日死』の連中はこの古文書を狙うんだろう?とても、大した事が書かれている様には見えないけど」


 ぼやきながらも、観月はこの『九頭文書』を持ち出したのと同時に崩れ落ちた、本棚のあの最後の光景が脳裏を離れなかった。あれはまるで、この古文書が観月の手に渡る事を望んでいた様であった。


「やはりこれは、出雲に居られる日本帝に翻訳して頂かないと無理みたいね。……まあ、それには、あたし自ら出雲へ出向かわなければならないな」


 観月は漸くこれからの事に目処を立てると、両腕を伸ばして大きな欠伸をした。


「……あと、明日、あいつに謝らなきゃ……な」


     *    *    *


「満月、か」


 空悟は、好物のバナナを銜えたまま寝っ転がって、満月が綺麗な夜空を見上げ、ビルの屋上で月見バナナと洒落込んでいた。


「……全く、天童も厄介な奴を押し付けたもんだぜ。――本当にあいつもそうなのかね」




「ええ。『月』です」


 応えたのは、半年前を回顧する空悟の脳裏の中――漆黒の地下牢を訪れた学機現総裁、天童陽祇郎であった。

 入り口に近い朧げな闇の中に佇む彼を学機総裁と判断出来るのは、聞き覚えのある典雅そうな声のみであった。


「しかし、そうだとしても、俺がそいつに義理立てする言われはない」


 闇色に染まって外郭すら掴めない空悟の声が、憮然とした口調で言い返した。


「その通りです。――だが、今度の戦いは、多くの学生の命が失われる事でしょう」


 そう呟く闇色の天童の顔は、恐らく憂いているに違いなかろう。


「……それ程手強いのか、『日死』とは?」

「正体が全く掴めていません。既に、被害が多く出ています」

「それであんたの妹君が、対『日死』特別戦闘部隊を結成する、って訳か」

「ええ。兄思いは嬉しいですが、結構ハラハラさせてくれる事もあります」

「……まさか俺に、あんたの妹のお守りをしろと言うんじゃないだろうな」

「嫌ですか?」


 天童は闇の中で意地悪そうに笑って言う。


「天童、よもやトップになって、心労がたたっているんじゃないだろうな?

 よりによって、俺みたいな男にそんな事頼んだりしたら――大事な妹に手ぇ出すかもしれないぞ?」

「ははは、最近頓に忙しくなって少し疲れていますが、何、まだ大丈夫です。

 それに、観月も僕ばかり見てて、他の男性に興味を示さないのはかなり問題がありますから、少しぐらいの荒療治でもしないと駄目なんですよ」

「あんたなぁ……」


 呆れる空悟は、闇の中で少し身じろいだ天童の妙な動きに気付いた。


「……まだ、痛むのか?」

「……少し、ね」


 もしこの場が明るかったら、眉目秀麗と謳われる天童が伸ばした前髪で隠している、額左上から左頬にかけて走る大きな傷の疼きを手で押さえている痛々しい姿を伺えただろう。


「済まん」

「気にしなくて良いです。捨て身でなければ、君の暴走は止められませんでしたから」

「九門をぶちのめしたのはいいが、怒りに我を忘れていた所為で、無意味に皆んなに怪我を負わせてしまった」

「そんなに自分を責めない方が良い。全て、暴君九門を諌められなかった我々の罰だと思っていますから。

 ……それでも許せないと言うのなら、尚更是非、僕達に力を貸して下さい」


 空悟は何故か応えなかった。

 果たして、闇の中から一つの気配がすうっと消えた。

 だが気配の主に、特に落胆している様は無かったのを感じ取った空悟は、やれやれと溜息をついた。

 小一時間程経って、突然、闇が光の開闢を迎えた。


「あんたが斉賀空悟ね?」


 十畳ほどの小ぢんまりとした部屋に半年振りの昼をもたらした声の主は、入り口の扉を潜りながら空悟に問い掛けた。

 入り口に背を向けていた空悟は、すっかり夜目に馴れていた処へ、突然明かりをつけられた為に眩んでしまったが、声の主が一体誰か、目を瞑ったままでも直ぐに理解出来た。


「あたしは日本学生機構総裁補佐、天童観月。

 学機安保理事会の決議が、斉賀空悟、あんたを対『日死』特別戦闘部隊の一員として任命したので、召喚に来たわ」

「学機は犯罪者の力を借りなければならない程、人材不足なのか?」


 空悟は背を向けたまま嫌味を言う。


「半年前、あんたが学機に大打撃を与えたからよ」


 観月は嫌味を予測していたらしく、鼻で笑ってみせた。


「あたし自身、あんたみたいな男の力を借りるのは癪だと思っているの。

 でも、お兄様――もとい、総裁や上層部の決議で決まった以上、悲しいかな、従うしかないのよ。

 言っておくけど、あんたには選ぶ権利は無いわ」


 そこまで言うと観月は、クスッと笑う。何となく小悪魔を連想させる笑みであるが、誰の目にもはっきりと判るくらい、侮蔑と嫌悪感に満ちていた。


「……いえ、べつに選んでもいいわよ。その代わり、返答次第では二度と日の目を拝む事は叶わないと思いなさい。どうする?」


 そこまで訊かれたところで、漸く空悟は明かりに馴れて両目を開いた。

 久し振りの昼に視力は像を結ぶのに四苦八苦していたが、後ろを振り返り、入り口に立つ観月の姿は辛うじて見る事が出来た。




「……全く。あン時、安易に応え過ぎたか」


 頬張るバナナを一気に飲み下した空悟は、げっぷしてぼやいた。

 それにしても、あれだけ怒鳴って言っておきながら、総裁官邸から百メートルしか離れていない所にあるレコード会社のビルの屋上から、まるで警護をしているかの様に官邸を伺っているのはどうしたものか。


「俺も、甘ちゃんだぜ」

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