第14話
日は既にとっぷりと暮れ、空には滲み出した濃紺に数多の白点が穿っていた。
夕食を終えた八弥と晶は、午後九時の消灯まで駄弁り、一斉に灯が消えた後も暫し話し続けていた。尤も、夕方からは、積極的に話していたのは晶の方で、八弥は話題が尽きてしまい、ほとんど聞き手同然であった。
晶は年下にしては、呆れるくらい多くの分野に造詣が深かった。
芸能人のスキャンダル、漫画や八弥は余り読まない恋愛小説といった他愛の無いものばかりでなく、錬金術や天文学、果ては八弥がまだ習っていない量子物理学の事まで詳しく知っていた事には、八弥も驚かずにはいられなかった。
しかし一日中話していれば、流石に終わりの方にもなると晶もネタが尽きたようである。
この世界が素粒子と呼ばれる目に見えない小さな物質で構成されている事や、その素粒子の配列を組み替える事で世界を変革する事が理論的に可能である――と、一体何処でそんな話になってしまったのやら、駄弁ると呼ぶには余りにも濃過ぎる話を晶に言われても、数字を見ると泣けてくる程、自他共に認めている数学嫌いの八弥にはさっぱり理解出来なかった。
「あ――駄目駄目。あたし、物理学はさっぱりなのよぉ。そうゆう話はあのエテ公じゃなきゃ解んないよぉ」
頭を抱えて唸る八弥に、晶は苦笑する。
「御免なさい。八弥さん、学機で偉い人だってお兄ちゃんから聞いていたから、そう言う話にも詳しいと思ったんだけど……」
「偉くたって、お莫迦はお莫迦なのよぉ。あぁ、勉強は空悟に任せて、入院の間は頭使わずに済むと思ってたのに」
「ごめーん」
晶は、ぺろっ、と舌を出して照れ笑いする。
「でも、いいよなぁ。八弥さんにはそんなに頭の良いボーイフレンドがいるんだから」
うらやましそうに言ってみせた晶は、しかし何故か、太い眉を顰めてとても嫌そうな顔をする八弥に睨まれる羽目になった。
「どうしたの?」
「……どうしたもこうしたも、何であたしがあんなエテ公の恋人になんなきゃならないの?」
「え? 違うの?」
不思議そうに聞く晶に、八弥は追い払う様に嫌々手を振ってみせ、
「確かにあいつは男友達には間違いないけど、恋愛感情まではとてもとても……ああ、やだやだ、想像もしたくはないわよ」
八弥は身震いした。
「こうみえてもあたし、面食いなのよ」
「ふーん」
感心する晶の顔に、見る見るうちに喜悦の色が浮かび上がった。
「――んじゃ、うちのお兄ちゃんはどう?」
「へ?」
突然何を言う?とばかりに、八弥は口を開けてぽかんとする。
「うちのお兄ちゃん、あたしから見ても結構美形なんだけど、ああいう人間だから一つも浮いた話が無くってね。
最初、八弥さんみたいな人だったらお似合いかなぁ~~、何て思ったんだけど、空悟さんと付き合っているのかと思ってあきらめてたんだ。ねぇ、どう?」
「ど、ど、ど――どう、と言われても……」
ベッドから身を乗り出してまで訊く晶がもたらした予想だにしない展開に、八弥は返答に困ってしまった。
「……それとも、他に付き合っている人がいるのかなぁ?」
「そ、そんな人、……いないわよぉ」
八弥は思わず赤面して困窮する。見栄でも『いる』と言ってみたかったが、莫迦正直な口はそれを許してくれなかった。
してみれば、八弥もまた、今までそんな浮いた話とは無縁にあった。
別に、今まで全く男っ気の無い生活を送ってきた訳ではない。
以前通っていた幕張の高校は共学である。只、周りに居た男は皆、屈強の番長ばかりであった。
中学生の頃から浦安地区を締めていた凄腕のスケ番として関東に名を馳せていた八弥には、男どもは皆、屈強揃いだがしかし自分より弱い者ばかり。
『八弥姉さん』と慕ってくれても、実際の処、頼りにされる一方で恐れられていたのが実情であり、八弥もその雰囲気は何となく理解していた。
三か月前、浦安で『日死』の刺客が暗躍した時に知り合った空悟にしても、その腕っ節は自分と互角、否、それ以上であると思っているが、そんな単純な理由では異性として意識する対象には成り得なかった。
大体、あの空悟自身、色々Hなちょっかい出す割には、八弥を女性として見ていない節もある。
言うなれば互いに、腹を割って話せる気の合う悪友みたいなものとしか思っていなかった。
その点、あの漲飛丈は無口だが礼節正しく、何より顔は断然良い。
(――顔は良い?面食い、って言っちゃったけど、あれは建前で言ったつもりなのに……)
あの後、付き合ってみる?としつこい晶の誘いを何とかはぐらかした八弥だったが、消灯して暗くなった病室の天井を、寝転がるベッドの上から呆然と見つめて考え事をしていた。
八弥にとって今日という一日は、色々考えさせられる事の繰り返しであった。
八弥は朝からの事を思い返している内、すっかり目が冴えてしまい、寝そびれてしまった。
晶はしゃべり疲れたらしく、疾うに満足げな顔で静かに寝息を立てている。
八弥は仕方なく、病棟一階のロビーの自販機でジュースでも飲んで気を沈めようと、静かに退室した。
エレベータで一階に下りた八弥は、非常灯以外明かりの無い暗いロビーのジュース自販機に百円玉を投入し、缶入りの果汁百パーセントのオレンジジュースを買い求める。
がこん、と勢いある音がロビー一杯に広がる。
それ以外は、八弥の履いているスリッパがペタンペタンと音を出しているだけ。辺りには誰一人いない。
なのに、奇妙な気配が辺りに立ちこめていた。
八弥は気になって辺りを見回し、外の方も大窓から伺うが、特に異常は無かった。
「……変ねぇ。――何?」
八弥が注目したのは、庭を覗ける大窓であった。大窓は外の漆黒を何事も無く透過させていた。
「何よあれ……?」
唖然とする八弥の瞳は、大窓の墨色が波打っている事実を認めていた。
この闇は、大窓の外側一面に張り付いて蠢いていたのだ。
驚く八弥は、まだ中身が残っている缶ジュースを、自販機に内蔵されている、空き缶の直径より少し大きい程度しかない丸い空き缶回収口へ後ろ向きですっぽりと投げ入れ、スリッパを脱ぎ捨てながら慌てて外へ駆け出した。
裸足で玄関を飛び出した八弥は、庭に出てロビーの大窓一面に張り付く奇怪な黒い物体群を追う。
しかし黒い物体群は八弥が庭に出るや、一斉に壁を伝って上へ移動して行った。
「何なのよ、今のわ?!」
八弥は額に右人差し指を当てる。するとその指先から黄金色が溢れ出て、大地の聖霊皇冠を額に宛がう。大地の聖霊皇の力を使って黒い物体群が何処に居るのか調べる為である。
「……変ね。病棟の壁からも消えている」
余りの異変に八弥は地聖環を取り出し、庭の中央にある噴水の方へ、闇の中を探る様にゆっくりと歩いて行く。噴水の傍らに立った八弥は、困憊した顔で溜め息を洩らした。
(……おかしい。大地に不穏な気配は無い)
その通りであった。何故なら敵は、屈む八弥の背を狙って、彼女の上空から巨大な爪を振り下ろして来たのである。
鈍い音が振動と同時に八弥を見舞った。
昆虫の様に艶のある黒く細い足の先にある、八弥の胴体くらいはあろうか巨大な白い爪は、八弥が立っていたその位置の地面に突き刺さっていた。
「――やはり上か!」
〈撼天動地〉で、巨大な爪が突き刺さった地点から病棟の方へ五メートル近い地点に瞬間移動していた八弥は、立ち上がりながら上空を仰いだ。
そこには、墨色の空を支えるかの様に、巨大な八本の柱があった。
「流石、八卦霊皇士。一筋縄では殺せんか、くかかっ」
妙にしわがれた声が、空から聞こえた。
八弥が一層暗さを増した空を凝視すると、その声の主がゆっくりと地上に下りて来た。
声の主は、巨大な爪を持つ蜘蛛の様な八本足の消失点に居た。
八本足はいづれも声の主の背中から生えていた。本体とも言うべき声の主は、薄汚れたベージュのコートを着た、鰓張りで頬が痩けた醜悪な相を持つ中年の男であった。
「空から仕掛けてきたか」
不敵そうに微笑む八弥であったが、やや引き攣り気味の口元が動揺は隠し切れていなかった。
漫画にしか出て来ない様な巨大な蜘蛛を背負った醜悪な男というインパクトは、滅多な事では動じない八弥ですら困惑せずにはいられない様である。
「成る程。爪先から出ている糸を建物の間に張り巡らせ、その上に乗っていたから、大地の聖霊皇も刺客の存在に気付かなかった様ね」
「儂の名はスレイ。お前らの言う『日死』から来た男じゃ。しかし成る程、レンの言った通りべっぴんじゃのぅ」
「あら、光栄だわね」
八弥は思わず綻びる。敵とは言え、蜘蛛男スレイがお世辞抜きで褒めてくれた事は判っていた。悪い気がしないのは、男勝りと言われてもやはり女性と言うべきか。
「このまま殺すのが惜しくなった。儂がよがり殺してくれようぞ、かっかっかっ」
「生憎だけどあたし、おぢさん趣味は無いの」
好色そうな邪笑を浮かべてこちらを見つめるスレイに、やにわに冷めた貌を見せた八弥は再び地聖環を手にして構えた。
「あんたもあの魔女の後を追わせて上げるわ!覚悟しなっ!」
両手に地聖環を一つづつ持った八弥は、怪蜘蛛の本体であるスレイを狙って飛び掛かる。
だが、スレイは背負う巨大な足に上空へ、すい、と持ち上げられ、八本足もまたその勢いに乗って宙に浮き上がる。
目に見えるか見えないか程度の糸に、爪先だけで全体重を乗せていた巨大蜘蛛男スレイの軽い身のこなしを、八弥は認識していなかったか。
それは、否、である。
「〈地聖環〉――〈抜山蓋世〉!!」
丁度浮き上がったスレイの真下に飛び込んだ八弥は、左手に持つ地聖環を足元の地面に落とす。地聖環が黄金色の粒子を垂直に引いて地面に落ちると、次に八弥は残りの地聖環を握り締める右手を、地表の黄金色の輪郭の中心に屈みながら叩き付けた。
それは黄金色の輪郭を持った大地の口が咆哮したと言うべきか。
地表に落ちた地聖環が区切った内側の地面が爆発し、間欠泉よろしく黄金色の火柱を天高く吹き上げたのである。
狙いは上空のスレイであった。地聖環が吸い上げた大地の強大なエネルギーが、一点に集中した事で凄まじい破壊エネルギーに転じ、見事スレイの胴体に直撃したのだ。
不意をつかれたスレイは避け切れず、直撃を食った腹部から煙を吐き出して、ゆっくりと地面に落ちて来た。
八弥は下敷きになる前に既にその場から離れ、力尽きた『日死』の刺客を見てほくそ笑んでいた。
「ざまぁみろ。大地の八弥を甘く見たな――」
突然、八弥は眩暈を覚え、思わずその場に跪いてしまう。
「……ちぃ、昨日のダメージが残っていたか」
「違うね」
応えたのは、今だ燻る胴体を抱えて平然と起き上がったスレイであった。
「……な…何だ…と?」
「ほれ、自分の身体を良く見ろ」
言われて、八弥は自分の身体を見た。
「な、何よ、このまとわりつく糸は?」
いつの間にか、八弥の全身を奇怪な糸がまとわりついていた。
八弥は直ぐにそれが、先程までスレイが背負う巨大な爪が乗っていた微細な糸と同じ物である事に気付いた。
次第に激しい眩暈に襲われながら周囲を見渡す八弥は、やがてその奇怪な糸は、知らぬ内に病院一帯に張り巡らされていた事に気付いて瞠ってしまう。
原因不明の脱力感に、息も絶え絶えとなった八弥は、ついに腰から地面にへたり込んでしまった。
「くかかっ。お前にまとわりつくその糸は、儂が背中に寄生させている『タランチュラ』が吐き出した『ドレイン・スティング』じゃ。テキサスに棲むこ奴を捕まえるのに千人近くも犠牲を出したが、こうも簡単に八卦霊皇士のパワーも吸収してくれるとは、それに見合う働きをしてくれるわい」
勝ち笑うスレイは、今だ腹部を燻らせながらも、一歩一歩ゆっくりと八弥に近寄る。
「……何故、あたしの技が…効いていないの?」
「こう言う事さ」
スレイは自らの衿元に手を掛け、ぶわっ、とコートの前を開いた。
開かれたのと同時に、燻るコートの下から、奇怪な小さな影が無数、へたり込む八弥に飛びかかって来た。
それは、先刻大窓に張り付いていた黒い物体群――何と蜘蛛の大群であった。
それを目の当たりにした八弥の顔が瞬く間に青ざめた。
「な――――?!」
「驚いたか。そ奴らは儂の身体を護る鎧でもあってな、回復仕切っておらぬお前の技の威力などたやすく跳ね返してしまうのさ――」
スレイは、不意に頬へ受けた、夜空から落ちて来た滴に気を取られた。
「雨だと? 雲一つ無い晴れた夜空だったが――本降りになる前に片を着けなければな。
さあ、蜘蛛どもよ、先ずはその小娘を思う存分嬲るが良い!その次は、この病院にいる者共を食らうのだ、かっかっかっ!」
高笑いするスレイの胸元から、黒い津波が吐き出さる。
八弥の全身目掛けて、怒涛の如き無数の子蜘蛛がのし掛かって来た。
果たして、戦闘不能に陥った八弥の運命やいかに――?
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