第11話
白蝋の美貌が土塊と化す一時間程前。
放課後、観月は、帝央高校本舎の北向かいにある別館図書館の地下三階にある蔵書庫の中に居た。
二百坪以上もある広大な地下蔵書庫には、高さ二メートル三十センチ、横一メートル半、幅二十センチの本棚がぎっしり、整然と並んでいた。関東の学校の中では最大の蔵書量を誇っており、内容もバラエティにとんでいる。
国内の学内図書館の中で唯一、スペースオペラの名作「ペリィ・ローガン」全一万巻が揃っているのはちょっとした自慢であった。
観月は、蔵書庫の一番奥、切れかけた蛍光灯がちらちらと照らす、埃塗れの本棚の前に立っていた。
その本棚がある一角は、何とも言い難い不穏な空気が漂っていた。
見えないハズなのだが、何故か空気の色が他よりトーンダウンしている様に見えてならない。
まるでその一角だけが世界が別の様である。そして異なる中心がその本棚である事は明らかであった。
果たしてその本棚には何が置かれているのか。良く見れば、その本棚がある位置は丁度、蔵書庫の北東――『艮(うしとら)』即ち鬼門の方角ではないか。作為的に設置されているのか、それとも只の偶然か。
鬼門の世界に染み行った美少女がじっと見つめる五段組のその本棚は、奇妙にも上から二段目に置かれている油紙で包装された小包以外、何も収納されていなかった。
もっと奇妙な事に、まるで何十年もの間誰も手を付けた事の無い様に、ぎっしりと堆積した埃が外皮と化す本棚に保管されながら、その小包とその周り幅一センチには塵一つ無い。ほんの数分前にそこに置かれたかの様である。
それを否定するのは、小包の包装を留める封印の糸であった。
小包をぐるぐる巻きにしているその糸は、棚の四隅に打たれている釘に絡み付き、がっちり封印されている。
封印自体は、特に何の意味も持っていない。強いて言えば、盗難防止用程度の物である。観月は封印の糸を解かず、そのまま小包を両手で引っ張る様に取り出す。
すると小包を縛る糸は一瞬にして塵と化し、霧散していった。
何年、否、何十、何百年も触れられず放置されていた為の様に思えるのだが、果たしてどれくらくらい前から、この棚にそれはあったのか。地下蔵書庫の本棚は、十年前に全て新品と交換されていたのにも拘らず。
「……これが、例の『九頭文書(くかみ・もんじょ)』ですか」
観月の背後から覗き込んで言ったのは藤堂だった。
観月は、小包を両手で大切そうに抱きかかえた。意外と見掛けよりずっしりとした手応えが、観月の華奢な腕にのし掛かった。
「結構重いわね。うちのゆずぐらいかしら。あいつ、子猫の時はぷにぷにした風船人形みたいに可愛いかったのになぁ……」
観月は独り言ちて破顔する。あまり周りの雰囲気に左右されないマイペースなタイプらしい。
――ズン!突然、二人の直ぐ傍で、何かが崩れる音がした。
小包が保管されていた本棚が、一瞬にして塵と化していたのだ。
さながら、永きに亙る役目から解放されて漸く安堵の眠りにつけたかの様な、そんな最後であった。
観月は暫し塵の山を見つめ、やがて何の感慨も抱いていない面を戻して本郷と共に退室した。
観月は本郷を伴って、一階にある閲覧室に向かった。
南向きの大窓から夕映えの茜色が注がれている、ほとんど人気のない閲覧室に着いた観月は、窓側の席に腰を下ろし、封印の如き油紙の包装を剥いで、中身の古文書を晒した。
「……変な色の表紙ね。表題も書いていない所は、無地のブックカバーを着けているみたい。
白っぽいというか、ピンクっぽいというか。何かの皮みたいだけど、判るかしら?」
「……さあ?でも何処かで見た様な?」
二人とも、その皮を何処かで見た覚えがあるのだが、どうしても思い出せなかった。
「人の皮だ」
「「ひ、人の皮ぁ?!」」
古文書の表紙を見入っていた観月と本郷は、背後から囁かれた声に、漸く記憶と合致した古文書の表装の正体に気付き、思わず悲鳴を上げる。観月は嫌悪感を露に、溜まらず古文書を上へ放り投げてしまった。
古文書の表装の正体をぽつり告げたのは、空悟であった。
突然現れた空悟は、幾重の羽根で羽ばたいている人皮の古文書を右手でキャッチした。
空悟の出現に驚いた二人は、悲鳴と共にまるで漫画の様に同時に上へ跳ね上がった。
「「さ、さ、さ」」
「お前ら、何を勧めてるんだよ」
「「猿」」
「喧しい」
「斉賀空悟、一体、いつの間に?」
瞠って訊く観月に、空悟は嫌そうに頭を掻き掻き、
「いちいち、フルネームで言うなよ、メガネっ娘」
「あんたこそ、あたしを気安くメガネっ娘、って呼ぶな!」
「じゃ、総裁補佐」
「そ、それで良い」
頷きながらも、何故か観月はあまり嬉しくなかった。メガネっ娘、と呼ばれた方が、実の処、気分が佳かったりする。
左右いづれも2・0、眼鏡は中学入学の祝いに親愛なる兄から、バレッタと一緒にプレゼントされた伊達眼鏡である。
以来、それらの品をすっかり気に入ってしまった観月は、高校入学後も毎日欠かさず身に付けており、自分でも似合っていると思っていた。
空悟は茶化して言っているのだろうが、しかしそう呼ばれると何故か褒められているみたいに思え、少し心が弾むのである。観月は複雑な思いに駆られた。
「でも何で、『九頭文書』なんか引っ張って来たんだ?」
「斉賀、この古文書を知っているのか?」
意外な事実にまた驚いて訊く本郷をよそに、空悟は『九頭文書』をパラパラと捲った。
「あんた、何でこの本を知ってるの?」
「昔読んだ、考古学者の阪井克軍(さかい・かつとき)の著書で紹介されていた」
「阪井――ああ、広島の葦嶽山(あしたけさん)ピラミッドの発見者で有名な、超古代文明学の第一人者だったな」
「総裁補佐よ、こんな物を持ち出したりして、ちゃんと読めるのか?」
どう言う意味よ?と訊く観月の鼻先に、空悟は開いた『九頭文書』を突き出した。観月はそれを手に取り、中に書かれている文字をじっと見つめた。
「……ふう。駄目だ、読めないわ」
暫くの後、観月は『九頭文書』から顔を上げ、ふう、と困憊し切った溜め息を洩らした。
「中は全部、超古代文字で書かれている。これを翻訳出来る者は、今や限られている」
「……この超古代文字を資料無しでまともに読めるのは、今や日本広しと言えど唯一人、――出雲の日本帝のみ」
「あの九門典膳が、自分に都合の良い文民統制を図って、多くの文献を焚書したり、学者達を粛正したからだ」
やれやれ、と空悟は肩を竦める。今更、死人の所業を責めたところで、何も始まらないのは、観月にも判っていた。
「それに、この『九頭文書』、只、超古代文字を並べているだけじゃなく、複雑な意味合いで書き連ねていると聞く。学者達が資料を山積みにして翻訳作業に取り掛かったとしても、不眠不休を続けて十年は掛かるそうだ。俺の忠告が無かったら、えらい徒労が待ち受けていた処だぜ」
「何よ、偉そうに……」
ぼやく観月であったが、反論出来なかった。
「でも、こんな訳の判らない古文書を管理していた宮鬼(くかみ)家は、どんな内容なのか、果たして知っていたのかしら」
「触り程度なら、口伝で伝わっている」
そう答えた空悟は、何処で聞いたのか、『九頭文書』の内容を観月と本郷に語り始めた。
その内容は、一体どんな本を読んだのか、観月が読んだ参考書以上に詳細なものであった。
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