第10話

 蒼い晴天が、今日もまた朱色に染め変えられつつあった。

 遠くから聞こえる、学校の終業の鐘が茜色に染み渡る中、空悟は、飯田橋にある警察病院の玄関を潜り抜けた。


「あ、斉賀君。どうしたのだ」


 玄関の受付室の中で紙カップのコーヒーを飲んで寛いでいた壮年の警官、戸倉は、顔見知りの突然の訪問に驚いて、小窓から身を乗り出した。

 呼び止められた空悟は、数歩進んでから受付室に振り向く。戸倉を見る顔はそこはかとなく疎ましげであった。


「ここに、音無えみりの遺体が安置されていると聞くが」

「ああ。それがどうしたのかい?」

「ちょっと、気になる事があって。何処ですか?」


 訊かれて、しかし戸倉は暫く黙り込んだ。

 何処か、空悟の様子がいつもと違い、変に見えてならない。

 心なし、顔色も悪く青白い。まるで死人である。

 幾度か、空悟が任務で怪我を負い、戸倉が三交替制で警備に詰めているこの警察病院へ治療の為に担ぎ込まれたり、或いは怪我を負った同僚の学生闘士に付き添って来院していたので、お互い顔は知っている。待ち時間の間、他愛ない世間話もした事もある。

 あまり良い第一印象を与えぬ横暴そうな雰囲気とは裏腹に、実は思慮深く、情に厚い男である事に気付いた時は、余りのギャップにある種の感動さえ覚えた程である。

 ある任務で瀕死の重傷を負った学生闘士が十二時間にも及ぶ大手術を受けている間、空悟は手術室の前にずうっと立ち続け、手術の成功の報を聞いた途端、戸倉の目の前で安心仕切ってその場に倒れた事があったが、まさか重傷の学生闘士の為に限界まで輸血していたとは思わなかった。

 戸倉はふと、昨夜の事件を思い出す。そう言えば、空悟は怪我をしていたと聞く。誰に一番やられたのかまでは知らないが。


「……あ、ああ。あいつなら地下三階の遺体安置室さ。案内しようか?」

「お願いします」


 戸倉は同じ部屋に居る同僚に後を任せ、マグカップを机に置いて受付室から出て、空悟を案内した。二人は玄関を奥まった先にある階段を下りていった二人は、やがて薄暗い地階の一番奥にある、大きな鉄の扉に閉ざされた遺体安置室の前に立った。


「検死は済んでいるよ」


 戸倉が重く閉ざされた扉の鍵を開ける。二十畳ほどの広さの遺体安置室内は、蛍光灯が三列に並んで設置されており、意外と明るい。とは言っても、外の廊下より少しは、であるが。音無えみりの遺体が寝かされているベッドは、遺体安置室の一番奥にあった。

 えみりの遺体は、全身を白いシーツで覆われて隠されていた。遺体安置室に入った空悟は、えみりのベッドの傍らに歩み寄ると、何故か小首を傾げてシーツをじっと見つめた。


「一体、どうしたというのだ?」


 戸倉は不審がって聞くが、空悟は何も応えない。ややあって、空悟は頭がある方のシーツの端を掴み、ゆっくりと剥いだ。

 シーツの下には、白蝋の美貌が眠っていた。


「……これは」

「ああ、腹に大きく穴を開けられ、腸はほとんど吹き飛んでいたらしいが、顔は全くの無傷だったそうだ。悪党だが、とても穏やかで綺麗な死に顔だ」

「頭から落ちたハズだが」

「さぁな。何かクッションでもあったんじゃないか?」


 空悟は無言で佇んだ。その様は、何処か、ぽかんとしている様に見えて、その反面、何か考え込んでいる様な躊躇いさえ伺える。


「……何故?」

「は?」


 戸倉は、ぽつり洩らした空悟の呟きに違和感を覚える。何故、『何故?』なのか。

 暫くの沈黙の後、空悟はえみりの死に顔をシーツで隠した。

 すると空悟は奇妙な行動を取る。親指と人差し指を少し浮かせて握った右拳を、鼻の頭に当ててからゆっくり胸元に下ろす。

 次に左肩に当てて右肩に流す様に水平に移動させる。それを見ていた戸倉は、その動きが十字を描いている事に気付いた。

 だが、それが何を意味するものなのか、戸倉にはさっぱり理解出来ない。

 しかし、そこはかとなく寂しげであった。それだけは戸倉にも解るのだが、やはりその理由は解らなかった。


「……斉賀君。一体、何で君はこの遺体を伺いに来たんだ?」

「ちょっとした、確認です」

「確認?」


 一瞥もくれず言う空悟に、戸倉は聞き返す。

 果たして、空悟は何も応えない。

 唯一、その場で応えたものがあった。


「――え?」


 戸倉は目を剥いた。

 目の前で、えみりの遺体を覆うシーツが突然動いたのである。


「な、何だぁ?!」


 戸倉は素っ頓狂な声を上げて、もぞもぞと動くシーツを見つめた。その間、約十秒足らず。

 やがて、シーツは波打つ事をぴたりと止める。まるで先程までの光景が悪夢だったかの様に。躊躇いつつ、戸倉は恐る恐るえみりのシーツに左手を伸ばす。

 腰は引け気味だが、右手は既に左腰の黒皮のホルスターの蓋を開け、先端に六芒星を刻み、聖水で霊力的処理を施した38スペシャル弾丸を込めたミロクMⅦリボルバー拳銃のグリップを握り締めている。

 戸倉はシーツの端を掴む。

 そして、一気に剥いだ。


「な――――?!」


 ベッドの上には、えみりの遺体は無かった。


「な、何だ、この土塊(つちくれ)は!?」


 代わりに、ベッドの上には人形(ひとがた)の土塊が乗せられていた。


「ま、まさか、あの『日死』の魔女、生きていたのでは?」

「否、間違いなく死んでいる」

「えっ?」


 混乱する戸倉は、この予想外な出来事を目の当たりにしても、全く動じていない――初めから承知であったかの様な冷静さを保つ空悟を見て、唖然とする。


「まさか…斉賀君、この事に気付いて?――でも、どうやってこの事を?」


 果たして空悟は答えず、踵を返して一人部屋を出て行く。


「お、おい、斉賀君!」


 呆気に取られていた戸倉は、掴んだシーツを話す事さえ忘れ、ワンテンポ遅れて慌てて空悟の後を追って駆け出す。ゆっくり歩く空悟は、既に扉を潜って廊下を進んでいた。


「おい、斉賀――?」


 扉を抜けた戸倉は、廊下をきょろきょろ見回す。何故か、空悟の姿が見当たらない。

 上へ昇る階段はこの廊下の奥まった先にある。空悟はゆっくりと歩いていた。他の部屋に入ったとしても、一番近くの部屋の扉はここから十メートル先、駆け足で追う戸倉なら扉を閉める姿は優に目撃出来る。もっとも、その扉には鍵が掛けられており、第一、隠れる謂われも無い。

 戸倉は、薄暗い廊下に霧散した空悟の姿を求めて暫しその場に佇む。そして余りの異常事態に戦慄しつつ、学機に連絡せんと駆け出した。

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