第6話

 翌朝。

 近付きつつある冬に少し冷え込んでいるが、壮快な青色が広がった空は、昼までに僅かでも暖かさを取り戻す事を告げている。

 顔面をオーバー過ぎるくらいに包帯を巻かれている空悟は、寝返りで剥がれた薄手の掛け布団を引っ張りながら、大きなくしゃみとともに起き上がった。

 寝込んでいた緊急治療室の簡易ベッドの上で、間もなく運ばれて来たパン中心の朝食を、口元まで覆う包帯の隙間から四苦八苦しながら摂った後、朝食を持って来てくれた看護婦から教えてもらった、八弥が居る二人部屋の病室へ向かった。


「……あたし、手加減したつもりだけど」


 病室を訪れた怪奇ミイラ男の正体を、動じる事無く一目で見抜いたパジャマ姿の八弥は、ベッドに腰掛けたまま、脇にあるテーブルの上の朝食のトレイを片付けながら、心持ち済まなそうに苦笑いした。


「お前さんより破壊力のある奴が止めを指しに来た」


 空悟は顔面の包帯を解いて、憮然とする貌を露にした。


「汝の正体見たり、前世魔人パンダ男」

「ば~~かたれ。笑うんじゃねぇよ、八弥」


 空悟は青あざのある両目で睨んだ。


「へへへ、また姫さんに喧嘩売ったんでしょ? やり返されるに決まってるのに、莫迦だよね」

「煩ぇい」

「大体あんた、進歩というか、学習機能が無いんだよね。――それとも、本当は姫さんにいたぶられるのが好きなマゾなのかしら?」

「莫迦たれ。何だ、その含み笑いは。あんまりなめた口聞くと乳揉むぞ、こら」

「……あんた、もう少し上品になれない?」


 呆れ顔の八弥が目で促した隣のベッドの上では、同室の患者である十二、三歳の小学6年か中学一年生ぐらいのお下げ髪の少女が、二人の会話を盗み聞きして笑いを堪えていた。

 流石に空悟も、初対面の者の前での下品な言動に恥じたらしく、気拙そうに黙り込んだ。


「御免ねぇ、晶(あき)ちゃん。この男、下品の塊であたしも困ってんのよぉ」


 ここぞとばかりに、八弥は晶と呼ぶ同室の少女をダシに、嫌みたっぷりに釘を指した。

 苛立ちと恥じらいがマーブル模様となって造り上げた空悟の困却の貌に、晶は判っているのだが、どうしても笑いを堪えられずにいた。


「くそったれぇ。そんな事言うと、今度の試験の出題傾向教えんぞぉ」


 空悟は小声で呟くが、はっと我に返る八弥の耳にははっきり聞こえていたらしい。


「――ちょ、ちょっと、それは勘弁してよ空悟君ぅん♪」

「猫なで声なんか使うンじゃねぇよ、似合わねぇ。

 大体だなぁ、何で高一の俺が、高二のお前さんの勉強の面倒を見てやらなきゃならんのだ?」

「そんな事言わないでさぁ♪ 胸、揉ましてあげるから♪」

「……八弥。お前、プライド無ぇだろ?」


 ため息混じりに言う空悟に、八弥は引きつった笑みで応える。少しは自己嫌悪を覚えている様である。


「……あんたに言われんでも、プライドぐらいあるわい。

 何が悲しゅうて、高一を留年(ダブ)っている男に、高二(いっこうえ)の勉強を教わらなきゃならんのよ。

 そもそも何でこんな猿の頭の出来が良いのよっ、まったく!

 高天原(たかまがはら)の八百万(やおろず)の神々は、一体何の酔狂でこんな男をこの世へ送りになられたのか」


 八弥が口にした台詞の中のある単語(キーワード)を耳にした途端、空悟の表情が険しくなった。


「あ、猿、と言ったな。――判った。赤点の神様がにっこり笑って、八弥クンを手招きしている姿が目に浮かぶぜ」

「冗ぉ~~談んんよぉ――おっ!お願い、あたしを見捨てないでぇ――っ(血涙)」


 嫌々首を振って縋る八弥を見て、空悟は意地悪そうににやりとする。

 八弥は本気で困っていた。

 留年している事をからかう八弥であったが、学力検査の為に毎月末に催される月度試験前になると、この様に空悟に縋って来る。

 八弥の学力は並より上、決して悪くはない。だが仕事柄、学業に専念出来ない為に、授業の内容に付いて行けなくなりがちであった。

 その為、試験前はいつも大慌てで一夜漬けの詰め込み勉強に必死になっていた。

 既に高校の学科はおろか、大学院で漸く習える高等学科を中学生の内にマスターしている優れた学力を持つ空悟が、有能な家庭教師として、毎回嫌々ながら一夜漬けに付き合ってくれなかったら、八弥は毎週日曜午前中に催される補習に出席しなければならない羽目になっていただろう。


「よしよし、判った判った。今回だけは許してやる。その代わり、お前の恥ずかしい写真を俺に渡せば――――あべしっ」


 嫌らしく笑う空悟の顔面へ次の瞬間、そっと添えられる様に、しかしどっしりと力強く、八弥の右裸足がめり込んだ。


「調子に乗るな、この色ボケ猿っ!」


 八弥が放った右足蹴りのベクトルに、空悟の身体が乗り、床に転んだ。


「――痛ってぇっ!八弥、いきなり何しやがる!」

「余んまり頭にのるな。あたしはそこまでプライドを捨てる気は無い!」

「なんぢゃそらぁっ! さっきと言ってるコト違うじゃねぇかっ!」


 空悟は怒って身を起こす。しかし背後の扉の無い入り口に現れた気配に気付き、慌てて振り返った。

 そこには、スポーツバックを抱えた、濃紺の詰め襟の学生服を着た少年が居た。

 空悟は暫し唖然として、その少年の顔を見ていた。

 歳は空悟と同じくらいか。身長は空悟より十センチ程上、一八五センチ前後ぐらいだろう。

 どんな整髪料を使っているのかは知らぬが、短めの亜麻色の頭髪全てが天を突いているのは、かなりインパクトがある。

 否、それ以上に――何と澄んだ瞳の持ち主であろう。

 逆三角形の中性的で凛とした細面の中で、初対面の者が真っ先に目を奪われるのは、蕭森(しょうしん)の奥に隠された凛然たる聖泉の水面を思わせる、この静かな瞳であった。


「……賑やかだな」


 少年はぼそり呟いた。呆れたのか、怒っているのか、果たして伺い知れぬ、余り感情のこもっていない、実に淡泊な口調である。


「丈兄ちゃん、おはよう!」


 丈と呼ばれた少年は、晶の知り合いであった。晶に手を振ってみせた丈は、床に座る空悟に一瞥もくれず通り過ぎ、晶が使っているテーブルの上に抱えているスポーツバックを、ややぶっきらぼうに置いた。

 八弥は、自分達がまるで眼中に入っていないかの様な、そんな素っ気ないくらい泰然過ぎる丈の態度に暫し呆気に取られていたが、思い出し慌てて挨拶した。


「あ、失礼。昨日の夜から同室してます葉月八弥と言います。多分、二、三日の短い入院ですが、宜しくお願いします」


 挨拶され、丈は顔を少しだけ八弥に向け、


「……宜しく」


 事務的な素っ気なさで、それだけ言ってお辞儀すると顔を晶の方へ戻し、持って来たスポーツバックから晶の着替えを取りだし始めた。

 八弥は、丈の淡泊振りに言葉を無くして唖然とした。ここまで徹底されると、怒る気も殺がれてしまうらしい。


「……えれぇ、無愛想な奴だな」


 起き上がって八弥のベッドに歩み寄った空悟が、そっと八弥に耳打ちする。


「……何か、妙な男と思わねぇか?」

「妙?」


 八弥も小声で聞き返した。


「何て言うか……気になる雰囲気を持っている」

「でも、悪い人には見えないわ」

「ああ」

「……珍しいわね」

「何が?」

「空悟が、初対面の他人に、第一印象で良い評価を出した事よ。

 いつもなら、いくらあたしが良さそうな人と言っても、胡散臭ぇ、怪しい奴だ、って酷評するじゃない」


 空悟は眉を心持ち顰め、


「俺だって、人を見る目はある」

「ふぅん。猿でも人を見る目があるのね」

「また言いやがったな、八弥」


 じろり睨む空悟に、八弥はにやりとしてみせた。


「だって、あんたお猿さんにしか見えないンだもん。――だって、ほれ」


 言うなり、八弥は自分のテーブルの上に残してあった、朝食のデザートのバナナを掴み、入り口へ放り投げる。


「ウッキ――っ♪」


 空悟は、ほぼ条件反射で、宙を抜けるバナナを追ってジャンプし、掴み取る。

 床に着地する間に、空悟は手慣れた手付きでバナナの皮を剥き、実を一口で頬張る。実に満足そうである。バナナは空悟の好物の一つであった。


「あはは、お猿さん、お猿さん」


 今の空悟のリアクションに、晶は無邪気に笑って拍手する。


「…………」


 晶にまで言われては、空悟は怒るに怒れず、憮然とするばかりであった。


「……八弥! いいか、俺はこれで帰るが、お前は二、三日、ここで大人しく入院して、昇り切った頭を冷やしやがれよ!

 いつまでもくよくよされていられたんじゃ、足手纏いにしかならんからな!

 先立ったダチの事を考えてないで、その娘と友達になって忘れちまえ!」


 怒鳴る空悟に、八弥はあかんべぇで応える。


「莫迦たれめ」


 吐き捨てる様に言う空悟は踵を返し、病室を出て行った。


「凄いお兄ちゃんね」


 晶は驚き半分、八弥に苦笑いしてみせる。

 ゆっくりと暖かみを増したその笑顔は、空悟に悪い印象を抱いていない証拠であった。


「……不思議な男だな」


 丈が初対面の男を気にするのが珍しいらしく、晶は、幼さが故の大きく丸い目を一層大きく見開いた。


「あいつは存在そのものが不思議なんですよ」


 丈の呟きは八弥にも聞こえていた。


「乱暴者で口は悪いわ、性格は救いがたいくらいひねくれているわ。

 それでいて、他人が苦しめられていると、危険を顧みず渦中に飛び込んで行く。莫迦なんですよ、あいつは」


 そう莫迦にしている割には、八弥の顔は晴れやかで、何処か嬉しそうであった。

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