第5話

 空悟は今までの人生の中で、今夜ほど頭痛の酷い日は無いと思った。

 但しその理由は、己の煩悩の所為で食らった、八弥の『地聖環』の一撃で額を割った為だけではなかった。


 八弥共々連れて来られた、銀座の数寄屋橋にある帝立中央病院の救急医療室で、ストゥールに腰掛け、ウエーブの掛かった栗色の綺麗な髪を冠した美人の女医に向かい合って傷の治療をしてもらって上機嫌であった。


「先生、美人だねぇ♪彼氏いる?今度の日曜、お暇?デートしない♪」


 納豆にネギ入れるタイプ?だの、ピーマン食える?などと嗜好の事までしつこく訊く空悟に、女医は呆れ半分笑ってあしらっていた。

 治療してくれている女医をナンパしようとデレデレする空悟の背後では、付き添っていた本郷が呆れて頭を抱えていた。

 空悟の親友である本郷でも、どうもこの辺りの軽さはついていけない様である。

 そんな時、腰まである長い黒髪を全て三つ編みに束ねた制服姿の一人の美少女が、これ以上は無いくらい物凄い不機嫌な顔を下げて緊急治療室に入室して来た。


「……斉賀空悟。よくもまぁ、呑気に治療なんか受けていられるわね?」


 リムレスのロイド眼鏡の下にある、聡明そうな美貌の左右を飾る、凛とした瞳が涼しげに揺れる。

 まるで、絶対服従する事が当然と思っている下僕を前にした様な、そんな高圧な口調で空悟に詰問した。


 従順かどうかは別として、困惑気味の顔で窺い見る空悟にとって、彼女は最も苦手とする人物であるのは間違いない。


 彼女こそ、日本学生機構総裁補佐、天童観月(てんどうみづき)であった。


「斉賀空悟、命令をまた無視したわね」

「……『日死』の女を殺した事か?」

「総裁補佐、その件に尽きましては――」


 空悟を庇おうと、本郷が割って入ったが、観月は無視して尋問を続けた。


「あたしは、侵入者を絶対捕らえなさいと言ったハズ。なのに、どうして殺したの?」

「どんなに犠牲を払っても、か?」

「それは皆、覚悟の上!」


 忌々しそうに言い返す空悟に、観月は、きっ、と睨み付けた。


「それなのに、あんたはその犠牲を無駄にしてしまった。――斉賀空悟、この責任はどう取るつもりかしら?」


 観月の不快と侮蔑がハーモニーした視線が、憮然とする空悟の顔をなめた。

 空悟は暫く沈黙を守る。

 観月の血色が怒りに朱を帯び始めたのと同時に、空悟は腰を上げた。


「……気に入らんのなら、俺をあの地下懲罰牢に戻せば良いだけじゃねぇか」


 空悟はそう言って睨み返す。

 しかし観月は怯まず、空悟の鼻先を指し、


「あら、あんなジメジメして光も音も聞こえない、常人なら一時間も居たら発狂し兼ねない忌わしい地下牢が、そんなに気に入って?」


 挙げ句観月は、おーほっほっほっ、と侮蔑たっぷりに嘲笑する。

 露骨に笑われる空悟であったが、自分が観月から徹底的に嫌われている事を充分承知していた。

 怒りを露にしても、観月の思う壷である。空悟は人差し指で耳の栓をして、


「少なくとも、煩ぇ小娘の小言を聞かなくて済む」

「!――」


 見る見る内に血色を変える観月。

 そんな彼女を見て、空悟はほくそ笑む。

 だが次の瞬間、空悟の左頬に、右手を上げた観月が薄桃色の残像を閃かせる。妙に小気味良い音が室内に響きわたった。


「無礼者。――本来なら、今の上司侮辱罪も含めて、査問委員会で厳重に審問の上、上級処分にするところ」


 観月は空悟をきっ、と見据えたまま、まだ衝撃を覚えている右掌をゆっくり引き戻す。


「……しかし現状が現状だけに、今回はこの平手打ち一つで許します。

 何より、本郷剣龍隊隊長の報告でも、あの八弥が苦戦する程に、『日死』の魔女の実力は相当なものだったとか。

 八弥を術から解き、被害を最小限に食い止めた分を差し引いても、今回の処分は寛大なものと思いなさい」


 空悟は打たれた左頬を擦り擦り、観月の沙汰を反論もせず無言で聞いていた。


「言いたいコトは以上よ。治療が済んだら、とっとと家に戻りなさい」


 一方的に言うだけ言って、観月は緊急医療室からさっさと出て行った。

 暫し、緊急治療室に気拙い空気が鎮座する。

 ひと先我に戻った女医は、机の脇にある水が張った洗面器に入れてあった濡れタオルを取り上げて絞り、熱くなっている空悟の頬にそれをそっと当てた。


「大変なお姫様ね」

「あの女にゃ、たった一人を除いて、誰も勝てないぜ」


 空悟は苦々しく言ってみせた。


「たった一人、って?」

「あいつの兄貴、天童陽祇郎さ」

「へぇ、じゃあ彼女、ブラコン――」


 あっ、と女医は自分の過言に途中で気付き、慌てて自分の口を両手でふさいだ。


「構ぃやしないさ」


 空悟は、にいっ、と笑い、


「聞こえやしない、って。俺なんか観月の目の前で毎日の様に言ってるぜ。

 ブラコン娘、真性ブラコン、東洋一のブラコン、ってな!かっかっかっ!」


 空悟は、豪快に笑いながら飛ばす飛ばす。正に怖いもの知らずである。

 溜らず、おいおい、と本郷は冷や汗をかきながら空悟を止めようとするが、その時、本郷の背後の扉が、突然勢いよく明け放たれた。


「……誰がブラザー・コンプレックスだって?」


 開かれた扉から突き出たのは、満面の笑顔を作る観月であった。

 可憐な笑顔に見えるのに、それは、どうしても笑っているとは思えない、違和感に溢れる不自然過ぎた『笑顔』だった。

 その笑顔を見た三人は、何故か背筋に冷たいものを覚えた。


「……斉賀空悟。貴方、い~い度胸しているわね」


 『笑顔』の観月は、実に優雅な足取りで、一直線に空悟の傍へ歩み寄る。女医と本郷はそろそろと脇に退けていた。


(こ、この地獄耳娘ぇ――――っ!)


 空悟は逃げ出さなかった。覚悟を決めたわけではなく、恐怖と緊張の余り、金縛りにあってしまったようである。真っ先に退いた二人を、空悟は心の中で罵った。

 やがて空悟は、間近で見た観月の『笑顔』が、実は可笑しくて笑っているのではなく、引き攣ってそう見えていた事に漸く気付いた。


 草木も眠る丑三刻。

 帝立総合病院に入院していた患者全員を――ほんの数秒前、波乱の生涯の末に、家族に見取られて永眠の腕に抱かれたばかりの加瀬大左ヱ門(九十七歳)さえも勢いよく死の縁から叩き起こした、獣の叫び声の様な怪鳥音が、一階の緊急治療室から発せられた、一人の少女を嘲った少年の報いがもたらしたものである事とは、入院患者全員、知る由も無かった。


 結局、空悟はその晩、この病院から出る事は叶わなかった。


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