第2話

 数時間前まで、背後の窓ガラスから注がれていた淡い日差しが、朱色から瞬く間に闇色に変わっても、音無(おとなし)えみりは、その席から立とうとはしなかった。

 JR品川駅西口出口から道路を挟んで向い側、ファッションビル『WIND高輪』二階道路側にある、レストラン『ハンナ・ミラーズ』店内。テーブルの上に竹トンボを置いた、道路に面した窓側の席に、ほぼ一日中、腰を下ろしている、黒いケープを着た妖艶な美貌を持った若い占い師が、都内の学生達の間で良く当たると評判になったのは、つい最近の事である。

 ここ一、二か月、中高生の自殺の件数が異様に多くなっている所為もあるのか、連日、学校生活に於ける不安感が拭い切れない学生達が、えみりの許に訪れていた。えみりがタロットカードで占った結果と、聴き惚れてしまう程の美声が組み合わさって生まれた助言に心酔した学生達は、皆、紅潮した貌でハンナ・ミラーズから出て行っていた。

 しかし今日だけは例外だった。一人も相談客が訪れていなかったのだ。

 昨日は二十人も訪れていたにも拘らず。一昨日も三十人近く、統計をとっても一日平均二十四、五人はいただろう。

 何より、今日の店内は客が疎らであった。日が落ちた後などは、全く客が来ていない。今、店内に居る客はえみりだけである。


(……今日はもう店仕舞いかな)


 えみりがそう思った時、テーブルの上に置かれている、空となったコップに冷水が注がれた。


「――貴女、新顔ね?」


 えみりは、冷水を注ぎに来たウエイトレスの顔を伺い訊いた。


「はい。今日からバイトで入りました」


 新米のウエイトレスは、腰まである長い栗毛をポニーテールで纏め、濃くて太いが、しかし笹の葉の様にすうっと引かれた眉の下に、くるっとした澄んだ瞳を持つ美少女であった。

 ショッキング・ピンクのサスペンダー・スカートと、胸部を必要以上に強調した、独特のハンナ・ミラーズの制服がとても良く似合う。明日から、彼女の噂を聞き付けた近辺の男子学生が、この店に大勢押し掛ける事だろう。

 彼女の名前は葉月八弥(はずき・やみ)。サスペンダーの胸の所へ安全ピンで止めている名札に、そう書かれていた。


「どうかなさいました?」


 えみりはいつの間にか、じっと八弥の顔を見ていたらしく、八弥に伺い訊かれて、思わず、はっとした。


「――あ?ご、御免なさい。ちょっと考え言をしていたの」

「そうですか」


 八弥はにっこり笑って頷いた。余り客商売に慣れていないのか、その笑顔は少しぎこちなかった。


「あと、これは店長から。いつもいらっしゃっていただいてるので、サービスです」


 八弥がテーブルの上に残して行った、ストロベリーショートケーキとホットコーヒーの甘美な香りに負け、えみりはもう暫く店で寛ぐ事に決めた。

 最後まで楽しみに残したショートケーキの苺を頬張った時、一人の学生の客がハンナ・ミラーズの自動ドアを潜って来た。

 紺の詰め襟を、襟の止め金も全て止め、牛乳瓶の底の様な厚いレンズの眼鏡を掛けた男子学生である。

 何となく、小猿を連想させる風貌で、玉の様な大きいもみあげと、少し周囲を気にして猫背でおどおどしているのは少し気に触るが、これはこれでなかなかの二枚目である。

 えみりは、彼は今まで勉強一筋でいる学生だろうという、結構アナクロな印象を抱いた。

 その一方で、えみりは、この男子学生をどこかで見た様な覚えがあったのだが、どうしてもそれがはっきり思い出せず、小首を傾げた。

 彼は、えみりの今日の最初の客となった。


「……音無…えみり…さん…ですか?」

「ええ。どうぞ、前にお座りになって」


 えみりに促され、男子学生は向かいの椅子に腰を下ろす。

 間近で見た彼は意外と肩幅が広く、がっちりとした体格の持ち主であった。


「お名前は?」

「斉賀(さいが)と……言います」

「斉賀……何処かで聞いた様な……?」


 果たして、えみりは思い出せず、


「まぁ、いいわ。――さて。貴方は何を占ってほしいのですか?」

「……はい。実は…………………」


 そこまで言って、斉賀は何故か俯いて黙り込んでしまった。


「どうしたの?あたしは男女の区別なく占っているから、恥ずかしがらなくて良いのよ」


 斉賀は覚悟を決めたかの様に、面を上げた。


「実は僕……あれが細くて短いンです」

「は?」


 えみりは、傍らのハンドバックから取り出したタロットカードを持つ手を止めて、唖然とした。


「………あの。そう言う相談は、あたしみたいな占い師では無く、お医者様の方が宜しいのでは……?」

「はあ、やはり」


 呆れ顔で答えるえみりに、斉賀はがっくり項垂れてしまった。

 えみりは、はあ、と溜め息を漏らして、タロットカードを仕舞おうとすると、


「――あ!すいません、まだ、他にも占ってほしい事があるんです!」

「……何でしょうか?」


 少し苛立ちを露にし、カードを仕舞う手を止めて、再び斉賀の顔を見たえみりは、そこに意外なものを見た。

 知らぬ間に、同じ顔の別人が座ったのか。

 斉賀は、先程までのおどおどした態度からは予想出来なかった、不敵な笑みを浮かべてえみりを見詰めていたのだ。


「……ここ最近多発している、学生の自殺の事で。――占ってほしいンですよ、その理由を」


 牛乳瓶の底の様な厚いレンズをも突き抜ける斉賀の鋭い眼光に、えみりは思わず目を逸らしそうになった。

 辛うじて堪えると、えみりは仕舞い掛けたタロットカードの束を胸元に寄せ、シャッフルを始めた。

 数回シャッフルした後、その束の上から二枚を取ると、斉賀に食器を隣のテーブルへ除けさせ、自分のテーブルの中央へ裏返しのまま、十字に重ね置いた。


「――良いでしょう。では」


 えみりは、優雅な動きで更に束の上から裏返しのまま一枚づつ取り、その束を中心に時計回りに四方に置き、続く四枚をその右側に縦に並べた。


「貴方から見て、縦に並べた左側手前のカードが、占い結果を暗示するカードよ。どうかしら」


 えみりはそのカードを捲り、斉賀に見せた。

 ナンバー13。『死神』のカード。破滅を意味する。

 何故かえみりの口元に、笑みが浮かんだ。

 妖艶な美貌がするに相応しい、実に冷酷な笑みである。


「最悪ね」

「ああ」


 頷く斉賀は、まだ不敵そうに微笑んでいた。


「どうやらこのままじゃあ、学生達は皆んな居なくなっちまいそうだ」


 そう言って、斉賀は眼鏡を外した。その下にあった野生的な風貌は、まるで変身したかの様であった。口調も高圧的なものに変わっている。

 だが、えみりは、斉賀の正体を知っていたかの様に、まるで動じなかった。


「……で。そいつの狙いって、判るかい?」

「さあ?」

「そうかい」


 口元に不敵さを湛える斉賀は、えみりの手から『死神』のカードをひょいと摘み取り、


「でも、大体見当は着くぜ。この国じゃ、大人よりも学生の方が権力を持っているからな。駒は少ない方に越した事は無い」

「……『日本学生機構』って、意外と回りくどい事するのね?」

「同感だ。時間稼ぎさせてもらった」


 斉賀が浮かべている冷笑の中に僅かだが、はにかみが伺えた。


「……六十年代、欧州千年安保闘争に端を発する、旧日本国政府軍と激戦の末に勝利した学生達の手に依って築かれた、現日本政府最大の行政機関『日本学生機構』は名ばかりではなかったようね。――良く、気付いたわね?」


 くくく、と笑いだしたえみりに、斉賀はすっくと席を立ち、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。


「あンたにゃ、もう逃げ場は無い」

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