八卦霊皇士

arm1475

第1話

 胸に大きな黄橙色のリボンを水晶石のピンで留めた、ブレザーの学生服姿の少女が、腰まである長い栗毛のポニーテールの毛先を駆け抜ける勢いに舞い上がったまま、薄暗い階段を息急き駆け上がって行く。

 間もなく、踊り場に辿り着いた少女の、美しくしかし不安そうな面が、向かい斜め上より降る朱色に塗り替えられた。

 朱い、血を思わせるくらいに朱い夕陽が、少女が上り詰める階段の先に穿つ黄昏色の長方形の中で、沈み行こうとしていた。


(夕陽、か。――いつ見ても、嫌な色。陽の沈む地の果ては、冥府に繋がっている、って話、ホラにしては説得力があるわね)


 そう心で呟いた少女は、眩しい朱色の中に懐かしい笑顔を幻視した。


「………由香!」


 息を付く様に呟いた少女は、屋上までの残りの階段を、一気に駆け上がった。少女を取り巻く昏い世界が、一気に黄昏色に変化する。

 紅みを帯びた黄昏色が包み込む屋上では、やや生暖かい潮混じりの風が、南の東京湾の方から流れていた。

 少女は、切らした息を整えつつ、屋上をきょろきょろ見回した。

 屋上の入り口より左斜め向こう。屋上の端を全て覆う二メートル半の高さを持つ金網柵の、唯一外へ出る為の整備用の鉄パイプ製の扉が開け放たれ、その先に人影が一つ在った。


「――おい!」


 ポニーテールの少女が叫んで呼ぶその人影は、少女と同じデザインのブレザー服を着ていた。

 屋上の端に佇む女学生の足下、と言うより、彼女達がいる校舎屋上の下の校庭では、放課後のクラブ活動をしていた大勢の学生が、屋上にいる同窓の自殺志願者の様子を不安そうに見上げていた。

 三つ編みを冠し、丸顔でぽっちゃりした少しそばかすのある自殺志願者の女学生は、じっと下の方を見つめていた。

 そこはかとなく虚ろ気に。さながら、夢遊病者の様に。


「おい!――こらぁ!」


 何度かポニーテールの少女は、自殺志願者の女学生に声を掛けるが、果たして彼女は、何ら反応も示さなかった。


「おい、由――いや、」


 勢い余って呼び間違え、ポニーテールの少女は慌てて頭を嫌々振り、


「――莫迦な真似は止めなさい!」


 全く改善を見ない現状に、まるで綱渡りでもしている様な気分に見舞われ、一人困惑するポニーテールの少女は、自殺志願者の女学生の傍へ駆け寄ろうかどうか迷った。迂闊に近付き、最悪な事態を招いてはならない。

 苛立つポニーテールの少女の脳裏には、半月前の記憶が甦っていた。

 ――あの日と、ほとんど同じ状況であった。違う点は、自殺志願者の少女が、一つ下の学年を示す、胸の桃色の襟のラインとリボンを付けた一年生の後輩ではなく、同じクラスの親友であった。

 過去と現在のシチュエーションが、ポニーテールの少女の脳裏で重なり合い、逝った友の後ろ姿が鮮やかに甦った。

 お下げの似合う、活発な娘だった。

 浅草の蕎麦屋の娘で、生粋の江戸っ子でもあった所為か、余り細かい事に拘らない、竹を割ったような性格の持ち主であった。

 だから三か月前に『仕事』の都合で、この帝立帝央高校に転校してきた時、前の学校での評判の所為で、クラスメートのほとんどが声を掛けられずじまいだった中、隣の席に居た由香だけが声を掛けられたのか。

 その第一声が、屈託の無い笑顔で、


「一緒に早弁しない?」


 と、大物というか、只の間抜けというか、訳の判らない誘いだったのには、ポニーテールの少女は授業中であったにも拘わらず、大笑いしてしまった事を、今も忘れていない。


「………由香!」


 ポニーテールの少女は、錯覚の余り友の名を呼ぶが、無論、後輩の少女が応えるハズが無かった。

 後輩の少女は、足を一歩前に踏み出した。


「駄目っ!」


 ポニーテールの少女は思わず駆け出す。こうなっては、躊躇う暇は無い。ポニーテールの少女の足は、恐ろしく早かった。

 まるで、その足にF1のエンジンを登載しているかの如く。

 ――否、少女の足許の床が猛スピードで動く自動歩道と化し、その上を更に駆け抜けたと言った方が良いだろう。

 少女は僅かな歩数で、飛び行く様に駆け抜け、屋上の入り口から、後輩の居る屋上の端まで約二十五メートル、二秒と掛かっていない。

 それでも、間に合わなかった。血色の空は、宙を飛ぶ若い命の鮮やかな死相を求めていたらしい。

 飛び降りた後輩の少女は、自殺志願者にしては珍しく、背中を地表に向け、頭から下へ仰向けに墜ちて行った。


「駄目ぇぇぇぇぇぇっ!」


 端に辿り着いたポニーテールの少女は、後輩の少女が数秒前まで立って居た端に入れ替わる様にがっくりと跪いた。

 後輩を捕らえようと差し出したポニーテールの少女の右手は、黄昏色の虚空をしっかり掴んでいた。

 激しく動揺するポニーテールの少女の瞳は、校庭へ真っ逆さまに墜ちて行く後輩の姿を、スローモーションでゆっくり捉えていた。

 あの日、ポニーテールの少女の目の前で飛び降りた由香は、屋上の端から両足を離した刹那、愕然とする親友の方へ漸く面を向けていた。

 何かを訴えている様な眼差しであった。自分でもどうにもならない様な、苦しげな貌であった。

 あの時、明らかに、由香は助けを求めていた。

 なのに、自分は由香の悩みを知らないでいた。親友にも語れない悩みを持っていた事すら、気付かないでいた。


「ゆ……由香ぁ!」


 記憶と現実の狭間を行き交う悔恨の螺旋が、やがてかつて見た紅い結末に再び向かおうとしていた。

 まさかその結末が、突如校庭から吹き上がった奇怪な上昇気流によって、墜落する少女の落下速度を減少させ、果ては地上数メートルの位置で宙に停止するに至り――少女は逞しい不可視の腕(かいな)に優しく抱かれたまま、全く無傷で地上に降ろされた。


「……俺の目の前で飛び降り自殺なぞ、やらせん」


 校庭を瞠ったまま見下ろすポニーテールの少女の背後から、その疎ましげな声は聞こえた。

 彼女の背後にはいつの間にか、似てはいないのだが、しかし何となく小猿を思わせる、野生的な風貌を持つ一人の男子学生が立っていた。


「……裏は取れた。あとは俺達の出番だ」


 ポニーテールの少女は振り返らず、ため息にも似た安堵の息を付き、その美貌を凛とさせ、無言で頷いた。

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