エピローグ 私の――




 その後、あの男がどうなったのかを私は知らない。

 気がついた時には職を追われ、地位を奪われ、金をはぎ取られ、唯一の拠り所である一族からも追放されたらしい。


 どうしてそうなったのかは分からない。

 でもある日、お父さんは「あの人が意外とすごくなくて、僕が意外とすごかっただけー」と一言漏らした。

 大人の世界は奇怪で恐ろしい。


 ああ、もう。あんな男の話はたくさん。

 ここからは私と家族の話をしよう。



 事件後、私たち三人の共同生活は一年ほど続いた。

 季節行事や誰かの誕生日には、必ず手作りの料理とケーキがテーブルを飾る。もちろん、プレゼントももらえた。

 お母さんは仕事を続けられたし、お父さんもお母さんにいっぱい協力してくれた。

 私は、身の丈に合う学校に転校して、始めてテストで一番を取った。本当は喜んじゃいけないけれど、嬉しくて飛び跳ねていた。一番を取ったお祝いは、果物をたくさん使ったタルトケーキだった。


 今までの暮らしは一体何だったんだろう。とびっくりしてしまうくらい、幸せで幸せで幸せな毎日。愛に溢れて溺れてしまいそうな満ち足りた日々が過ぎる。

 幸福は終わらずに、更に一年後。

 お父さんは本物のお父さんになった。

 広い家に引っ越して、私たち一家は改めて家族として生活を始める。


 それからまた一年とちょっと。

 私たちは、五人家族になった。



 *****



「お姉ちゃん、んーってして」


 結婚式当日の朝。

 日の出よりも先に二人の妹は行動を開始した。

 まずは自分たちの身だしなみを整え、ドレスを纏う。その後、花嫁である私のヘアメイクのために移動。旦那さんと暮らしているアパートに駆け付け、すぐさま辣腕が振るわれた。

 ヘアセットを済ませ、お化粧も最終段階に入った。

 お化粧を担当するのがメルで、ヘアセットを担当するのがロゼだ。


 一卵性双生児の妹たちは、一瞬見分けがつかないくらいそっくりの容姿をしている。しかも、赤茶の髪色も、ロングヘアの髪型も、体型までもがほぼ一緒。今日だって、花嫁の付添人として同じデザインのドレスを着ている。現在医学生の二人は双子ライフを満喫中だ。


「いいねーいいねー、我ながらカンペキ! いやー、お姉ちゃんお化粧映えるから羨ましいよー。ねぇー、ロゼ?」

「わかるぅ! 美人だしさ、瞳の色はすっごぉーく透き通ったすみれ色だしさ、目の形もぱっちりしててさ! おまけに鼻も高いし唇ぷにぷにだし!」

「お母さんの良いところ全部引き継いでるんだよねぇー。私たちなんか、目の色も形もお父さんだからさぁー。眠くなくても、眠いの? って聞かれるんだよ! ひっどい話だよねぇー!」

「お蔭さまで、お化粧覚えるのは早かったけど!」


 唇まわりに化粧筆を当てられていて喋れない私を置いて、二人はくるくると笑う。


「メル、ちょっと髪いじっても大丈夫? 直したいところがあるんだけど」

「んー? 今なら平気だよー」


 指先と筆が離れる感覚がして、やっと喋る権利を得た。が、今度は髪を引っ張られて頭がぐらつく。


「うぅー、抜かないでね」

「まっかせなさい!」


 自信満々の答えが返ってきた。

 ドレッサーの鏡には、髪を整えるロゼの真剣な顔が映っている。


「ねぇメル。これって泣いたら取れちゃったりしない?」


 私の顔を真剣に見つめるメルに尋ねた。

 泣いたせいで下まぶたが真っ黒、なんていう失態は侵したくない。


「だいじょーぶだいじょーぶ! そうなると思ってアイメイクは全部落ちないのにしてあるからー!」

「本当に?」

「本当にだよー。泳いでも平気なの選んだからー!」

「でもさぁ」

「ハイハイもぉー。お姉ちゃんは心配性だなぁ。それよりかしっかりお父さん泣かせてよー? 写真撮って強請ゆするんだからー!」


 メルはにこっと笑ったが、言葉が物騒だった。


「ゆ、強請るって、何を?」

「もちろんケーキですよー! お父さんにいぃーっぱいケーキ作ってもらうのさー!」


 腰に両手を当て、背を反らす。

 その仕草がおかしくて、私も笑ってしまった。


「もー、自分で作りなよ。ケーキも料理も作れるでしょう? あんなに教えてもらったんだから」

「やだぁー。だってお父さんの方が上手いんだもんー。娘の特権ってことで!」

「それ乱用!」


 突っ込みに、メルはくるくると笑う。


「よぉーし手直し終わり! メル、続きやっちゃって!」

「ほいきたぁー」


 選手交代。再びメルはお化粧に専念する。

 パフが頬に触れて、くすぐったい。


 普段は日焼け止め程度しか塗らない私にとって、二人の技術は無くてはならないものだ。髪型も、自分一人では凝ったアレンジはできない。

 路頭に迷うなか、あちらから役に名乗り出てくれたのは本当に有難かった。同時に少し情けなくもあったけれど。


「そう言えばさ。パーティーの料理とかお菓子とかはどこに頼んだの?」


 今度はロゼから質問が飛ぶ。


「え? あー、食べ物関係は旦那さんにお任せ。私より詳しいから」

「うそぉ、よそに頼んじゃったの? お父さん、ケーキぐらいなら作ってくれたんじゃない?」

「お父さんは今日はお客さんだもん。ゆっくりして欲しいの」

「お姉ちゃんのためなら喜んで作ると思うよー、あの人」


 メルが「そーそー。誰かのためにお菓子をこしらえるのが生き甲斐、みたいな人だからねー」と相槌を打った。


「何を隠そう、ごはんとお菓子で美人のお嫁さんと可愛い娘を捕まえたおっさん、だからさ」

「またぁー」


 私が口を尖らせると、ロゼは鏡越しにニヤリと口角を上げる。


「でも、事実でしょ?」

「う、うーん、まぁそうだけど……。でも、それ以外にも格好良かったり素敵だったりしたんだから」

「ゴメン、想像できない」


 確かに、お父さんはいつもふにゃふにゃ笑っている人だ。双子にもとても優しく接していたし、誰も怒鳴られた経験はない。叱られたことはあるけれど、まったく怖くなかった。とにかくふかふかしている人だから、あの事件を知らない二人には想像すら難しいらしい。


「あ! でも、五十歳過ぎてもバク宙してたのは凄いと思う。あれは学校で自慢しまくったね」

「昔鍛えてたらしいよ」


 ロゼの首が、にょきりと伸びる。


「じゃあ若い頃はケンカも強かったのかな」

「えぇー、あのお父さんがケンカ強いとか嫌だぁ」


 私を巻き込んでまた、妹たちはくるくると笑った。


「さぁて、お姫様。唇仕上げるからちょーっと口を噤んでいて下さいよー」

「はーい」


 メルの親指が口元に触れ、私はお喋りをやめて目を閉じる。

 つう、と、細い筆が滑る感触が気持ちいい。筆が繰り返し行き来すると、今度はグロスのチップが乗せられた。

 もうすぐこの唇は、あの人に奪われるのだ。大勢の人に見守られて、あの人と口づけを交わすのだ。


「よぉーし、お姉ちゃんおめめ開けてー。完成だよぉー!」


 肩を優しく叩かれてまぶたを開ける。

 鏡に映った私の唇は、赤く潤っていた。

 もぎたてのリンゴのように艶やかな色だ。でも、決していやらしくない赤色。まるで童話の中のお姫様のような色味に、自然と顔がほころぶ。

 肌は絹のようになめらかで、頬は薄桃色に染まり、すみれ色はより深くまたたいている。

 今日のために伸ばしたストロベリーブロンドも、編み込みと花飾りで纏められている。

 やっぱり、二人に頼んで正解だった。


「ありがと」


 ドレッサーの両側に移動した妹たちも、満面の笑みで「きれいだよ」と褒めてくれた。


「すっごくきれい。ねぇ、メル」

「うんうん。旦那さんもびっくりだよー」

「そう、かな」


 髪飾りを触ってはにかむと、大きな頷きが返される。


「そうだよー! ま、お姉ちゃんはすっぴんでも充分きれいだけどねぇー」

「ほんっとにそう! 自信持って!」


 緩やかな速度で二人は膝を折り、私を見上げた。

 全く同じ具合に目を細め、二つの腕が頬へ伸びる。とろんとしている目と、小さくて柔らかい手のひらが心地良い。


「でも、これはすぐに解けちゃう魔法だから。明日からは、お姉ちゃんが自分自身に魔法をかけていかなきゃダメなんだよ」


 先に口を開いたのはロゼだった。


「うん。そうだね」


 添えられた手のひらに、私の両手を重ねる。

 きっと、私より彼女たちの方がずっとずっと大人なのだ。私よりずっと物を知っていて、世界を俯瞰していて、心眼を養っている。

 私は医師になる頭を持っていなかった。でも、二人はしっかりと前を見て医学の道を志した。

 お父さんやお母さんみたいなお医者さんになりたい。小学校に上がる前から何度も語られていた夢は、もう実現間近だ。間違いなく試験にも合格して立派な先生になるだろう。

 いつかの誰かさんみたいに、抗う力のない女の子を救えるような。泣きわめく子供を、優しく穏やかに抱き締められるような。そんな先生に。


「じゃあ、私たちから最後のお化粧! お姉ちゃん、目、瞑って」

「え?」

「ほらぁ、早くー!」

「う、うん」


 言われるがまま、私は目を閉じた。

 するとぼんやりと、あの人の顔が浮かぶ。

 いつも優しくて、落ちこぼれの私にも分け隔てなく手を差し伸べてくれた、愛する人の顔だ。才能も技術もない、ありふれた女を恋人に選んでくれた人の顔。お父さんとはちっとも似ていないのに、どことなく雰囲気が近くて安心してしまう。すごく男前で、才能に溢れた人だから、私なんて不釣り合いだと思った時もあった。

 だけど、あの人は私を手放しはしなかった。だから、その想いに報いなければならない。せめて、あの人に相応しい心を持った女でなければならないのだ。

 だから自分を卑下するのはもう、おしまい。


 私はあの人に、旦那さんに選ばれたたったひとりの女性だから。だから、胸を張って生きていく。結婚を申し込まれた時に、そう決めたのだ。


「ふふっ、くすぐったい」


 手のひらが両頬から離れて、代わりに二つ分の口づけが降り注いだ。

 目を開けると、すぐそこに二人の顔がある。

 お父さんの面影を持ち、満足そうに笑う顔が。


「お姉ちゃんはさ、私やメルみたいにヘラヘラ適当に生きてきたわけじゃないんだからさ。幸せにならなきゃいけないんだよ?」

「そーそー。苦労したんだから、目一杯幸せにならなきゃ私もロゼも許さないよぉー!」



 幸せになってね。

 私たちの幸せはね、お姉ちゃんが幸せでいてくれなきゃ成り立たないの!



 二人分の祝福に包まれて、私は教会へと向かった。



 *****



 両開きのドアが開く。

 オルガンの音色の中、ずっと黙っていたメルとロゼ、旦那さん側の付添人が先に入場をはじめる。

 付添人の入場が終わると、私とお父さんはウェディングアイルを歩き始めた。


 アイルの両側では、大好きな人たちが笑顔で祝福してくれている。

 学生時代の友人。血の繋がらない私をこころよく迎えてくれた父方の親族。随分心配させてしまった母方の祖父母。社会に出てからお世話になった親しい人々。

 私を蔑まず、励ましてくれた大切な人たちだ。


「ねぇ、シェリーさん」


 まっすぐ前を見据えて、妹たちと目が合ったその時。お父さんが小声で話しかけてきた。


「なぁに」

「幸せになってね」

「うん」

「……彼は心根の優しい人だから心配ない、かな」

「そうだね」

「でも、もし、嫌なことがあったらいつでも帰ってきていいよ」

「うん」

「あ、嫌なことがなくても時々は顔を見せてくれると嬉しいなぁ」

「うん」


 何だか弱気でお父さんらしくない。

 いつもみたいなふにゃふにゃ感が薄い口調に、自然と笑ってしまった。


「僕、おかしいでしょ?」

「うん。おかしい」

「あはは。だよねぇ。自分でもそう思うもん」


 だけど、変じゃないよ。

 それが優しさからくるものだって私はわかっている。

 私を愛してくれているからこその言葉だって、知っているから。


 一歩、また一歩と歩みを進めるたび目の奥が熱くなっていく。

 お化粧が落ちなければいいなぁ、とゆっくりまばたきをした。


「シェリーさん、頑張り過ぎちゃダメだよ」

「うん」

「肩の力を抜いて生きてね。誰かを頼っても、それは悪じゃないんだから」

「うん。お父さんもね」


 自分だって人を頼ったり弱い部分を曝け出したりするのが苦手なくせに。

 いつも笑顔の鎧を纏っている、とても臆病な人のくせに。

 泣きたくても泣けない、弱虫のくせに。


「……そう、だね。あはは、言われちゃったなぁ」


 声が震えていた。たぶんもう泣いているのだろう。それっきり黙り込んでしまった。

 慰めの言葉を考えていると、旦那さんと目が合う。

 微笑んだ彼のタキシード姿にうっとりしながら、私も笑い返した。


「お父さん、大丈夫?」

「だいじょう、ぶ、じゃな、いぃ……」


 やっぱり堪えきれなかったらしい。明らかな泣き声だった。

 それでも歩みを止めず、淡々と進んでいく。

 私が泣くのはもう少し後にしよう。今はお父さんの番だ。私が受け止めてあげなければならない。

 式が終わったら、今度は私の順番が来るのだから。




「シェリーさん」


 最後の一歩を踏み出した時、お父さんは小さく小さく、囁いた。



「ありがとう」



 掠れて消えてしまいそうなくらい、小さな感謝の言葉。

 ひどく甘くて辛くて、視界が濡れてぼやけていく。

 声を発したら泣いてしまいそうで、何も応えられなかった。

 言いたいことも、伝えたいことも、たくさんあるのに。なのに、どれが正解なのか選べなかった。全部の気持ちが嘘ではなくて、優劣つけ難い。いっそ何も伝えない方が正解なのかも、と思って口を結んだ。


 ほら、もう羽ばたいていかなければならない時間だ。

 惜しみながらも、私はお父さんの手を離した。


 ありがとう、私のお父さんヒーロー。大好きだよ。と、心の中で叫びながら。

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私のヒーロー 景崎 周 @0obkbko0

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