第4話 解放の紅色




 母娘揃って目尻を拭い、鼻をグスグス言わせながら朝ごはんを食べた。

 オムレツはふわふわとろとろの半熟で、厚切りのハムからは燻製のふくよかな香りがした。ミートボールは肉汁が溢れ出し、甘酸っぱいサラダはデザートのよう。冷製スープは、ジャガイモと玉ねぎの甘味が上品に舌の上で溶けた。


 目を真っ赤にした私たちは、いつの間にか笑顔になっていた。


 美味しいね、と何度も繰り返し、フォークとナイフを動かす。

 お父さんは静かにそれを眺めていた。


 食後、片付けを手伝おうとした私とお母さんだったが「お客さんはソファでゆっくりして下さいねぇ」と背中を押されてリビングへと追いやられる。

 およそ家事と呼ばれるものすべてから私たちは切り離され、ソファの上にちょこんと座っていた。そのうち私がテレビをつけて、教育番組の鑑賞会が始まる。

 三十分もしない間に朝日が真夏の強さを孕み始めると、レースカーテンが閉められた。同時に、お父さんは出勤の準備に追われ始める。

 矢継ぎ早に「今日は部屋でゆっくりしていて下さいねぇ。外に行っちゃあダメですよぉ?」とか「カティさん、お昼ごはんの場所教えておくので、じゃんじゃん食べちゃってくださぁーい」とか「あ、レモンケーキとギモーヴもあるのでおやつにどうぞー」とか「食材買って出来るだけ早く帰るので、それまで待っててくださいねぇ」とか色々言った後に「お客さんがいるのに、家を空けてごめんなさいー」とカバンを持った。

 当然、私もお母さんも一ミリも怒ってはいない。仕事を優先してもらって構わない。


 玄関でお父さんを見送って、私たちは二人きりの時を過ごした。

 ごろごろして、ごろごろして、ごろごろするだけ。

 家庭教師もいないし、塾も習い事も行かないでいい。いつも忙しそうにしているお母さんも、今日からはずっとそばにいてくれる。

 ごはんもおやつも作ってあるから、本当に何もしなくていいい。どうやら昼食後の皿洗いも食器洗い機がやってくれるらしい。

 部屋には、テレビも、ごつごつしたオーディオも、大きなディスプレイのパソコンもあった。さすがにパソコンはロックが掛かっていて触れないようになっていた。けれど、テレビも見放題、音楽も聴き放題だ。

 至れり尽くせりの、楽園。

 まさにそんな感じの室内で、私とお母さんはゆったりと夕日を見送った。


 完全に陽が沈みかけた頃。お父さんは帰宅した。

 手にはどこかのマーケットで買った食材入りの袋が握られている。

 頭を掻きながら「遅くなっちゃいましたぁ」と苦い表情で謝られた。

 今だから知っているが、医務部長という立場上、お父さんはいつも帰りが遅い。忙しいときは病院から出られずに朝を迎えるくらいだ。なのにこの日は話をつけて急いでアパートに戻った。精一杯無理をして、でもそれを隠して私たちの前では優しい人であり続ける。

 お父さんの決意は固く、揺るぎのないものだった。


 すでに仕込みが済んでいた食材と、新たに買い足した食材。二つを合わせて夕食が作られていく。驚くくらい手際の良い調理に、お母さんも舌を巻いていた。

 私は盛り付けを手伝い、お母さんは少しだけ助手を担う。あっという間に夕飯は完成し、私たちはテーブルに着いた。

 テーブルには皿がいくつも並び、デザートもちゃんと用意されている。

 まるでお姫様にでもなったような気分だ。隣に並ぶお母さんも、美味しそうに料理を頬張って微笑んでいた。

 やっぱり後片付けはさせてもらえず、シャワーを浴びてソファに寝そべる。お母さんは化粧を落としたためか、昼間より顔が痛々しい。でも、もう隠そうとはしなかった。

 そのまま夜は更け、私とお母さんは広いベッドで、お父さんはリビングのソファで就寝した。



 *****



 二泊三日の楽園生活は過ぎ去るのが早い。

 二日目も、仕事を休んだお母さんと一日を満喫した。でも、ずっと続いていくような気がしていた毎日は、すぐに三日目を知らせてくる。


 この間に、私達三人はある約束をした。

 それは、当分の間、この部屋を私とお母さんの隠れ家にする、というものだ。

 妻子に逃げられたなど、あの男にとって人生最大の汚点である。恐らく、いや、絶対に血眼になって探すに違いない。だからこのアパートを私たちのシェルターとして使わせてもらう。

 いつまでもお客さんではなく、同居人として助け合って共同生活を送る。料理などの家事は分担し、私も最大限お手伝いをする。匿ってもらう以上、その恩を仇で返すべきではない。

 そんな取り決めだ。


 いつかアパートから出て、二人で自立する。お母さんから将来の道筋を聞いた時、私はお父さんとずっと暮らしたいとダダを捏ねた。

 今の病院をやめて、どこか遠くに職を見つけ細々と暮らしていこう。あの男に職場を知られているのは危険だから、遠くに逃げよう。

 散々ごねたがお母さんの決意は変わらなかった。



 荷物もあるし、一度、病院に挨拶に行きませんかぁ?

 独りぼっちは寂しいから、シェリーちゃんも一緒に。


 三日目の朝のこと。お父さんの提案によって私たちは病院へと向かった。

 もし、あの人に見つかったら……。とお母さんは青ざめていたが、お父さんはどこ吹く風。大丈夫大丈夫、僕がいるから全然問題ないですよー。と笑っていた。ふにゃふにゃの笑顔に背中を押されアパートを出る。夏の日差しが燦々と降り注ぐ中、お父さんの車に乗り込んだのだ。


 まぁ実際のところ、大丈夫だの僕がいるから全然問題ないだの言っておいて、全く大丈夫じゃあなかった。大問題だった。

 まさか、あんな展開が待ち受けているなんて夢にも思わなかった。

 誰よりも痛かったのは、お父さんだろうに、あんな……。



「皆さんには大変ご迷惑をお掛けしました。短い間でしたが本当に何から何までお世話になり感謝しています。優しくしてくださった皆さんのことは忘れません。どうか、私をお許しください。……ありがとうございました」


 もう何度目だろう。

 お母さんは病院中、色々なところを回って、謝り続けた。

 根が真面目過ぎて、冗談すら考え込むようなひとだ。生真面目だからこそ良いところもある。でも、こういう場面ではその姿が少し痛々しい。

 いくつかの場所を回る途中、私は病棟のスタッフステーションに預けられた。看護師さんや先生が沢山いる、病棟入口に位置する場所だ。

 入るや否や、星の数ほどの「可愛い!」と「お母さんにそっくり!」を頂き、お菓子もたっぷり渡された。

 お父さんとお母さんは検査室の連なる棟に行くらしい。私は危ないから、という理由で大人しくジュースを飲む係に任命された。


 黄色い歓声に囲まれて飲むオレンジジュースの味は、ちょっとだけ酸っぱかった。

 椅子を借りて、脚をプラプラさせながら、二人の帰りを待つ。すぐに帰ってくるなんて笑っていたのに、しばらくしても足音の気配もない。不貞腐れて、二杯目はブドウのジュースにしてもらった。

 すぐ近くでは大人たちが忙しそうに出入りを繰り返す。みんな、時々私の頬をつついたり抱き着いてきたりする陽気な人々だ。


「――あら、珍しいわね。どうしたの?」


 二杯目が空になりかけた頃。看護師長さんが出た電話から、気になる言葉が漏れ聞こえる。


「あらぁ、ええ、えー、そうなの? うんうん。わっかりました! こっちも気をつけるから。はぁーいはい。もう警備員には連絡済み? あーはいはい了解。あーんー、そうかぁ。はーい」


 受話器を置いた師長さんは一度、大きくため息をついた。

 掠れながら聞こえていた内容はこうだ。

 別の階の病棟に不審な男が現れた。カティ先生はいないか、としつこく尋ねてくるのだそうだ。

 話を聞けば、男はお母さんの担当していた患者の親族だという。しかし、その患者に関する質問をすると、どうもキナ臭い返答しか返ってこない。個人情報は伝えられないからと追い払ってはいるが、くれぐれもお母さんに会わせないように。


「シェリーちゃん。お母さんたち帰ってこないわねぇ。あのへっぽこ医務部長、どーこで油売ってるのかしら」


 たくましい腕を組んでまた、ため息。恰幅のいい師長さんの仕草には、相応の威厳があった。お父さんにはない威厳が。


「へんな人がいるの?」

「え? あらやだ聞こえてたのね。シェリーちゃんは心配しないで? 変な人はもうお外にポイしてあるから」

「……うん」


 ウソであるとは見抜いていたが、それ以上詮索する意思もなかった。

 ごくり、とジュースを飲んでまたお母さんとお父さんの帰りを待つ。

 まだかな、と時々カウンターから身を乗り出しては、人の往来を確認していた。

 一度、二度、三度、四度、五度。

 そして、六度目。あのとろけるようなテノールが私の鼓膜を震わせる。


「おかあさんっ!」


 入り口前の曲がり角。首を伸ばした視線の先に、二人が見えた。朗らかに談笑しながら角を曲がると、私の声でこちらを向く。

 お母さんは私に気がつくと微笑んだまま、口を開こうとした。


 ほぼ同時に、その背後から現れたのは――


「あぶない!!」


 鈍色に輝く刃物を振り上げた、あの男の姿。


 一瞬で辺りには緊迫が立ち込める。動けない私を置いて、目にも留まらぬ速さで師長さんがステーションを飛び出した。

 刃物が振り下ろされる寸前に、お父さんはお母さんを突き飛ばす。


「物騒だなぁ……っ!」


 お父さんは急降下した刃をてのひらで強く握りしめ、寸前のところで攻撃を無効化した。

 顔からは笑顔が消え去り、憎悪の灯る鋭い眼光であの男を睨みつけている。

 呻き声一つないまま手首を伝う紅。その色に、ぞくりと心臓が跳ねた。


「あぁーあ。誰かにつけられてるなぁとは思ってたんですけど、やっぱり貴方でしたか」

「カティを攫ったのは貴様だな?」


 あの男は腕の力を緩めず、目を剥く。

 突き飛ばされて転んだお母さんは、看護師長さんに抱き起され、ステーション前へと連れてこられた。


「攫う? とんでもない。これはただの保護です」

「黙れぇ!」


 紅が散り、ナイフの拘束が解かれる。あの男はそれを滅茶苦茶に振り回した。

 しかし、お父さんは全ての攻撃を軽々とかわし、一度距離を取る。


「俺の使い古しは悦かったか? あぁ?」 

「とんでもない。子供の前でこんな言葉を使いたくないんですけどねぇ、歳を取ると色々と衰えるものなんですよ。まあ、貴方のような青二才には分からないでしょうけど」

「んだとコラァ!!」


 切っ先が首筋目掛けて突き出される。

 周囲から小さな悲鳴が上がるが、刃が首を裂くことはなかった。

 お父さんは後方に半歩身体を反らし、空振りした手首に一撃。乾いた音と共にナイフは床に落ちた。


「やれやれ。素人丸出しですねぇ」

「くっ……」


 腕が痺れるのか、あの男はナイフを落とした手首を押さえている。隙をついて、お父さんはすぐさまかかとでナイフを蹴り飛ばし、ステーション側へと滑らせた。

 血のこびり付いたナイフが、私の目の前でくるくると回って、止まる。


「……警備員は?」

「今、連絡しました」


 ステーション近くでは、師長さんと看護師さんが囁き声で連絡を取り合っている。お母さんは師長さんの腕に拘束され、私も他の看護師さんに抱き締められて身動きが取れない。


「こんな事になるなんて聞いてないわよ、あのバカ医務部長……!」

「助けに行った方が……」


 今度は若い男性医師が耳打ちする。


「やめなさい。言われてるでしょう? 私たちが行っても邪魔になるだけ。子供たちの安全を確保して、警備員を待ちましょう。あの人、絶対死なない程度の腕はあるから」


 師長さんは冷静だった。

 まるで、こうなる事をすでに知っていたかのように。


「さて、と」


 状況を確認するために、お父さんはステーションを一瞥する。


「もうやめませんか?」


 そして私に微笑んでから、再びあの男に声をかけた。


「無意味どころか、貴方の経歴に傷がつくだけですよ?」

「黙れぇ!」


 どうやら痺れは解けたらしい。だが、握られた拳は虚しく空を切る。


「あーあー。ほんっと、やめて下さいよ。もし万が一僕に当たったりしたら、貴方、何もかもを失いますからね。何もかもを」

「口を慎めクソがっ! 俺には金も権力も名声もあるんだよ! 貴様のようなみみっちいジジイなんざ捻り潰せる力を持ってんだ! 失うのはお前らだ!!」

「ジジイはひど――」


 きっとまた避けてくれる。

 誰もが予想していた結末は、目の前で残酷に裏切られる。


「ひぃっ……!」


 怒りに震える拳は狙いを外すことなく、お父さんの左頬に吸い込まれた。

 私もお母さんも、まわりの人々も、みんなが悲鳴を上げたまま動けない。

 殴られたお父さんは衝撃で床に倒れ込み、あの男は勝ち誇ったようにけたたましく嗤う。


「もう、やめて……」


 お母さんは呟いて駆け出そうとした。だが、師長さんにがっちりと抱きすくめられて行動を抑制される。


「お前一人の命なんざ簡単に金で消せる! この程度の不祥事なんざ捻り潰せば終わりなんだよ! 俺はなぁ! 貴様らとは生きている世界が違うんだ! 思い知らせてやる、思い知らせてやるぞ、クソ野郎!!」


 叫んだあの男はお父さんに馬乗りになり、次々と拳を浴びせた。

 両手足では数えきれない数の拳が顔へ。

 惨たらしい光景は終わりの兆候も見せず、延々と繰り広げられる。

 さっきまであんなに華麗に避けていたのに。なのに、お父さんは一切抵抗せず、殴られ続けた。

 鈍い打撃音が私の耳にも届く。今すぐ走り出したいのに、拘束されていて動けない。

 嫌だ。お父さんが死んでしまう!

 身体に力を込めて拘束を振り払おうとしたが、大人の力には勝てなかった。


「大丈夫。大丈夫よ。あの人はね、弱いフリをしているだけだから」


 師長さんは低い声で私たちを宥める。

 冷え切った鼓膜に、たくさんの音が反響していた。

 あの男はいつもああやってお母さんを殴っていた。

 あの男はいつもああやって、私を。


 今、同じ痛みをお父さんは受けているのだ。



「ハハハッ! どうだ! 俺に逆らうとどうなるか分かっただろぉ?」


 何十何百と拳を注いだ後、あの男は勝ち誇ったようにお父さんを見下した。


 しばしの静寂が訪れる。

 あの男は息が上がり、肩で呼吸していた。

 誰も動けない。私もお母さんも師長さんも、誰もが。



「――気は、済みましたか?」



 絶対零度の声色が、辺りを切り裂く。

 まさかまだ意識があるとは思っていなかったのだろう。あの男はぎょっとして身を反らした。

 それがいけなかった。

 お父さんの腕が伸び、瞬く間に形勢は逆転。

 まばたきをするよりも早い刹那に、あの男は床にねじ伏せられていた。 


「ぐぅ、あがっ……」


 俯せに抑え込まれた挙句、腕をねじ上げられ、憐れにもがくあの男。


「はい一丁上がりー」

「クソォ! 離しやがれ!」

「嫌ですー。このまま警備員に突き出しますからね」

「ふざけるなぁ! 俺を、誰だとぐあぁっ!!」


 暴れるあの男の腕が、変な方向に曲がった。

 金切声みたいな悲鳴に乗せて、お父さんは「ほらぁ、暴れるから肩外れちゃったじゃないですかぁ」と狡猾に笑う。唇は血で濡れ、顔も青黒く腫れていた。なのに、ちっとも痛くなさそうな振る舞いだ。


 滑稽な悲鳴が掻き消えると、曲がり角から警備員さんたちが駆けつけてきた。

 あの男は両脇を抱えられて連行され、姿を消した。



 この出来事を境に、あの男が私たちの前に現れることは二度となかった。

 私とお母さんは、解放されたのだ。

 お父さんによって、鳥かごから解き放たれたのだ。

 いつでも止まり木になってくれる人を得て。

 いつもでも帰って来られる場所を得て。

 自由に。



 *****



「もう! 貴方のことは研修医時代から知っていますけどね、今日が一番のバカですよ!?」


 怪我の手当てをされている間、お父さんは師長さんにたっぷり絞られていた。



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