第3話 逃亡の朝




 すみれ色を穢されたのが、許せなかった。


 後にお父さんはこう語る。

 あんなに美しいすみれ色はそうそうない。とても貴重で、妖艶で、みずみずしい色を、誰かに穢された。それが許せなかった。

 恋や愛より先に、怒りが沸き上がったのだそうだ。

 だからこそ、お父さんは行動を起こした。


 深夜に食べたロヒケイットはとても美味しく、二度もおかわりをしてしまった。マナーなど気にせずガツガツ食べる私に、怒号が降ることはない。

 お母さんの味とは違うけれど、くすぐったくなる懐かしい味だ。きっとお父さんも子供の頃に家族で食べたんだろう。

 冷えた身体がみるみる温まるスープ。

 季節外れだけど食べたくなって作っちゃったんだよ。なんて、向かい側に座るお父さんは笑っていた。

 三杯目を平らげ、満腹になった私はすぐに眠りについた。

 朝になったらお母さんが出勤してくる。

 たったそれだけを希望にして。



 *****



 シェリー、早く起きないと遅刻するわよ。

 淡く色づいていく意識の中で、お母さんの声が聞こえた。聞こえたようなきがした。

 今はもう夏休みで、早く起きなくても遅刻はしない。塾は午後からだし、午前中はいつも一人きりで部屋で過ごすのだ。


「おか、あ、さん?」


 寝言にしては鮮明な自分の声。その声にびっくりして私は身体を起こした。

 お母さんはいない。ここはお父さんの寝室だから。

 掃出し窓にかかる寒色のカーテンが、朝日を透過して輝いている。もう朝になっているらしい。

 お父さんはどこだろう。

 子供と大人一人ずつなら十分眠れるベッドだが、お父さんが使った形跡はなかった。


「……いいにおい」


 微かだが、匂いを感じた。ドアの先からほのかに香ってくる。

 鼻腔をくすぐるのは、昨晩のロヒケイットとはまた異なる匂い。

 ベッドから降りた私はドアに近づき、手をかけた。


 すると、ポーン、と電子音が聞こえてきた。


「はいはーい」


 遠くでお父さんの返事がし、私は、そうだ! とドアを乱暴に開ける。

 裸足のまま廊下に出ると、突き当たりの玄関には。


「おかあさん!」

「シェリー!」


 玄関口にお母さんとお父さんが立っていた。

 エプロン姿のお父さんと、更に顔を腫れ上がらせたお母さん。パンプスを履いた細い脚の背後にトランクーケースが見える。

 抑えきれない感情が身体を動かす。私はお父さんには目もくれず、喜びに任せてお母さんに飛びついていた。


「おはようっ、おかあさん!」


 痩せた身体に両腕を回し、胸に顔を埋める。


「良い子にしていたかしら?」

「うん!」

「シェリーちゃん超優等生でしたよー」


 抱き着いていても、お父さんがふにゃりと笑うのがわかる。お母さんは頭を撫でて、額にキスをしてくれた。


「お魚のスープをね、お夜食したの。すーっごく美味しかったよ!」

「あら、よかったわねぇ。先生のお料理が食べられるだなんて、お母さん羨ましいわ」

「あとね、クッキーももらったの!」

「クッキーまで?」


 声がわずかに曇る。


「先生、何から何までありがとうございます。……ご迷惑をお掛けしました」


 申し訳なさそうな声色でお母さんは謝った。


「あはは、とんでもない。楽しい夜でしたよー。ねぇ、シェリーちゃん?」

「うん!」


 振り返って頷くと、お母さんがまた頭を撫でる。


「さぁ、シェリー。もうおうちに帰りましょう?」

「……え?」


 唐突な死刑宣告に、私の身体は硬直した。

 お母さんを見上げたまま、身体が隅々まで凍りついた。


「どう、し、て?」


 氷の張った喉をようやく震わせ、問いかける。


「だって、シェリーとお母さんにはお家があるんだもの。それに、先生はお仕事で忙しいのよ? お泊りは一回だけ」


 嫌だ。帰りたくない。もう二度とあの地獄には戻りたくない。

 私はお父さんとお母さんと一緒に暮らしたい。あの男のいない世界で生きていたい。


 お母さんはどうしてそんな風に考えられないの?

 化粧で誤魔化しているけれど、左まぶたはぶくぶくに腫れているし、唇だって切れて紫だ。ほっぺも綿を詰めたみたいに膨らんで、かすり傷がびっしり。いつも薄化粧で、本格的な化粧が下手だからすぐに気がつく。ファンデーションはよれているし、チークもきつい。どれだけ塗っても隠せないのに、どうして足掻くんだろう。


 ばれないと思っているのだろうか。

 大人のくせに、お母さんはバカだ。大バカだ!

 八歳の私は怒りに震えた。


「――ないもん」

「……シェリー?」

「おうちなんかないもん!」


 ぱりん、と喉の氷を割って出てきたのは絶叫だった。真っ直ぐお母さんの目を見据えて、私は喚き散らす。


「おかあさんとわたしのおうちなんてどこにも無いの! あんなのおうちじゃないもん! あんな、あんな奴がいるところなんておうちじゃないもん! わたしも、おかあさんも、帰る場所なんてないの!! わたしはここにいたいの! おかあさんもここに泊まるの!!」

「シェリー、でもね」

「やああぁぁぁだああぁあぁぁあぁあっ!!」


 朝っぱらから近所迷惑なほど叫んだ。叫びにつられて目尻に涙がたまっていく。


「シェリー、お願い。お母さんの言うことを聞いて?」

「いぃぃいぃぃやぁあぁぁあぁあぁあぁ!!」


 二度の咆哮で自分でも感情の収拾がつかなくなってきた。お母さんは困り果てて、しょんぼり顔だ。


「はいすとっぷー。おじさんちょっと口を挟んでもいいかな?」


 するり、と穏やかにお父さんが間に入った。

 また嫌ぁ! と叫びかけてようやく我に返る。二人分の視線はすぐにお父さんに注がれた。

 こほん、と一度咳払いをしてお父さんは話し始める。


「まず、僕はシェリーちゃんとお話したり、お夜食を食べたりできて楽しかったです。ほら、僕未だに独り身だから、病院以外であんまりシェリーちゃんくらいの子と触れ合う機会もないし? そしてもう一つ。シェリーちゃんがもっとお泊りしたいって思ってくれてるのなら、僕は諸手を挙げて大歓迎なんですよねぇ。もし宿泊者がもう一人増えたとしても、ベッドが大きいので問題ないってことも付け加えておきますー。あ、もちろん僕は別の部屋で寝るのでご心配なく。それと最後に。カティさん」

「は、はい……?」


 呆気にとられながらもお母さんは返事をした。


「シェリーちゃんを迎えに来ただけなんですよね?」

「はい……そうです」

「じゃあ、どうしてそれを用意してきたんですかぁ? 僕ちょっと合点がいかないです」

「え……あ、あの」


 柔らかく微笑んだまま、お父さんはお母さんの背後に隠れたトランクケースを目で指す。革製のレトロテイストなトランクケースだ。


「そ、その……医務部長、命令だと、先生が」

「確かに言いました。必ず守って下さいとも言いました。でもすぐに帰る気なら、持ってきませんよねぇ? 僕に断わって、シェリーちゃんを連れて帰れば終わりですから」

「で、ですから私はただ」


「本当は、カティさんも帰りたくないんじゃないですか?」


 顔は笑っているのに、声だけが鋭さを増す。夜中に聞いたあの声と同じトーンだ。


「い、いえ、私は」

「僕、六時頃って時刻を伝えましたよねぇ」


 お母さんの肩が跳ねた。


「あ、あのそれは、その」


 完全に目が泳ぎ、しどろもどろになる。


「ねぇシェリーちゃん。この時計何時になっているか読めるかなぁ?」


 お父さんはズボンのポケットから懐中時計を取り出した。


「とけい?」


 小気味よい音をたてて蓋が開き、私は文字盤を見つめる。金細工の施された文字盤には当たり前だけど、数字が円状に並んでいた。時刻はずっと幼い頃に勉強して読めるようになったから問題ない。


「五時……八分?」

「せーかい。シェリーちゃんありがとねぇ」


 腰をかがめて、お父さんは私の頬を撫でた。


「十数分前に行動するのは人として基本ではあると思うですけどねぇ、一時間前はちょーっと早すぎじゃあないですかぁ?」

「あ、の、シェリー、シェリーを早く、迎えに行こうと思って……」

「日の出の時刻が早いとはいえ五時ですよぉ? 下手をしたら普通の人達はまだ寝ている時間です。一般的な勤務形態で働いている社会人は特にそうじゃないですかぁ? ほら、カティさんの旦那さん、とか」


 下唇を噛んだまま、お母さんは一言も発しない。

 私の二の腕に添えられた手が小刻みに震えている。核心を突かれたのだ。


「なぁーんちゃって。まぁた意地の悪いこと言っちゃいましたね。ごめんなさい。立ち話もなんですから取り敢えず、中にどーぞー」


 いつの間にか、涙は引っ込んでいた。泣いている暇はないと心が判断したのだろう。

 ふにゃっと笑うお父さんと、動かないお母さん。どうぞ、と言っているのにまだお母さんは帰る気なのか。


 絶対に嫌だ。

 断固たる意志をもって、私は数秒の間の後「おかあさん、どうぞって」と甘え声で誘った。


「あの、私、帰ら、ないと、あのひと、が」

「おかあさん、帰っちゃダメ」

「じゃ、僕荷物持ちますねー」


 突如、場の空気とか雰囲気とかその類のものすべてを一刀両断して、お父さんはお母さんの背後にまわり、トランクケースを持ち上げた。


「え、あ、あのせ、先生?」

「リビングに置いておきますからー。さぁーついて来てくださーい」


 お父さんは背中を向けて、ずんずん廊下を進んでいく。


「え、ああの、ま、待って下さい!」

「シェリーちゃんもおいでぇ」

「はーい!」


 先頭はお父さん。真ん中に私。最後にお母さん。一列に並んだ行進は、乱れることなくリビングに続いているドアへ突き進む。


「そうだ」


 急に、先頭のお父さんが立ち止って振り返った。


「カティさん、朝ごはん食べましたぁ?」

「え、い、いえ……」

「あららぁ、ちゃんと食べないからそんな細いんですよー。いけませんねぇ」

「す、すみません」

「謝らないで下さいって。ねぇシェリーちゃん? シェリーちゃんも、お腹減ってるでしょぉ?」


 私は「うん!」と、勢いよく首を縦に振った。

 すると、お父さんはふにゃりと目を細めて、ドアに手をかける。 


「殺風景な部屋で申し訳ないですけど、じゃんじゃん自由に使ってくださいねぇー」


 ついにリビングへ続くドアが開かれる。

 瞬間、ほんわりと、あの香りがした。


「これは入り口のところに置いておきますからー」


 お父さんは入り口付近にトランクケースを下ろす。

 ドアの先は、夜食を食べた時とはまるで景色が違った。仄明るい間接照明に照らされた夜の色合いも素敵だったが、温かい色に満ち溢れた今も全く別の意味で素敵だ。

 私は探検隊よろしく、リビングをきょろきょろと見渡した。


 まず目に飛び込んでくるのは、大きくて長い白色のソファ。

 落ち着いた色のカーペットがフローリングに敷かれ、そこにどん、と乗っかっている。

 革製だろうか。お父さんみたいに背の高い男の人でも簡単に寝転がれそうだ。

 対になるように木目の美しいテーブルがあり、ちょこんと小さなサボテンがお座りしていた。

 壁際には格子状の小洒落たシェルフ。壁には大画面のテレビが張りつき、その横には背高のっぽの観葉植物が茂っていた。既視感があるのは、寝室にあるものと似ているからだろう。昨晩の記憶にはあまり残っていない。

 室内は眩い光に包まれていた。大小様々な形をした窓が明かりを取り入れており、それぞれがリビングを照らしている。朝のひかりのお蔭で人工的な照明は必要なかった。

 一人暮らしにしてはかなり贅沢な空間だ。しかも、ソファの後ろ側にはダイニングキッチンが続いているのである。据えられたカウンターキッチンも、とても素敵な見た目をしていた。


「こっちこっち」


 手の空いたお父さんは私たちを手招きして、ダイニングへと誘った。

 やっぱり一人暮らしには相応しくない、四人がけのテーブルセットがあって――


「大したものは用意してないんですけど、朝ごはんはいかがですかぁ? お二人とも」


 その卓上には三人分の朝食が並んでいた。


「わぁ」


 私はテーブルに駆け寄る。縁に手をかけて、皿の上のものを熱心に見つめた。

 スライスされたライ麦パンが真ん中に並び、各自の皿にそれぞれ料理が盛られている。

 ふわふわのオムレツ。焼き色のついたハムや光沢を纏ったミートボール。葉物野菜にオレンジやラディッシュの和えられた新鮮なサラダ。生成色のとろりとした冷製スープ。

 所々フェンネルが散らされた朝ごはんから、目が離せない。


「シェリーちゃん、この中に苦手なものってあるかなぁ?」

「ないよ! これぜーんぶ大すき!」


 釘付けのまま、振り返りもせず私は答えた。


「カティさんも、食べられそうです?」


 絶対お母さんも大好きだよ! と期待を灯して、後方へ首を向ける。


「……おかあ、さん?」


 まるで夢遊病に侵されているかのように、虚ろなすみれ色が彷徨っていた。放心した表情のまま、おぼつかない足取りでとぼとぼとこちらへ進んでくる。


「こ、これ、せんせい、が、つくって」

「はい。パン以外は全部僕の手作りですよぉ」

「わ、わた、し、たち、のため、に……?」

「そうです。カティさんとシェリーちゃんのために、作りました。僕の分はおまけです」


 お父さんが笑うと、お母さんの顔はたちまちクシャクシャに歪んだ。しかめっ面みたいな酷い顔をして、そのまま膝から崩れ落ちる。


「こ、こんな、こと、い、まま、で、いち、ども……!」


 顔を両手で覆ったお母さんは、間違いなく泣いていた。号泣とか慟哭とか号哭とかそんな言葉がぴったりなくらいわぁっ、と泣き始めた。

 結婚してから今まで、朝食を作るのはお母さんの仕事で義務だった。一応私だってお手伝いくらいはしていたけれど、幼かったから簡単な作業しか任せられない。その上、やっと作った朝食も、あの男は口も付けず、私たちの目の前で滅茶苦茶にするのだ。

 こんな貧乏くさいメシが食えるか、と怒鳴り散らして腕を振り上げて。


「あぁぁ、カティさん泣かないで下さいよぉ」


 お父さんは情けない声をあげつつも膝を折り、お母さんの両肩をさすっていた。


「ごめんねぇ、シェリーちゃん、僕お母さん泣かせちゃったぁ」


 苦笑するその顔を見た私の目にも、再び涙が滲む。

 すぐ近くで溢れ続ける涙が伝染したのだ。ポロポロと雫を零しながら、私はお父さんの胸に抱きつく。



 二人分の体温を抱き締めて、お父さんは「よく頑張ったねぇ」と穏やかに囁いた。



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