第2話 真実を知ったあのひとは
私は出来損ないの子供だった。
勉強もぱっとしないし、運動も得意じゃない。音楽や美術の才能もなかったし、特別目を惹くような飛び抜けた容姿でもない。
誰かと比べられると、必ず劣ってしまう出来損ないの娘。お母さんは「いいのよ」と笑ってくれたけれど、あの男は許してくれなかった。
物心ついた頃には、お母さんは日常的に折檻を受けていた。
料理が不味いからとか、掃除が完璧に出来ていないからだとか、アイロンがけをしたシャツにシワがあったからとか、何をやってものろまだからとか。そんな下らない理由で。
一つ一つ折檻のわけを挙げていくときりがない。
いつの間にか革靴でガムを踏んでいたから。
あの男ご自慢の高級車に誰かが傷をつけたから。
仕事中に癪に障ることがあったから。
天気予報が外れて雨が降ったから。
とにかく、ありとあらゆる事象にイラつく男だった。
汚らわしい言葉でお母さんを
想像に容易いが、当然私にも矛先は向けられた。いつからかは覚えていない。多分、生まれた瞬間からそうだったのだと思う。
出来損ないの娘は、日常的に侮辱されていた。
時には手足が降り注ぐこともあった。
泣かなかった日は一度もない。
私とお母さんは震えながら、あの男の恐怖に縛り付けられていた。
由緒正しい名家の出自で、名門学校を卒業し、ふんぞり返っているだけで懐に大金が舞い込んでくる。
あの男の歩んだ人生は完璧で一点の曇りもない。
後は誰かと結婚し、幸せな家族を周りに見せつければフィナーレだ。
結ばれる誰か、は誰でもよかった。
家柄がよく、学歴があって、容姿端麗。おまけに逆らわない性格の女。
これらにぴったり当て嵌まったのが、私のお母さんだった。
私と違い、美人でスタイルも抜群。家柄も申し分なく、有名大学卒の小児科医という経歴を持っている。
縁談はとんとん拍子に進み、二人は夫婦の契りを交わした。
そうして。お母さんは醜い男の奴隷として生きるしかなくなった。
誇りだった仕事を辞めさせられ、家事に追われる日々。
娘が生まれても、あの男は家庭に無頓着だった。
毎日そこかしこで豪遊して金を撒き散らす癖に、母子へは生活費を殆ど渡さない。文句だけは立派で、すぐに手が出る。人前では愛想が良いから、よその人はあの男の素性を知らないのだ。
成長した私は、コネと金の力であの男の母校に入学させられた。当然学力は足りていない。塾や家庭教師を掛け持ちして勉強してもムダだった。
どんなに頑張っても報われず、怒号が飛び交う。学校でも家でも惨めな思いばかりしていた。
虐げられながら時は過ぎ、私が八歳になった頃。
ついに生活費が一切渡されなくなった。お母さんは自分の貯金を切り崩しながら必死にやりくりしていた。けれど、ある日忽然とお金が消えてしまった。あの男に盗られたのだ。
行き詰ったお母さんは、もう一度小児科医として復職させてほしい、と男に頭を下げた。
時給の安い仕事をするわけじゃありません。高名な病院を選んで立派に働くから。働きに出ても家事は今まで通りするわ。絶対、一族やあなたの名を穢したりしないから。
どうか、どうか、お願いします。
毎日毎日頭を下げて懇願し、辛い思いをしながらもお母さんは引かなかった。
ふた月近くの交渉の末、お母さんはある病院で働くことを許される。やっと外の世界との繋がりを取り戻したのだ。
復職してからは、お母さんの暗く沈んだ表情が少しだけ和らいでいた。ずっと一緒にいた私は、幼心にとても嬉しかった。約束通り家事もしっかりこなし、毎日が過ぎていく。
しかし。いつまでも順風満帆とはいかなかった。
私が家出を決める三日前。お母さんは急患の対応に追われ、帰りが遅くなってしまったのだ。
普段なら料理や酒のつまみが出来上がる時刻に、夕飯の支度も掃除も洗濯もまだ。
約束を破ったお母さんはあの男の逆鱗に触れる。
今までは顔に手を出さなかったのに。
怒り狂ったせいであの男のタガが外れてしまった。
世間体とか証拠隠滅とかがどうでもよくなったのか。あるいは頭の血管が切れておかしくなったのか。お母さんの綺麗な顔は、その日から見るも無残なものに成り果てた。
俺より仕事が大事なんだろ?
なら休むのは許さない。家事も手を抜くな。完璧にやれ。
まぶたや頬が腫れ上がっても、お母さんは日常を強要された。
家出当日の夜も状況は変わらない。
私は耐えられなくなって、気がつけば家から飛び出していた。
住宅街を滅茶苦茶に走り、もう帰らないと決意した。
これが、事の顛末だ。
*****
閉店したカフェの軒先。
雨宿りのために逃げ込んだ場所で、私は泣き続けていた。みっともなく喚いて「たすけて」と言い続けた。ため込んだ感情を涙に重ねて打ち明けた。
お父さんは私をぎゅうっと抱き締めて「もう大丈夫だよ」と低い声で囁く。ほろ苦くてとろとろのチョコレートみたいなテノールだった。
誰にも話せなかった秘密だったのに。一生心の奥底に隠しておくはずの秘密が、不思議と堰を切ったように吐き出せてしまった。固く閉じた心の扉が、お父さんの前では簡単に開錠されてしまうのだ。
腕の中でしゃくりあげる。濁音まみれの雨音は弱まる素振りを見せない。徐々に涙は雨に吸われ、頬が乾き始めた。
悲しい。寂しい。怖い。苦しい。助けて。
痛みを孕んだ感情は、優しいかいなに受け止められる。もし、私に優しいお父さんがいたら、こんな風に抱き締めてもらえたのかな。あの男には頭を撫でられたことも抱き締められたこともない。
私は父親からの愛を知らなかった。
大きな身体と長くてがっしりした腕の、正しい使い方をしてもらった経験がない。
濡れた肩越しに見る景色はいつもよりずっと高い位置にある。大袈裟だけれど、子供にとっては世界を俯瞰して見られる位置だ。
お父さんは、お母さんよりもあの男よりもずっとずっと背が高かった。あの男みたいに、香水臭くも煙草臭くもない。濡れた首筋からは、せっけんと汗が混じった香りがした。人間の自然な香りだ。その香りをかいでいると、大きなあくびが出てしまった。
「シェリーちゃん、眠くなっちゃった?」
「……ん」
夜も更けた。それに、泣き疲れている。
「おうちには帰りたくないんだよね」
「うん……」
「じゃあ、おじさんちでお泊りしようか」
私はいいよ、をあくびに変えて目を閉じた。
ぶつり。と記憶は途切れ、気がつけば広いベッドの上に寝ていた。服装も、半そでのパジャマになっている。寝室らしいそこはひんやりと空調が効いていた。起き上がってきょろきょろしても、お父さんの姿はない。
恐らくお父さんの暮らす部屋だろう。室内の様子が、サイドランプのだいだい色によって浮かび上がる。寒色のカーテンがかかる掃き出し窓。私の背ほどある観葉植物。扉の閉まったクローゼットとモノクロのチェスト。木製の小型デスク上にはミネラルウォーターのボトルが二本。整理整頓の行き届いた室内からはあまり生活感が感じられない。
「おじさん……?」
どこに行ったの?
会ったばかりの他人がやけに恋しくて、私はベッドから降りた。トランポリンみたいに大きなベッドだ。
「おじさぁーん」
唯一室外に繋がるドアに近づく。開けようかな、どうしようかな、と迷っているとお父さんの声が聞こえてきた。
「もしもーし。あ、カティさん? 遅くにごめんなさい。僕です。ええと、今、大丈夫ですか?」
耳に届いたのはお母さんの名前。お父さんとお母さんが、電話か何かで話している。
「あぁ、よかったぁ。何度かけても繋がらないからちょっと不安で。……いやいや別に怒ってないですよぉ? 不安だっただけです。謝らないで下さいってー」
私と話す時より、若干語尾の伸びが短い。大人の喋り方をしている。でも、ふわっとした声の調子は同じだ。
「あのー、実はですねぇ、買い出しに行ったときにシェリーちゃんと偶然ばったり出会って。あ、違います違いますそうじゃなくて。その時に、うちに帰りたくないって泣いちゃったんですよ。で、僕がかどわかしちゃいましたぁ。あはは、すみません」
きっとお母さんは心配している。
急に飛び出す前の光景を思い出して、鼻の奥がつんとした。
「ホント、連絡が遅くなっちゃってごめんなさい。心配でしたよねぇ。あぁーいやいや、大丈夫ですよー。僕も小児科医の端くれですし、シェリーちゃんとぉーっても良い子ですし」
お母さんはまだあの家にいる。
あの男が支配する世界に閉じ込められている。
「えぇー、今からは危ないですよぉ? せめて朝にしません? シェリーちゃんもうぐっすり夢の中ですしねぇ。カティさんも疲れてるでしょう? 今日はもう寝て下さい。ほら、とっくに日付変わっちゃってますから」
仕事をして家事をして、あの男の相手をして。お母さんは誰よりも疲れている。
「はい。もー、だから大丈夫ですってー。あれぇ、もしかして僕信用されてない感じですか? あはは、なんちゃって。……カティさん確か明日お休みですよねぇ? うんうん。で、一つ提案なんですけどねぇ。明日、六時頃に僕のアパートに“出勤”しませんかぁ?」
お父さんはお母さんをどうするつもりなのか。耳をそばだてた。
「ふふふー、大丈夫ですって。心配はいりませんよー。あはは。――それと。これから言うことは医務部長命令です。必ず守って下さい」
ふわふわの口調が、途中から金属の塊のように硬く、鈍い光を纏った。
「明日、出勤する際は二泊三日の旅行に行くつもりで家を出て下さい。シェリーちゃんの着替えも含めて、小さいトランクケース一つ分くらいの荷物で、ね。約束ですよ?」
息をするのも忘れてしまう、硬質なテノール。ドア越しに聞こえる声はどんな刃物よりも鋭い色をしていた。
「心配はいりません。あと、守ってくれないと僕泣いちゃいますからね。じゃあ、おやすみなさーい」
聞くべきじゃなかった。後悔しつつも、明日の朝が待ち遠しくてたまらない。
胸の前で両手を握りしめて、祈った。私たちに早く朝が来ますように、と。
きつく目を瞑って、明日に思いを馳せる。すると。
「あれぇ。シェリーちゃん目が覚めちゃったぁ?」
目の前のドアが開き、お父さんが現れる。服装は変わり、青色の寝間着を着ていた。相変わらずとろんとした目をしていて、心が和らぐ。
「あ、あのね、あの」
さっきの話は、一体。色々と尋ねたかったが、タイミングよく鳴った腹の虫に質問が掻き消される。
豪快な空腹の証に、お父さんはくすりと笑った。
「お腹減った?」
膝を折って目線を合わせ、頭を撫でてくれる。
「うん……」
「よぉーし、あんまりよくないけどお夜食食べちゃおうかぁ! ちょうどロヒケイットが残ってるんだよねぇ。どうかな、シェリーちゃん。お魚のスープ、食べられる?」
「食べる!」
「じゃ、温めるねぇ」
お父さんは笑顔のまま、ひょいっと私を抱き上げてキッチンへ向かった。
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