私のヒーロー
景崎 周
第1話 幸せな花嫁
「あぁー……ダメだ。シェリーさん、僕早くも泣きそう」
「もー。今はまだ早すぎ。あとちょっとだけ堪えて」
「じゃあ、うん。あとちょっとだけ頑張る」
ベールダウン後の、白く霞んだ視界。その端で、お父さんが声を震わせながら笑った。
私も泣きそう、だなんて言えない。
さて、どちらが先に耐えられなくなるだろう。考えて、わずかに楽しくなり、悲しくなった。
こんな感情を抱くのは今日が最初で最後、であってほしいな。でなければお父さんを再び泣かせてしまうから。
純白のブーケを手にし、純白のベールを纏い、同じく純白のドレスで身を包む。ウエスト周りをギチギチに締めているから、けっこう苦しい。もう少しダイエットを頑張るべきだった。でも、その苦しさが心地良い。脱ぎ捨てた時、私は別の何かになれる。そんな気がして左胸が高鳴った。
はにかんでいると、隣から鼻をすする音がする。本当に頑張っているみたいだ。
「うぅ、シェリーさぁん」
「がーまーん」
「はーい……」
厳かな空気の中、二人で両開きのドアが開くのを待っていた。精巧な細工の施されたその先に、ウエディングアイルが待っている。
私はこの人の元から飛び立つのだ。
長い間、私を愛し、護ってくれたお父さんの元から。空に舞い上がる鳥や蝶のように。
「ねえ、お父さん」
「んー? なぁに、シェリーさん」
「……やっぱり何でもない」
「えー、気になるー」
とろんとした目がこちらに向けられる。
呑気そうで、ぼんやりとした赤茶の目。目尻には深いしわが三本刻まれていた。
決して男前な目元ではない。けれど、愛嬌があって私は好きだ。シフォンケーキのようにふかふかで美味しそうだから、かもしれない。
「何でもないって。忘れて」
「あはは。了解です」
初めてお父さんに会った時、まさか事になるなんて全く考えていなかった。
地獄の日々が永遠に続くと信じていた。
私とお母さんは絶望で塗り固められた毎日を送っていた。
でも、お父さんが私たちを愛してくれて世界から暗雲は消え去った。
自由を得た私は、空へと羽ばたく力を手にした。
私を愛してくれたお父さん。
大好きで、大好きで、大好きで、大好きで、心の底から敬愛する人。
この人のくれた愛で、
それくらい、私とお母さんを愛してくれた。深い愛を注いで見守ってくれた。
無償の愛がこの世にあると、本気で信じてしまうほどに。
初めて出会ったのは、夜のバス停だ。
私はまだ、八歳の女の子だったっけ。
緩やかに目を閉じると、まぶたの裏で思い出たちが巡り始める。
*****
ぱたたたた、と雫が肌を濡らす。
辿り着いた薄闇のバス停で、私は雨に降られていた。街灯に照らされたそこに、自分以外の気配はない。
随分家から遠ざかっている。帰り方はとっくに忘れた。そもそも二度と帰るつもりはない。
あんな家出ていってやる。こっちから捨ててやる。私は独りで生きるんだ。
ただ、逃げ出したかった。あの光景をもう目に焼き付けたくない。しかし目を潰す勇気はない。はさみを向けるとどうしても目を瞑ってしまう。
だから逃げた。
恐らく、ここに来るバスに乗れば遠くに行ける。私は知らない人ばかりの場所に辿り着ける。
大丈夫大丈夫。何とかなるって。
どこからともなく湧く勇気が、私を支えていた。
しかし待てども待てどもバスは来ない。ついに雨まで降ってきてしまった。夏の雨は短命でありながら勢いは苛烈だ。
雨宿りを、と思って近くの広葉樹の下に避難したが気休めにしかならない。
周りは閑静な高級住宅街。まさか、ベルを鳴らして雨宿りさせて下さいなんて言えない場所だ。どの門も立派で、厳重なセキュリティが敷かれている。私みたいな怪しい子供が突然押しかけても入れてもらえるはずがない。
遠くに行く前に風邪を引いてしまう。
しっとりと濡れ始めた髪と洋服を触っていた時だ。
急に、雨がやんだ。
正確には、ぱたたたた、と鳴っていた雨音が、ばらららら、に変わった。
「こんばんはぁー。こんなところでどうしたの?」
背後から、肩の力が抜ける声色が私を包む。テノールの柔らかな響きに振り返ると、その人が立っていた。
「もしかして迷子さんかなぁ?」
声をかけてきたのは、四十代前半くらいのおじさん。背高のっぽで赤茶の髪を短く切り揃えている。七分丈のジャケットに暗い色の長ズボンを合わせたシンプルな出で立ちだ。
何を隠そう、この人が後に私のお父さんとなる人である。
今と変わらない、赤茶のとろんとした目。目元には薄く二本のしわが刻まれている。ふかふかの笑みを湛え、私の頭上に傘を掲げていた。
「おじさん、だれ?」
知らない人だ。
知らない人に声をかけられたら逃げろ。近くの大人に助けを求めろ。悪い人だったら、頭からぺろりと食べられてしまうから。
口酸っぱく言われていたそれらの言葉を思い出し、私は身構える。
「んー、僕? 通りすがりのおじさん。怖い人じゃないから安心して?」
腰をかがめて目線を合わせ、「あはは」と笑う。
しかし私の身体は固くなったままだ。
「あぁ、ごめんごめん。そうだよねー、怖いよねー。うーん、参ったなぁ。……そうだ」
一人で何かを思い付き、ズボンのポケットを探り出す。
「ほらこれ。プレゼント」
数秒後、差し出されたのは可愛らしいラッピング袋だった。
袋は半透明の水玉模様で、ピンク色のリボンでおめかししている。中には美味しそうな焼き菓子が二つ。
名前を知らないお菓子の登場に、口の中でじわりと唾が溜まり始める。夕飯は色々あって食べられなかったから、腹ペコだった。
思わず手を伸ばしそうになったが、やはり目の前にいるのは見知らぬおじさんだ。すぐ手を引っ込めて、じっとおじさんの目を見た。
「シェリーちゃんにあげるよ」
おじさんは、名乗ってもいないのに私の名を当てる。
「ど、どうしておじさんがわたしの名前、知ってるの?」
「ふふふー。この包み、見覚えないかな?」
「え?」
見覚え?
不思議に思ったわたしはじっと袋を見つめる。
「……あっ! おかあさんが内緒でくれたお菓子!」
昨日の晩に、お母さんがこっそりお菓子を渡してくれた。それとラッピングがそっくりだ。
お母さんは私の部屋に来て、小さな声で言った。
「病院でシェリーの誕生日のことを話したら、プレゼントにどうぞっていただいたのよ。作って下さったのは、優しくて穏やかなお母さんの上司の方なんだけれどね。その方、お菓子作りが得意で、いつも皆さんに配っているみたいなの。どれもとっても美味しいんですって」
すみれ色の瞳がキラキラ輝いていて、お母さんは私以上に嬉しそうに見えた。
このおじさんはお母さんと同じ病院で働いている人なのだ。顔と名前を知っているのはお母さんから聞いたからに違いない。
お菓子作りが得意なのだから、女の人かなと勝手に想像していた。
優しくて穏やかで、美味しいお菓子が作れる人が、まさかこんなおじさんとは。
失礼だけど、当時は思わずにはいられなかった。
「せーかい! 美味しかったかな?」
「うん! おじさん、おかあさんのじょーしのひと?」
「わぁ、シェリーちゃん難しい言葉を知ってるねぇ。すごいすごい。でも僕、全然偉くないんだけどなぁ。友達、くらいに紹介して欲しかったかも」
「じゃあ、おかあさんの友達なの?」
「僕はそう思いたいなぁって、ね。――これならお菓子、受け取ってくれる?」
おじさん、もといお父さんはふにゃりと笑う。
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう! おなかペコペコだったの!」
「そっかぁ。じゃあもう一個あげよう」
お父さんは反対側のポケットからもう一袋お菓子を取り出した。
驚きながらも愉快な気分になった私は、笑顔でお礼を言い、袋を受け取る。
中身は、三日月や花の形をしたクッキーだった。
「シェリーちゃん。もう遅い時間なんだけどねぇ、どうして一人でバス停にいたのー?」
その質問に楽しい気持ちは吹き飛び、一瞬で心臓が冷えた。
笑顔が凍りつき、私は目を逸らす。
「あ、あの」
「んー?」
「えっと……。い、家出したの」
「あらら。そりゃあ大変だぁ。お家で何か嫌なことあったぁ?」
嫌なことばかりで逃げ出した。とは言えず、私はだんまりを決め込む。しばらく無言が続くと、お父さんはふわっと笑ってこう言った。
「まぁいいやぁ。とりあえず屋根のある所に行こうか、シェリーちゃん」
黙ったまま、こくりと頷く。
傘は私の頭上に掲げられ、お父さんの服は濡れていた。
当人は濡れているのなんて気にも留めないそぶりで笑っている。
一緒に歩き始めてすぐ、お父さんは「お母さんのカティさんにそっくりだったから、すぐにシェリーちゃんだってわかったよ」と、私の容姿とすみれ色を褒めてくれた。
「お家には帰りたくない?」
静かな問いにまた頷く。
「じゃあ、僕のうちにお泊りする?」
今度は頷かなかった。
お父さんはちょっとがっかりした顔をする。
「あ、もしかしてお母さんとケンカしちゃったのかな」
ケンカしたのは私とお母さんではない。いや、あれはもうケンカではない。誰が見ても一方的な暴行だ。
無抵抗のお母さんを、何度も、何度も――
「ちがうもん……」
足がすくんで立ち止まる。
降り注ぐ雨音と同調して、私の目から大粒の涙が溢れだした。
「ち、ちがうも、んっ……。わたし、おかあさんと、ケンカした、こっ、とないもん……! おか、あさん大好き、だもんっ! 世界で、いちばん大っ、好きだも、ん!!」
雨音は一層強くなっていた。まるで私の涙をのみ込んで膨れ上がったかのように。
このまま、世界が水底に沈んでしまえば私は楽になれる。クラゲみたいにぷかぷか浮かんでいるだけの生活を送りたい。負の感情のない水色の世界に逃げ込みたかった。
手の甲で流れ続ける涙を拭うと、ふいに身体が宙に浮きあがる。
「ごめんね。僕、いじわるだったね。泣かないで」
器用に傘を肩に引っ掛けて、お父さんは私を抱き上げていた。とんとん、と背を叩いて宥め、時々頭を撫でてくれる。
骨ばった大きな手。お母さんの細くて小さな手とは全然違う。なのに何故だろう。疑いもせず身を預けていた。
「お、かあ、さんっ……!」
肩に顔を埋め、泣きじゃくる。
あの日の私は、お母さんを救えなかった。
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