恐怖の一夜

 支配人室で、北嶋探偵から驚きの金額を提示され、どう値切ろうか思案していた。

「全く霊能者という奴は我が強くてかなわん」

 偉そうな振る舞いをし、挙げ句、返り討ちにあった葛西と言い、霊が全く見えないのに、何故か至高の霊能者から推薦されている北嶋と言い…

 これも、こんな場所に建設した社長が全て悪いのだろうに、何故私がこんな不愉快な思いと、こんな怖い思いをしなきゃならないんだ?

「北嶋探偵は社長がお願いしてやって来たんだよな。確か人格者だとか」

 果たして人格者が、あんな金額を提示して来るのかは解らないが、いずれ北嶋探偵にお願いしなければならない状況だ。

 しかし、あの金額を飲む事は…

 幽霊騒動により、閑古鳥が鳴いている当ホテルにとって、それは経費で捻出出来ないような金額だ。

 社長はこのホテルの経費から捻出しろと言っていたし…

 もう、そんな金がある筈が無いのに…

 軽く頭痛がし、椅子に深く背中を預ける。

 その時気が付いた。

「いつの間にか真っ暗になっていたんだな」

 窓から星の明かりがチラチラと見えていた。

 そして内線のコールだ。厨房?

 腕時計を見る。

「こんな時間に?いや、こんな時間にいつの間になっていた?」

 腕時計は0時を指していた。

 仕込みの指示は料理長に全て一任してある。

 金額を提示し、その金額内ならば突拍子も無い事以外なら、料理長が全て行っている。

 何故私に内線が掛かってくるのだろうか?

 不思議に思いながらも、電話を取った。

「はい」

『あ、支配人…明日のお得意様用の料理なんですが…』

 声は料理長の長谷川だった。

「お得意様?そんな予約なんか入っていない筈だが」

『何を言っているんです?毎日お越しになられているでしょう?』

 毎日?しかもお得意様?当ホテルには自慢じゃないがお得意様なんか居ない。

「何をおかしな事…」

 そこまで言いかけたが長谷川が続けて途切れる。

『いるでしょ?毎日毎日来ているでしょう?気がついていないんですかぁぁぁあああああ!毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日ここに見に来ているだろうが!ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!!!』

「うわ!」

 慌てて内線電話を切った。

 いつの間にか私の部屋が、冷房も付けていないのに、ヒンヤリした空気となっていた。

 プルル…プルル…プルル…

「うわっ!!」

 心臓が止まるかと思った。切った直後に再び内線…今度はロビーだ。

「は、はい…」

『支配人、お客様がお見えになっておりますが』

 フロントの田島だった。

「こんな遅くに?誰だ?」

『今から支配人室に向かうそうです』

「だから誰がお見えになったんだ!」

 苛立ち、声を荒げる。

『毎日お見えになっている、お得意様ですよ。毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日……!!はははははははははは!!ゲェッ!!は、はははははははははは!!!!』

「うわああっ!?」

 やはり内線電話を切る。

 プルル…プルル…プルル…

「うわあっ!?」

 私は内線電話の線を引き千切った。ただそれだけの動作で、息が切れている。

「毎日来ているだと?こちらに向かうだと?」

 身体中の毛が逆立ち、寒気と震えが止まらなくなる。

「じ、冗談じゃない!!」

 支配人室から勢い良く廊下に飛び出した。

 毎日来ているお得意様と言えば…当ホテルに群がっている幽霊じゃないか!!

 そんなのに来られるのは 冗談じゃない!

 いつもより闇が濃い廊下を気にしながらも、私はホテルから出る為にエレベーターのボタンを押した。

 支配人室は二階。

 エレベーターは三機。

 一機は地下一階、残り二機は四階。

 連動タイプじゃないエレベータ-が、全て何故か同時に動いた。

「ほ、他にも誰か…」

 エレベーターを使おうとしているのか?

 しかし、何故か同時に二階に止まった。地下一階と四階に居るエレベーターが同時に二階に到着したのだ。

 一歩、二歩、三歩…エレベーター前から引き下がった。

「はぁーっ!!はぁーっ!!」

 呼吸が大きく、荒くなる。静まり返った二階に私の呼吸がうるさいくらいに響いた。

 同時に開くエレベーターのドア…

「…誰も?」

 三機あるエレベーターには誰も乗っていなかった。

「単なる故障か、誤作動か…」

 無理やりそう思い込み、地下駐車場のある地下二階のボタンを押す。

 閉じるエレベーターのドア。地下二階に着いたら階段で一階まで歩けばロビーを通らなくて済む。

「まだか…まだか…」

 焦る私…なかなか地下駐車場まで到着しない…

 長い長い時間、エレベーターに乗ったような気がしたが、やがて地下駐車場にエレベーターが止まった。

 静かに濃い闇の中に足を踏み入れる。

 エレベーターの明かりが、地下駐車場の暗闇をより一層引き立てているようだった。

「それにしても…こんなに暗かった…か?」

 背を向けているエレベーターの明かりが、闇を照らさない。

 静かすぎる。何より、空気が違う。

 いつもの地下駐車場の雰囲気を全く感じられず、助けを求めるよう、明かりに振り返る。

「え?」

 エレベーターに振り返った私は再び違和感を覚えた。

 私が乗って降りて来たエレベーターは勿論一機だ。

 だが、私の目の前には、三機のエレベーターがドアを開け、暗闇に明かりを照らしていたのだ。

「私の他にも誰かが…」

 二階でエレベーターを使い、地下駐車場まで降りて来たのか?

 私は周りを見渡す。

 目に入るのは、闇…他に誰もいない…

 エレベーターが三機ともドアを閉じる。

「ま、待て!」

 慌てて開ボタンを連打する。

 しかし、エレベーターは三機とも、上へ上へと上がっていった。

 右のエレベーターが三階で止まる。

 中のエレベーターが五階で止まる。

 左のエレベーターが地下一階で止まる。

「こんな時間にエレベーターを使う従業員が…」

 いる訳が無い。各々、従業員休憩所で休んでいる筈だ。

 右のエレベーターが六階に上がる。

 中のエレベーターが二階へ下る。

 左のエレベーターが七階に上がる。

「な、何だ一体?各エレベーターが上ったり下りたり…?」

 右のエレベーターが二階へ下る。

 中のエレベーターが四階に上がる。

 左のエレベーターが五階へ下がる。

 私はエレベーター前から、二、三歩下がって呆然と見ていた。いや、釘付けになっていた。

 右のエレベーターが三階に上がる。

 中のエレベーターが地下一階へ下がる。

 左のエレベーターが一階へ下がる。

 異常なエレベーターの稼働に、恐れるしかなかった。

 右のエレベーターが地下駐車場へ下がる。

 中のエレベーターが地下駐車場へ下がる。

 左のエレベーターが地下駐車場へ下がる。

「ひっ!ひっひっ!」

 更に二、三歩エレベーター前から退く。

 チン

 全てのエレベーターのドアが開き、暗闇の地下駐車場を仄かに照らした.

「うわあっ!うわああっ!」

 エレベーターから人間が大量に降りて来た。

 人間?いや、違う…

 ある者は顔半分ぶっ飛び、ある者は身体中から蛆が湧き、ある者はブヨブヨの身体で目を剥き出して!!

「ぎゃああああああ!!」

 一気に駆け出した。逃れる為に。

 死人がエレベーターから大量に溢れ出てくるなんてあり得ない!!

 恐怖が先走り、地下駐車場にある柱や車をうまく躱せず、何度か接触した。

 しかし私は構わずに、出口に向かって走った。

 ドン

 また何かに接触した。

 横目でチラリと見る。


「ぎゃああああああ!!!」

 私が接触したそれは、水死体のようにブヨブヨした腐乱した人間だった。

 接触した際に、肉が破裂し、腐敗臭と共に腕が落ちた。

「ぎゃあ!!うわああっ!!」

 腰が抜けると思った。

 だが、無理矢理足を踏み出す。出口から月明かりが見えたから。

 あそこから逃げれば…もう少し…!!

 もう少しで地下駐車場から脱出出来ると思った私は、少し笑った。

 ドン

「うわ!!」

 いきなり目の前に現れた何かに当たり、阻まれた。

 恐る恐るそれを見る。

「はああっっっ!!!」

 私が最後に接触した何かは、今し方海から上がってきたように、ずぶ濡れで、私を恐ろしい目で睨み付けながら笑っている影だった。

 影なのに、表情が解ったのは謎だがその影が私に強い敵意を向けていたのが解った。

 私はその影に睨まれながら意識を失った……


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「なんだか今日は薄ら寒いな…」

 真夏の碌にエアコンなど効いていないフロントで、僕は肩を微かに震えさせた。

 閑古鳥が鳴いている当ホテルには、少しではあるが、他からあぶれたお客様が駆け込みで来る事があった。

「でも深夜0時にお客様なんか来ないけどね」

 取り敢えず休憩でも取ろうと、フロントから休憩所の扉に手をかけた瞬間、ロビーの自動ドアが開いた。

「珍しいな…」

 こんな時間に駆け込みとは…

 予約や問い合わせの電話も無い事から、旅行者が駆け込みで当ホテルにやって来たのだろう。

 僕はお客様の姿が見えるまで、キチンと立って待っていた。


「あれ?」

 結構待ったが、お客様の姿が見えない。

「気持ち悪いなぁ…」

 当ホテルは幽霊を良く見るホテルだ。僕は鈍いから、気配くらいしか感じないけれど。

 だから深夜のフロント勤務に抜擢されたんだけど…

「寒いし、何かいつもより暗いなぁ」

 その割には、背中から変な汗が吹き出て来ていた。

 再び休憩所の扉に手をかけた瞬間…

 コツ…コツ…コツ…コツ…

 誰かがフロントに歩いて来る足音が聞こえた。

「やっぱり居るんじゃん」

 少し安堵し、再び姿勢を正し、お客様を待つ。

 コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…コツ…コ!!

 フロントの僕の前で足音が止んだ。

「いらっしゃいませ」

 僕は会釈をし、顔を上げる。

「あれっ!?」

 僕の目の前には、誰も居なかった。

 先程より闇が濃くなったような気がする。

「今日おかしいよ…ヤベェなぁ…」

 鈍感な僕にとっては初体験だ。

 感じる程度なのに、そこに誰か居るのがハッキリと解る。

 暗闇に有る影…そう、影だ。影だから顔も姿も見えない。

 だけど、その影は、たった今海から上がったように、びしょ濡れなのが解った。

 よく床に水溜まりが有ったとか聞くけど、僕の前の影の足元(?)に水溜まりも水滴すらも無かった。

 だけど、確実に影は全身びしょ濡れだった。

 僕はジッと影を見入る。

 他の人から聞いた話じゃ、当ホテルに出る幽霊は様々で、溺死した人、電車に飛びこんだ人、凍死した人、はたまた天命を全うした人と、バラエティーに富んでいるらしい。

 霊感が強い先輩曰わく、何か海から沢山の幽霊が地下の大浴場から侵入してくるらしい。

 霊道が開いているとか何とか?

 普通の幽霊も居るが、ヤバい幽霊もかなり居るらしい。

 詳しく聞く前に、先輩は辞めてしまった。


「狂う前に辞めるわ」


 先輩は僕達にも、早く辞めた方がいいよ、と言って、それっきり音沙汰は無くなった。

 実際にスタッフの女の子は、気が狂って自殺騒ぎを起こしてクビになった事もある。

「良かった。見えなくて」

 ただ感じるだけの僕は、気が触れるような目には遭っていない。

 暗闇の影を見入ったとしても、それは変わらない。

「うわ!!」

 僕はフロントから一歩引いた。いや、跳んだ。

 笑っている…

 間違い無く影は笑っている!見えないが、それが解る!!


 ブァン!ブァン!


 突然、耳鳴りがし、激しい頭痛が僕を襲った。

「ぎゃあ!やめて!やめてって!ああああっ!」

 頭を押さえて暴れ出す。

 影が僕の頭に手を突っ込んで、脳みそを掻き回しているような…


 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!


 のた打ち回る僕を、愉快そうに眺めている影。

「やめてくれ…って…ああああ!!」

 フロントに設置してある電話や、メモ、各客室のカギを、僕は腕で払い除ける。けたたましい音が静寂な、いや、影の嗤い声と共に響いた。

「やめてくれっ!ああああああああああああああああアアアアアアアアアアアア!!!」

 ついにフロントに倒れ込んだ。そして吐き気もした。

 目の前に、僕が倒した電話が転がっていた。

 救急車を…

 僕は電話の受話器を取り、ボタンを押した。


 プルル…プルル…プルル…

『は、はい…』

 あれ…支配人…?

 救急車を呼ぼうとしたんだけど、間違って内線を押してしまったのか?だけどこの際構わない。

 僕は支配人に助けを求める事にした。

「支配人、お客様がお見えになっておりますが」

 え!?

 ぼ、僕は今なんて言った?救急車を呼んでくれと言った筈じゃ…

『こんな遅くに?誰だ?』

 支配人の返事を聞くと、救急車を頼んだようには到底思えない…

 僕は再び、助けを求めた。

 今度こそ救急車を頼んで貰うよう…

「今から支配人室に向かうそうです」

 僕は気が狂ってしまったんだろうか!?思っている事と口に出す言葉が、全然違うなんて!?

 頭が激しく痛み、耳鳴りで他の音が聞こえなくなり、吐き気が益々強まって来た。

『だから誰がお見えになったんだ!』

 支配人が怒ってしまったのか、声を荒げた。

 違う、違うんです支配人、僕は頭が痛くて救急車を呼んで貰おうと…

 涙を流しながら、支配人に訴えた。

「毎日お見えになっている、お得意様ですよ。毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日……!!はははははははははは!!ゲェッ!!は、はははははははははは!!!!」

 僕は愉快になり、笑った。

 途中、何回か吐きそうになった。

『うわああっ!?』

 ガチャン

 何切ってんだよ支配人!!

 お客様がアンタに用事があるって、お見えになってるって言ったじゃないか!!

 僕は再び支配人の内線に電話をかけた。

 プルル…プルル…プルル…

 ブツン

 何だよ…電話線引き千切ったのかよ…

 まあいいや、と、僕はお客様に丁重にお話をした。

「支配人は二階でございます~!!」

 お客様は僕を見て笑いながら、フロント内にある従業員用エレベーターに乗り込んだ。

「おきをつけて、いってらっしゃいませ─────!!ははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」


 僕は


 そのまま暗闇に身を預け、眠った。


 頭痛も耳鳴りも吐き気も身を預けると、かなり楽になるのが解ったからだ………


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 こんな閑古鳥が鳴いているホテルでも、明日の仕込みは当然行う。

 私は見習いの小松と一緒に、明日の仕込みをしていた。

 お客様が乏しい当ホテルでは、私と小松の二人で仕込みの仕事は充分に足りている。

「長谷川さん。何かおかしいっスよ…」

「ん?何がだい?」

 小松はさっきから、鍋を丹念に洗っていた。

「この鍋、何煮たんスか?汚れが全く取れないっスよ…」

 ぼやきながらも一所懸命に鍋を洗っている。

「何だ?まだやっていたのか?かれこれ一時間は洗っているだろ」

 私は小松の肩越しに鍋を見た。

 確かに汚れている。

 しかし、汚れが酷いと言うよりは、鍋で何かを摺り潰しているような?

「水で流したのかい?」

「何言っているんスか?さっきから水出しっぱなしで洗っているでしょう!」

 小松が苛立ったように言ってくる。

 私は蛇口を見た。

 水など出ていなかった。

「何を言っているんだい?水なんか出てないだろう?」

 振り返った小松は私を見る。

 小松の顔が、いつもより青白く、生気が無いように感じた。

 人手不足だと言って、見習いの小松に目に隈が出来るまで酷使していたのかと、やるせない気分になった。

 死人に近い、その顔で私を睨む小松は窪んだ目の縁から、ギョロっとした目を私に向ける。

「沢山出ているでしょうが!シンクから溢れ出てますよ!床も水浸しですよ!」

「小松、お前疲れてんだよ。後は私に任せて…」

 私は小松から鍋を取り上げた。

 何を摺り潰していたんだと鍋の中を見る。

 生臭い匂いが鼻についた。

 摺り潰したと言うよりは、タワシで散々擦って潰したような…

「うわあああ!お前何を擦ったんだ!?」

 驚き、鍋を落とした。

 鍋からベチャベチャっと摺り潰した物が床に散乱した。

 それは、肉だった。

 ただの肉じゃない。さっきまで生きていた肉だ。

 数匹の鼠がタワシでグチャグチャになり、頭と尻尾だけ原形を留めていたのだった。

「摺り潰した?鍋の汚れっスよ!言いがかりはやめて下さいよ!!」

 小松がボウルなどを置いているテーブルを蹴った。

 けたたましい音と共に床にボウルや布巾が散乱した。

「な、何をするんだ小松!!」

 私は小松の襟首を掴んだ。


 ビシャッ


 ハッとし、手を離した。


「こ、小松…お前なんでそんなにびしょ濡れなんだ…」

 小松の全身が海に飛び込んだようにぐっしょりと濡れていた。

「濡れもするよぉぉぉ……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!だって海から来たばっかりだからさぁ!!あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」

 小松がいきなり笑い出す。

 顔の筋肉が笑いシワを作るも、私を見ている目だけは全く笑っていなく、充血し、真っ赤になっていた。

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!はあわぁぁぁぁあああ!!」

 小松はそのまま厨房から走り、去って行く。

「た、大変だ!警…いや、その前に支配人に…」

 私は内線を支配人室に繋いだ。

『はい』

 良かった。まだお休みになられてなかった。

 私は小松の事出来事を支配人にお伺いを立てる。

「あ、支配人…明日のお得意様用の料理なんですが…」

 何?私は今何て言った?

『お得意様?そんな予約なんか入っていない筈だが』

 そ、そうだ。支配人に小松が狂ったように、笑って厨房から出て行った事を伝えなければ…

「何を言っているんです?毎日お越しになられているでしょう?」

 馬鹿な!誰が来ると言うんだ!?

 私の口から、私の意思に関係無い言葉が出て来る!!

 あまりの怖さに、私は辺りを見渡し、気が付く。

 電灯が…明かりが全く点いていないように、真っ黒になっていた。

 その真っ黒な厨房で、先程小松が鍋を洗っていたシンクの辺りに、影が此方を見ているじゃないか!!

『何をおかしな事…』

 居る!!何か居る!!居て私を笑いながら見ている!!

 私は支配人にその事を伝えるべく、早口になった。

「いるでしょ?毎日毎日来ているでしょう?気がついていないんですかぁぁぁあああああ!毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日ここに見に来ているだろうが!ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!!!」

『うわ!』


 ガチャッ


「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!」

 何が可笑しいのか解らないが、私と影が互いに顔を合わせながら笑った。

 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!愉快だ!!実に愉快だ!!

 見ろ!あの影も愉快そうに歯を剥き出しで笑っている!!

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 狂え!狂うんだ!狂えば楽になる!!

 小松も楽になったのか?そういや、愉快に笑っていたな。

 まあいいや。と私は笑った。頬を伝う涙の意味も理解できずに、ただ笑った。

 やがて私の目の前の影が居なくなっても、私は床に膝を付き、笑うのをやめようとはしなかった…


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「何か今寒いなぁ…エアコン切るか」

「そうだな。エアコンの問題じゃないかもだが」

 ツーリングでこの界隈に来た俺達は、普段はテントを張って野宿が基本だが、ビジネスホテル並みに安いリゾートホテルの噂を聞きつけ、このホテルにやって来たのだが…

「エアコン止めたけどさ、やっぱどこからか風漏れているな。寒いもん」

 大袈裟に身体を震わせると、仲間の正木が真顔で返す。

「本気で風のせいだと思っているのか?」

 正木の指摘も解る。解るが、こんな安いリゾートホテルなんて、おそらくこの先に無いだろう。

 このチャンス逃すと、リゾートホテルなんか泊まる事は出来ない。

「寝てりゃ問題ないよ」

 晩飯も確かにうまかったし、温泉もある。プールもある。客も殆ど居ないから、静か。

「ある程度は覚悟していただろ?」

 俺も正木も、霊感は無い筈だ。ただ多少感じる程度。

 実際に自殺の名所みたいな所にテントを張っても、特に問題はなかった。

「どうせ明日には出て行くんだからさ」

「だけどよ…」

 正木が身体をさすりながら、感じた事の無い異変を語る。

「ここおかしいぞ?そりゃ、こんな時期に客が殆ど居ないってのでそれなりに覚悟はあったけどさ」

 正木が言うには、昼にチェックインした時から、このホテルは暗かったそうだ。

 近くを散策し、日が暮れたのでホテルに戻って、風呂に入ろうとして気が付いた。

 地下の大浴場が封印されているのだ。

 他に露天風呂と繋がっている一階の大浴場(と、言っても地下のよりは広くは無いが)に入ろうとしたが、何か気持ち悪くて、部屋に備え付けてある風呂に入ったんだが…

「風呂のお湯が微妙にしょっぱいような感じがしたしさぁ」

 確かに陰気なホテルだとは思ったが、風呂の湯がしょっぱいのは気が付かなかった。

「塩気がある湯だって意味か?」

 俺の問いに、首を横に振る正木。

「いや、俺と一緒に誰かが湯船に入っているような…海から上がって来たばっかりの誰かが…」

 正木が言うには、風呂の湯がしょっぱいんじゃなく、海から上がって来た誰かが湯船に浸かっているから、湯がしょっぱいんじゃないか、と。

 俺は軽く頭を振って否定した。

「取り敢えず無理やりにでも寝ようぜ。もう12時過ぎちゃっているよ」

 あまり気持ちいいもんじゃ無いホテルだが、明日朝一番でチェックアウトすれば問題は無いだろう。今夜耐えればいいだけだ。

「寝る…か…寝れるのかお前?」

 正木が充血させた目を俺に向けた。

「正木!お前その目…」

 驚き、一歩退く。


 ドン


 狭い部屋だから、直ぐに壁に背中が当たる。

「目?ああ、当たり前だろ!!今まで海の底に居たんだからな!!」

 真っ赤に血走った目を俺に向けながら、待殺気はケラケラ笑った。

「な、何言っているんだよ…海なんか行ってないだろ…」

 俺達はツーリングで各地をバイクで走っている。だが、確かに海沿いは走ったが、海になんか入った事はない。それも海の底だなんて笑い話しにもならない。

「しっかりしろよ正木…」

 正木に掴み掛かり、ビンタの一つでも食らわせたかったが、俺はビビって足が竦み、何も出来なかった。

「しっかりしているさぁ!!さっきまでは鬼の野郎がウロウロしていたが、今はクビになって居なくなりやがった!!ざまぁねぇな!ギャハハハハハハ!!」

 愉快に笑う正木。ベッドをバンバン叩いて、本当に愉快そうだ。

「鬼ってなんだよ…クビって…」

 俺は逃げ出したかったが、入り口のドアは正木の後ろだ。

 あの正木をぶっ倒して入り口に向かうなんて、俺には出来そうも無い。

 チャンスを待つように、正木の話を聞いている振りをしている。

「あ~…あの鬼は戴けないなぁ…神をも喰おうって輩だ。まぁ、此方も負ける事なんか無いだろうが、やり合わない方が利口だしな~…ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


 パリン!パリン!パリン!


 正木が高笑いすると同時に、部屋の窓ガラスが割れた。

「うわああああ!あぶね!!」


 俺は頭を抱えて伏せる。

「ここは五階かぁ…窓に近づくなよ~…落ちたら死ぬぞぉ~…ギャハハハハハハハハハ!!」

 正木は狂ったように笑う。

 いや、狂ったようにでは無く、狂った。

「正木!正木っ!マジしっかりしろよっ!」

 俺はかなりビビったが、意を決し、正木に掴み掛かった。

 正木はギロリと血走った目を俺に向けた。

 俺の体温が急に下がったような感じ…いや、部屋全体の温度がガクンと下がったような冷たさを正木から感じる。

 この冷たさは…

「海の底…か?」

「ほおお~…良く解ったな…この温度は俺が居る場所の温度さ。冬なんかもっと酷いぜぇ…俺はこんな薄ら寒い場所からお前等を護って来たんだ。それを…!!」

 身体がガクガクと震え、正木を掴んだ手に力が入らなくなった。

 充血した目が紅く光る。

「うわああああああああ!!?」

 壁に掛かっている額縁やら時計やらが床に『飛び』落ちる。

 その裏には御札が貼ってあった。

「莫迦だよなぁ…効く訳ないのになぁ…神に…我に悪霊封じの札なんて通用せん!!ギャハハハハハハハハハハハハ!!!」

 笑う正木を呆然と見ていると、正木と被っていた、何か透明なモノが見えて来た。

「俺達は関係ないんだ…勘弁してくれ…」

 俺は正木に被っている透明なモノに土下座をした。

「解っているよぉ…だから…ただ…消え失せロ!!」


 バン!!


 言葉が終わると同時に、入り口の扉が勢い良く開いた。

「う…うわああああああああ!!」

 俺は絶叫し、頭を掻き毟る。

 入り口から出て来たのが、身体中フナムシが這っている死体とか、所々腐り果て、蛆が湧き出ている死体とか、目玉が今にも落ちそうなブヨブヨしている死体とかだった。

「うわ!!うわ!!うわああああ!!」

 俺はそいつ等に掴まれ、首を絞められたり、耳を引っ張られたり…いいように弄られた。

「ぎゃあああああああ!!」

 小便を漏らしながら、そいつ等を振り払って入り口から脱出した。

「ああああああああああああ!?マジかあ!?」

 ホテル中、そんな死体や幽霊が徘徊していた。

 俺はとにかくホテルから出ようと走った。


 気が付いたら、俺はホテルから出て、バイクに乗り、この界隈から逃げるよう、走っている最中だった。

 正木には申し訳ないが、あそこには戻りたくない。戻れない。

 正木は大丈夫なんだろうかと恐怖感と罪悪感が俺を支配たが、抗う事は決してしなかった…

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