第14話 妾
龍之介に言われたとおり、障子紙を買った龍之介は、その足で実家に帰った。
「その…」
新吉は渋々、大黒屋でのやりとりを話す。
字の汚い哲治郎に頼まれて龍之介が信五郎充てに書いたという、手紙も添えた。信五郎が文机の上から眼鏡を取り、その手紙を開いて斜めに読むと、大きく頷く。
「ああ……大黒屋の若旦那に引き取ってもらえるんじゃあ、それ以上の旦那様なんか見つからないねえ。花魁を妾にしたって、誰も文句は言えないくらいの大店の若旦那だ」
信五郎から手紙を預かった女将のおりくが、一も二もなく賛成した。
「二百の予定が五十になっちまったが、いや、それでもありがたいことです」
信五郎が、額にその五十両をくっつけて、大黒屋の方角を向いて、頭を下げる。
「善吉、新吉がはる菜を大黒屋に運ぶからね。お前、その行李を運んでやりな」
いつにない両親の冷たい仕打ちに、新吉も善吉も眉をひそめた。だが、仕方がない。桃源楼にとって初めての大きなトラブルを起こして、自殺未遂までした張本人だ。両親も、もう厄介払いがしたいのに違いない。
新吉がまだ目覚めないはる菜を、善吉が朝方新吉が持ってきた、はる菜のお身請けの衣装が入った行李を担ぎ上げた。
何度も吉原と日本橋を往復するうちに、夕餉の時刻はすっかり過ぎた。
哲治郎は、丁度息子の直太朗を風呂に入れて出てきた直後だったが、イヤな顔一つせず、浴衣の上に半纏姿でふたりの前に現れた。
まだ目が覚めないはる菜を気遣って、女中が次の間に布団を敷いて、寝かせてくれた。
「あれがはる菜かい。なにも今日、この家に届てくれなくて良かったのに。目覚めて自分で歩けるようになってからでも良かっただろう。妾を囲う家だって用意してやらなくちゃならないのに」
桃源楼から新吉、善吉の兄弟がはる菜を連れてきたと聞き、哲治郎が困ったように笑った。
親にとっとと連れて行けと言われたからなのだが、確かに哲治郎の言うとおり、妻の実家に妾を連れて来るなど、郭の息子として配慮が足りなかったと、二人そろって身を縮めた。
「父上とおりさが、えらくおかんむりだ」
哲治郎が、困ったように左の頬を新吉の方に向けた。
綺麗だと褒めてあげたくなるくらいに、ピンク色の小さな女性の手形がその日に焼けた頬にくっきりと浮き上がっている。隣に神妙な顔で控えていた龍之介がぶっと吹き出し、「もう辛抱ができん」と、ゲラゲラ笑った。そんな二人のやりとりを見て、新吉と善吉は、申し訳なくてさらにうなだれた。
「婿養子で、肩身が狭いんだがな」
自分の左肩に手を置いて、哲治郎は溜息をつく。
「よう言うわ。一番ようけ飯喰うくせに」
龍之介が鼻の頭に皺を寄せた。
「まあ、ご苦労さん」
哲治郎は善吉に、銀を1分、お駄賃として差し出す。
「お前達、疲れただろう。夕餉をとりなさい。弟さん、お医者様だってね。疲れたところで悪いんだが、今日は一晩、はる菜の面倒を見てくれないか。会うのは明日にしよう」
二人にそれだけ告げると、哲治郎は自宅にしている離れに帰ってしまった。残された新吉と善吉の兄弟が、ぽかんとした顔で、哲治郎の影を見つめる。
哲治郎が客間を出た後で、龍之介が一度どこかに行ってしまうと、お華と二人で新吉と善吉の夕餉を持って現れた。
「ごめんね。今日は帰ってこないと思ってたみたいで、新吉さんの分、龍ちゃんが殆ど食べちゃって。これしか残ってないの」
お華は新吉、善吉には優しく微笑みながら、龍之介を軽く睨む。
「新ちゃん、ごめん」
龍之介が小さく舌を出した。
だが、味噌汁もご飯も温かいし、焼き魚も焼きたてで、じゅわじゅわとはじける脂に、新吉と善吉は思わず喉を鳴らし、手を合わせた。
「あら? 善吉さん」
新吉の隣にいる善吉の顔を見つめて、お華が少しだけ驚いたように善吉に呼びかける。
「あれ? お華さま」
善吉も、お華の顔を見て驚く。
「なに? ふたり、知り合いなん?」
龍之介が、善吉とお華の顔を交互に見つめる。
「小石川の療養所で、お医者になる勉強をなさってる善吉さん。わたくしの主治医の佐久間先生のお弟子さんなの」
「お華様、お咳の方はいかがです」
「ありがとう、だいぶいいのよ」
龍之介とちらりと目を合わせ合って、お華が恥ずかしそうに善吉に向き直って微笑んだ。
「せっかくだから、あとで脈と喉を見せていただきます」
「はいはい。ありがとう。それより、善吉さん、新吉さんのお知り合い?」
「新吉は兄です」
新吉を見て、善吉が答える。
「え、だって。善吉さんのご実家って、吉原の遊郭なんでしょう? 新吉さんのご実家は、代々木村の大八車屋だって、伺ったわ」
お華が驚くので、新吉は飲んでいた味噌汁をぶっと吹き出した。
「はあ?」
善吉が、味噌汁を吹き出してむせかえる兄を、眉をひそめて睨み付ける。龍之介が呆れたように笑いながら、新吉に畳を拭く雑巾と、口でも拭けと手ぬぐいを差し出した。こんこんと大きく咳をしながら、新吉は雑巾で口を拭き、手ぬぐいで畳を拭く。
「ま、まあええやん、華。ほら、実家が遊郭って女の子には言いにくいやろ」
事情がなんとなく飲み込めた龍之介が、お華と善吉の会話を遮る。
「あら、じゃあ、わたくしが余計な事を聞いてしまったのね。ごめんなさいね、新吉さん」
納得したお華が新吉に謝り、「たくさん召し上がってね」との言葉を残してその場を立ち去る。
「……嘘ついたらすぐバレるっちゅう典型やな。好いた女に実家のことバレるのがいやっちゅう、お前の心も分かるけどな」
新吉が汚した畳を拭きながら、龍之介が呆れたように笑う。
「その実家の商売のおかげで今のお前があるっちゅうのに、その実家が恥ずかしいて言うのは、ヒトの道儀に外れてるんと違うんかなあ」
綺麗に拭き終わった畳から顔を上げ、龍之介はじっと新吉を見つめる。新吉はうなだれつつ、ちらりと龍之介を見たが、やがてしっかりと龍之介を見つめ返した。
「大黒屋のお坊ちゃまに、何が分かりますか」
「分かるよ。俺もお前と同じ。大坂遊郭で育った。しかも、おまえらみたいに若旦那やないよ? 遣手ババアのドラ息子や。親は息子より遊女の世話にかかり切り。飯も作らん。しゃーないから、ゴロツキ相手に飲む打つ買われる、盗みたかりにかっぱらい。何でもやったわ」
新吉と善吉。二人が、同時に驚く。
哲治郎や潮五郎にいくら言われても月代を剃らず、前髪はぼさぼさの伸び放題。上方言葉も直さないままだったが、龍之介の所作はまるで産まれながらに大黒屋で育ったと言っても良いほどに若旦那然としていて美しい。先ほどからしゃんと背筋を伸ばして座っている姿などを見ると、あぐらを掻いて座る自分たちが気恥ずかしくなるほどだ。そんな龍之介から、遊郭で育ったなど想像も出来ない。
「うちのおかんがなあ……気の強いお人でなあ。こんな大店の妾なんてええご身分をいただいておきながら、息子を産んだからには本妻にせえと食ってかかったらしいてな。先代……じいさんに、離縁状突きつけられて。しゃーないから、親子二人、上方にいったんや」
龍之介が、首の後ろをぽんぽんと叩く。
「十二の年におかんが亡くなって、十五の年に上方から江戸にきたが、十七でやっとここが俺の実家やと知った」
龍之介は、ぐるりと部屋を見渡す。
「大黒屋の跡取りの勉強をするために、一度上方に帰ったという触れ込みな。あれ、嘘や。上方での悪さがバレて、牢に繋がれに帰っとったん。お父ちゃん、よう二度も俺を引き受けてくれたもんや。そんなわけで、俺はお前や姉ちゃんのように、生まれながらのお嬢ちゃまお坊ちゃまやないんよ。罪を犯した俺を引き受けてくれたお父ちゃんの恥にならんよう、これでも精一杯頑張ってる。頑張ってるけどな。やっぱり、合わん。合わんよ、俺には。老舗のお坊ちゃまは」
自分自身に呆れたように微笑んで、龍之介はじっと新吉を見つめる。
「幸い、旦さんが婿に入ってくれとったから、俺は大黒屋は継がんですむ。お父ちゃんが俺に新しい店を建ててくれるて言うからな。口うるさいお父ちゃんも旦さんもおらんところでのんびり商売させてもらいまっさ」
おどけたような口調ながら、龍之介の眼光は鋭く、何かの決意に満ちあふれていた。
「新吉。俺は、お父ちゃんが与えてくれる『たつの屋』を、この江戸で一番の店にするつもりや。お前もな。今の店に不満があるなら、お前自身が、思うように作り替えてみたらどうや。俺は一人やけど、お前には善吉がおるやないか」
新吉と善吉が、顔を見合わせる。
「……若旦那だって……」
膝の上でギュッと拳を握りしめ、新吉は龍之介を睨み付けた。
「一人じゃあ、ねえよ」
善吉にはその言葉の意味が分からなかったが、龍之介には伝わったらしい。少し気恥ずかしそうにその真っ白なそばかすだらけの頬をぽっと赤く染め、ぽりぽりと鼻の頭を掻いて俯いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます