第15話 夜
「新さん?」
夜、はる菜の小さな声がして、もう布団の中に入って寝入りかけていた新吉は、そっとはる菜の方に顔を向けた。
はる菜は暗い闇夜の見慣れない天井に、少し不安になっていたようだ。見慣れた顔を見つけて、嬉しそうに微笑んだ。
「お前、ばーか」
新吉の言葉に、はる菜は一瞬、目を見開く。
「客に真剣になるから、こういうことになるんだ」
「兄ちゃん。もう、良いじゃないか」
二人の声に起きてしまったらしい善吉が、布団から身を起こして、兄を窘める。
「ごめん」
はる菜が短く謝って、布団をかぶる。
「……だけど今度は一人の男に真剣になって良いから」
新吉の言葉に、はる菜が布団から目だけを出して、新吉を見つめる。
「お前が身請けされる先なあ。また変わったんだ」
「え?」
はる菜の顔が曇った。
「そういえば、ここ、どこ?」
「大黒屋だ。俺の勤め先。うちの若旦那が丁度、妾をお捜しだったようだ。手を切ったお前は遊郭では使い物にならぬだろうと、身請けをしてくださった。……ああ、旦那様の人柄は、俺も、親父様も保証する。それに街一番の大店の旦那様だ。これ以上の引き取り手はねえよ」
新吉は、年齢は若くとも遊郭の経営者。
遊女相手にそういう話をするのはもう慣れている。淡々とした口調でそれだけ伝えると、新吉はいつもの手代部屋から持ってきた、自分の薄い布団に潜り込んだ。
「善吉、あとは頼む」
弟にそう告げるなり、新吉はどんなにはる菜に身体を揺すられても、もう目を覚ますことはなかった。
翌朝、新吉は早めに目が覚めた。
庭先から、物音と人の声がする。若旦那の朝駆けの時間かと、新吉はそっと部屋の障子を開けて庭先を見つめた。
「りさ、じゃあ、行ってくる」
哲治郎はいつものように若女将のおりさに優しげに声をかけるが、りさの方はうつむいたまま、返事をしない。
「まだ怒ってるのか」
呆れたように哲治郎はりさをたしなめるが、りさの怒りは当たり前だと、新吉は思う。
まだ結婚して四年ほどしかたたない上に、娘の「りか」が産まれて御百日も迎えていない。そんな時に妾を求めるとは、あの若旦那、堅物に見えて好き者だったかと、新吉は哲治郎に幻滅した。
それでも哲治郎はいつものようにりさに優しく口づけをしてから、朝駆けに出かける。
そんな夫を見送ってから、りさは「べえ」と赤い舌を出して、こちらに向かってくる。新吉は、慌てて障子を閉めた。
はる菜と
「また龍ちゃんが、新吉さんのおかず食べちゃった」
華が呆れたように溜息をつく。
「だって俺、育ち盛りやもん」
「龍ちゃんより、新吉さんや善吉さんの方が育ち盛りです!」
お華がたしなめると、龍之介がしょぼんと俯く。
「あとでお大福持ってくるから、許してあげてね」
まるで夫の失敗をフォローする若妻のように、お華が優しく新吉に向かって微笑む。そして、新吉の横でおかゆの椀を持つはる菜に身体を向けた。
「お元気になられて、良かったわ」
お華がはる菜に笑いかける。
「大黒屋は朝はおかゆとめざしと漬け物と決まってるの。食べ盛りには足りないかもしれませんが、おかわりはご遠慮なく」
善吉の方を見て、お華はにこりと笑いかける。
「これで充分ですよ」
「そう。では、後ほどお膳を下げに参りますわね」
お華はまだ食べ足りないのか、新吉のお椀を覗く龍之介のお尻をギュッとつねると、外に出るように促し、自分も部屋を出た。
「あれが、新さんの好きな人」
はる菜が粥をすすりながら訊ねた。
「まあ。うん」
「高望み」
言われて、新吉は頬を膨らませて、はる菜を睨む。
「お武家のお姫様なんて初めて見たけど……。新さん、趣味いいじゃない。惜しむらくは、痩せすぎってところかしら。もう少し太れば、きよ菊姐さんにも負けない美人におなりよ。今は色気の使い方もご存じなさそうだけど、年増大年増の年頃には、腰回りにも肉が付いて、良い色気が出るでしょうよ。街の若い男が放っておけないんじゃない? あの若旦那だから、みんなが遠慮してあのお姫様に近づかないけど……新さんじゃあねえ」
はる菜が、遊女らしい意見を述べる。
「どっちが幸せかしらね。
からになった腕の上に箸を置いて、はる菜は自虐的に微笑んだ。
「徳田様は、奥方もいらっしゃらないって、おっしゃってた。あたしを身請けして、奥方にしたいって。……あたし、誰かの奥方様になりたかったのかなあ」
自分の手首の包帯を見つめながら、はる菜は呟く。
「郭からでたかったのかい?」
善吉の問いに、はる菜が首をかしげた。
「桃源楼は、好き。親父様もお袋様もお優しくて。新さんも、善ちゃんも、大ちゃんも弟みたいで。姐さん達も、みんなあたしを大事にしてくれる。家族みたいよ? 大好き。だけど……。あのお姫様みたいに、たった一人を好きになって、たった一人に愛されてみたかった」
「遊女だっつっても、まだ19になったばかりだもんなあ」
善吉が、溜息をついた。
「うちの年季は25で明ける。そこから、街にでて、三十路のやもめを捕まえることだって出来ただろう。年季の明けたうちの遊女はみんなそうしてる。17、8で色恋のひとつやふたつ破れたって、気にすることなかったのに」
新吉の呟きに、はる菜はうつむいた。
「だけど今日からは、若旦那お一人を愛せば良い。若女将がいるけど、お前の事だってきっと可愛がってくださるさ」
新吉の言葉に、はる菜が頷く。そして、ぼろぼろ、大きな涙を流した。
「旦那様、見たことないけど良い男?」
大きな涙を流しながら、はる菜が冗談めかして訊ねる。
「徳田様よりは、かなり」
善吉が、まじめな顔で頷く。
「そりゃ、良かった。あたし、美形にしか興味ないんだ」
はる菜と善吉が、顔を合わせて笑った。
「食事は済んだかい」
丁度、がらりと障子が開いて、哲治郎が部屋に入ってきた。手に持った椀を置いて、新吉と善吉が頭を下げる。はる菜が、目をぱちくりさせたまま、頭を下げる二人を見つめた。
「……お前がはる菜かい」
軽くはる菜を見つめて、哲治郎がはる菜の前に座り、手首をとってその包帯をじっと眺めた。
「若い命、無駄にするのはいただけねえな」
眉をしかめて、はる菜の顔を見つめる。そんな哲治郎の顔を、はる菜の方もじっと見つめた。これは確かに善吉の言うとおり、徳田様よりはるかに良い男だ。頬はこけて肌の色も良くないが、眉はきりりとつり上がり、鼻筋は通り、くっきりとした二重の中の瞳が美しい。
――……この人が今日からあちきの旦那様……
はる菜は顔に熱を持ったのが自分で分かり、思わず哲治郎から顔を背けた。
「おまえのとこの親父様とは昔から昵懇でなあ。丁度妾を探してるって話しをしてたところだったんだよ。お前が使い物にならなくなったと新吉から聞いて、引き受けたってえわけなんだが」
哲治郎がひとつ、咳払いをした。
「せっかく来てもらったのに悪いんだがよう。俺にはりさっつう恋女房がいてな。だがこれがどうしようもねえわがままでなあ。いや、もうそこが可愛くてしょうがねえんだが……。息子はやんちゃの盛りだし、娘は生まれたて。俺は家族の世話で手一杯で、どうやら妾の面倒なんざ、見てる暇はなさそうなんだ。だが、せっかく来てもらったものを吉原に返す訳にもいかねえし。困ったなあ」
誰に聞かせるつもりがあるのか、わざと大きな声を張り上げ、哲治郎はなんだか芝居がかった奇妙な口調でそこまで言って、心底困った顔をし、首をかしげた。そして、左手で口元を覆い、何度も唇を撫でる。しばらくそうしていた哲治郎だが、ふと何かを思いつき、ついっと顔を上げると、新吉の顔を見つめた。
「おお、そうだ、新吉。お前、この子もらってくれねえか」
ふいに話を振られて、新吉はぽかんとした顔で哲治郎を見上げた。
「もらうって……」
「嫁ってことじゃないの?」
新吉の耳元で、善吉がポソリと呟いた。
「俺が……はる菜を?」
考えたこともなかった。だが、何故か、顔が耳まで熱くなる。
「俺の妾を嫁にもらうのは迷惑かい?」
新吉も善吉も、大きく首を横に振る。
「まあ、その子の気持ちも確かめてからな」
それだけ告げると、哲治郎は腰を浮かせて、自宅にしている離れに帰ってしまった。残された新吉と善吉の兄弟、それにはる菜が、ぽかんとした顔で、哲治郎の後ろ姿を見つめる。
「ちょ、ちょっと、若旦那!!」
新吉は慌てて、部屋を出て哲治郎を追いかける。だが、哲治郎が行った先を見つめて、立ち止まった。
離れに向かう渡り廊下の真ん中に、りさがいる。
哀しげに俯くりさを、哲治郎は愛おしげに抱きしめた。優しくお互いを抱きしめ合う若夫婦。なにか囁きあっているようだが、お互いが掛け合う言葉は、新吉には聞こえない。ただ、頬を伝うりさの涙に、新吉はなんだか胸を締め付けられる思いがして、どすどすと音を立てて、離れの方に向かった。
「若旦那!!」
顔を真っ赤にして、哲治郎に向かってそう叫ぶ。
「なんだ」
りさを抱きしめたままの哲治郎が、新吉の方に顔を向ける。
「す、す、好きな女、泣かしてんじゃねえよ!!」
哲治郎とりさはお互い抱きしめ合ったまま、ぽかんと新吉を見つめていたが、やがて二人で顔を見つめ合い、ぶっと吹き出した。
「うん、そうだな。ごめんな、りさ」
りさは首を振り、そっと哲治郎の胸に頬を寄せる。新吉は顔を真っ赤にしたまま、大黒屋を飛び出した。
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