第13話 夫婦げんか
「馬鹿野郎! 今、辞められたら迷惑だ」
朝、
「ま、まあ、旦さん。新吉の実家の事情も……」
二人の間に入って、龍之介が哲治郎をなだめる。熱いお茶と、醤油のたれのついた団子を差し出されると、哲治郎も少し溜息をついてずずっとそのお茶をすすった。
「辞めるなら、皐月の展示会が終わってからにしてくれないか。その頃までには代わりの人手を確保しておくから」
少し落ち着いた哲治郎がそう告げると、それは流石にその通りだと、新吉も納得して頭を下げた。哲治郎は立ち上がると、どこかに消えた。龍之介と新吉が首をかしげていると、数分もせずに戻ってきて、新吉の前に、紙で包んだなにかを差し出す。
「その金で、その遊女、俺が身請けする」
「は?」
龍之介と新吉がふたり声を揃えて驚き、そして顔を見合わせる。
「俺のへそくり。それで有り金全部だ。二百ってなぁ流石に包めねえが、一般的な部屋持ちの身請け額だろう」
哲治郎に差し出された包みをあけると、そこには十両ずつ小さな紙でまとめられた小判の束が、五つ入っていた。新吉が驚いて哲治郎の顔を見上げる。
「額は少々小さくなったが、かまわねえだろう。どうせその手首の傷じゃあ、客の床にはいれられねえ。丁度良いから、俺が身請けすると親父様に伝えてくれ。どうせ俺も、りさ以外の女もそろそろと思ってたんだ」
「は?」
哲治郎の意外な言葉に、新吉は更に目を見開いた。
りさを妻にするためにわざわざ家督を継いでいたお武家を辞めて、大黒屋の婿にまでなってしまった哲治郎の愛妻家ぶりは、両隣街の丁稚達の間にまで響き渡るほど。しかも大黒屋の跡取り娘のおりさと言えば、「大江戸なんでも番付」「美人町娘編」で何度もトップを飾り、結婚して「若女将編」に移行してからもずっとトップを独占し続けている、評判の美人である。
「旦さん、なにいうとんねん。そんなん姉ちゃんにバレたら半殺しやで」
だが、哲治郎はそれには答えず、しかし、新吉の親に手紙を書くように龍之介に言いつけ、龍之介の耳元だけで何か囁くと、すっと立ち上がって自宅にしている離れに帰って行ってしまった。
「……あーあ。あれは今晩、離れが荒れるでえ……」
障子の向こうの、哲治郎の肩幅の広い影を見ながら、龍之介が小声で呟く。
「華とじいやさん、母屋にうつしとかなあかんな」
龍之介のお華の呼び方が……いつの間にやら「お華ちゃん」から「華」に変わったことを、新吉は聞き逃さない。新吉が眉をしかめて龍之介を見たが、龍之介はそれを、別の意味に捕らえた。
「あ、そうや。元日は悪かったな。よけもんにしてしもて」
元日のことを新吉がまだ気にしていると思って、龍之介が新吉に謝る。だがもう新吉はそんな事などすっかり忘れていたので、一瞬何を謝られたのか分からなかったが、とりあえず首を振った。
「華が気にしとったから。まあ、暇なときに姉ちゃん連れてぜんざいでも食べに行こうや」
龍之介がにこりと笑って、立ち上がった。
「俺は今から、離れの行燈と、皿や湯飲みを撤去してくる。お前、今からその金持って実家に帰るんなら、帰りに障子紙買うてきてくれるか」
龍之介が言っている事が分からずに、新吉は首をかしげた。
「婿が妾なんか持つ言うてみい。親父に姉ちゃんに……旦さん、今日は二人からボッコボコや。湯飲みや皿は武器になるし、行燈が倒れて畳に火でも付いたらまずいやろ。障子が破れるくらいはしゃーない。俺が直す。そやから障子紙が要るやろう」
夫婦喧嘩の果ての心配かと、新吉は大きく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます