第10話 夫婦
だが、三日経っても徳田様からは何の連絡もなかった。
もちろん新吉も信五郎も他の遊女達には黙ってはいたのだが、どこから話しが洩れたのか、徳田様へのお身請けの話はきよ菊花魁の知るところとなった。
花魁が客でない男を取っていることを、信五郎は知らない。だから花魁の方も、表だってはる菜を責めることが出来ない。新吉はそのことにほっと胸をなで下ろしたが、その新吉の方も、今日で大黒屋へ帰らなくてはならない。
弟の善吉もはる菜の事は気にしていたが、後ろ髪を引かれた顔をしつつ、気になる患者がいるからと、二日前に小石川に帰っていった。
「また仕事に来るんでしょう? そのときちょいちょい気にしてくれたら良いから」
はる菜は気丈に笑う。
結局、その日一日待ったが、徳田様の顔を見ないまま、新吉は大黒屋に帰った。
女のおしろいや、香、酒、タバコの匂いがたっぷり染みついたまま大黒屋に帰った新吉を、お華が驚いた顔で出迎える。龍之介と哲治郎が、そんなお華を窘め、新吉には銭湯に行くことを勧めた。
郭の
大黒屋に帰り、同僚の手代達と一杯酌み交わしたあとで、新吉は布団に潜る。
実家のような白いふわふわの羽毛布団ではなく、薄い毛布とつぎはぎだらけの薄い掛け布団。
実家では毎晩、まだ幼い禿達が新吉や善吉の布団の暖かさを求めて密集していて、寝る頃には布団の中は暑いくらいだが、大黒屋の布団はひんやりと冷たい。新吉は、ひとつ、大きなくしゃみをした。
朝になって始業の日。庭当番に当たっていた新吉は、部屋の誰よりも早く起きて、庭に立てかけた箒を手に取る。
「じゃあ、行ってくる」
そんな声が聞こえ、白い木綿の着物に身を包んだ哲治郎が、妻のりさに口づけするのが見えた。
「はい。行ってらっしゃい」
りさが微笑むと、哲治郎が勝手口から出て行く。
人前でも気にすることなく平気で口を寄せ合う若夫婦に、最初の頃は驚いたものだが、奉公に出て一年近く経った今では、いつもの見慣れた朝の光景。
元はお侍である哲治郎は、商家である大黒屋に婿養子に入ってからも、朝駆けと木刀振りの習慣は辞めていない。婿養子にきて四年目、哲治郎自身ももう三十路だが、その習慣はまだ続いているようだ。
哲治郎が出て行ったのを見届けると、りさが少し溜息をつく。夫を想ってついた溜息は、いつぞやの徳田様を思ってはる菜がついた溜息にそっくりで……。思わずりさを見つめた新吉は、そのりさと目が合って、さっとその顔を横に向けた。りさは不思議そうに首をかしげたが、そのまま母屋の方に歩いて行った。
……足音がしない。
りさのしゃんと背筋を伸ばした可愛らしい薄藤色の着物の後ろ姿を見つめながら、新吉は思う。新吉は、溜息をつく。
小さな頃から郭を出たことがない遊女が、身請けをされてどこぞのお武家の妾になるには、まずは歩き方と話し方からかえていかないといけない。
「次、帰ったら、はる菜にその辺教えてやんねえとなあ」
誰に言うともなくそう呟いて、新吉はまた一つ、おおきなくしゃみをした。
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