第9話 徳田様

 だが、新吉の心配したとおり、その「徳田様」は、花魁のお客でもあった。

 徳田様が帰った後で花魁を問い詰めると、顔を赤らめながらそう白状した。


「よりにもよって、おなじ郭の遊女に二股かけてんじゃねえよぉ」

 新吉と善吉は頭を抱えた。

 郭の不文律として、上位の遊女が一度でも床を交わしたお客は、よほどのことがない限り下位の遊女がお世話することは出来ない。もしもお客の二股がバレた場合、折檻を受けるのは、下位の遊女の方である。

 よその郭ではちょくちょくある事らしいが、入念に客を選ぶ桃源楼では珍しいトラブル。少なくとも、新吉や善吉が実家の仕事のいろはを分かり始めてから、一度もそのようなトラブルに見舞われたことはない。

「親父もそんな浮ついた客、取ってんじゃねえよ」

 新吉はグチをいうが、今まさに、その親父様にバレてはいけない。頭を抱えたまま、自分の部屋の畳にごろごろと寝っ転がった。

「兄ちゃん。徳田様がいらしたけど?」

 廊下からの善吉の呼びかけに、新吉ははじかれたように起き上がり、狭い階段をみしみし音をさせながら急いで駆け下りて、件の徳田様の前に両手をついた。

 身の丈は、大きい。

 大黒屋の若旦那である哲治郎は身の丈六尺もある大男だが、この男も同じくらい。なるほど、侍らしく凜とした眉の太い、鼻筋もよく通った整った顔立ちで、腰の大小もそれなりに値の張る物を下げているようだ。

 だが……どこかそわそわと、落ち着きがない。このように大きなお侍様なのだから、もっと堂々としていれば良いのに。

「いらっしゃいませ。ご指名を」

 それでも、「桃源楼」の青い法被を羽織った新吉は、その男に頭を下げる。

「……はる菜」

 その名前を聞いて、こめかみの辺りがぴくぴく引きつるのをこらえながら、新吉は部屋持ちのはる菜の部屋に徳田様を案内する。



「はる菜!」

 徳田様が両手を広げると、はる菜が愛おしそうに徳田様の胸に顔を埋めた。

「はい、ちょっと待った」

 その瞬間、新吉がふたりを止めて、ふすまを閉めた。二人を布団の上に座らせ、自分はふすまの前にきっちりと正座する。

「徳田様。ウチの花魁にも手ぇ出して下さってるそうで」

 新吉が徳田様の顔を睨みあげるように囁くと、はる菜が少し驚いた顔で徳田様を見上げた。

「何度逢瀬を重ねたかは後ほど花魁から伺いますが。花魁のご指名料、後日お支払いいただけますかね」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。何のことだ。それがしは花魁など……はる菜、お前なら信じてくれるよな。某はお前以外に考えられぬ」

 芝居がかったような、真剣なような。徳田様の血走った目からは、その本気度を窺い知ることが出来ない。この場を頑張って取り繕うようにも見えるし、ただ本当に熱血の、世間知らずのお坊ちゃまにも見える。

 ……新吉は、一芝居打つことを考えた。

「なら、はる菜をお買いになればよろしい」

 姿勢を正し、しっかりと徳田様を見つめる。

「買う?」

 新吉の言葉に、徳田様が首をかしげた。

「買うと言えば聞こえは悪いが、遊郭にはお身請けという制度がございます。はる菜はこの後、散茶、いや、いずれは格子に上がらせても良いくらいの人気の遊女ですから、お支度金はそれなりに頂戴せねばなりません。ですが、はる菜の実家の親さえ許せば、徳田様にお身請けいただくことは出来ます」

 あまりに遊女から離れない客に、父、信五郎はいつもそのように説明している。ここで客は飛びつくのだが、「では百両」などとふっかけると、諦めて帰ってしまうのだ。そのような客は二度と来ないが、それで良いと、信五郎は笑う。その言葉を思い出しながら、新吉はなるべく感情を込めずに徳田様の顔を見つめる。

「高いとは、いかほど……」

「へえ、二百両」

 値段を付けてから、しまったふっかけすぎたと、一瞬だけ反省した。さすがに徳田様も二百両は納得しないようで、眉をひそめる。

「二百両は流石に……三日は待ってもらわないと、用意が出来ない」

 徳田様の意外な言葉に、新吉もはる菜も驚いた。

「え、いや、え??」

 二百両なんて法外な値段。高すぎると殴られることを覚悟していたのに、三日待てという。嘘ではないと言う証拠にあり合わせだがと、徳田様は十両を新吉に手渡す。

「か、かしこまりました。こちらも忘八と、はる菜の実家に確認して参ります」

 新吉はなるべく冷静にその十両を受け取り、「ごゆっくり」と、部屋を出た。


「兄ちゃん」

 部屋を出ると、善吉が心配げにこちらを見ていた。

「善吉。あの徳田様、はる菜をお身請けなさるそうだ」

 ぼんやりとした口調でそう呟いて、新吉はそのまま、善吉の脇をすり抜ける。

「ええ!? ちょ、ちょっと兄ちゃん、どう言うこと」

 そのまま、新吉と善吉は父の部屋に向かう。


「そう言うわけなんで、二百両ではる菜をお身請けさせることになりそうです」

「……おやまあ、随分とふっかけたものだね」

 部屋持ちなど、五十両……良いとこ六十両がせいぜいだ。はる菜は若くて気立ても良いし、あのきよ菊花魁に歯向かっていくほど肝も据わっているから、大黒屋ほどの大店の女将はムリだとしても、中規模の商家の女将としてなら充分にやっていけるだろうが……。お武家様の妾ともなると、あの調子に乗りすぎる性格が邪魔をしないかと、忘八も多少は心配になる。

 ぬしさまとの時間を終えたはる菜が、部屋から出てきて徳田様を見送る。

「……徳田様の、妾」

 新吉が、徳田様に手を振るはる菜に近寄って、耳元でそっと囁いた。

「二百両なんて。あの人に用意できるわけないじゃん。冗談だよ」

 顔だけは徳田様の背中に向けて微笑みながら、はる菜は新吉に呟く。

「どこぞのお坊ちゃまか知らないけど。おっかさんにダメって言われて、はい、サヨウナラ。さ」

 徳田様の姿が見えなくなってから、はる菜は、自分の部屋に新吉を呼び込み、乱れた布団の上に腰を下ろす。

「本気だったらどうするよ」

 新吉は若衆の修行を受けた性で、乱れた布団はすぐにたたんで、次のお客用に整えてしまう。はる菜の前のはだけた襦袢も、新吉が着付け直して、打ち掛けも掛けてやった。

「………………嬉しい」

 長い時間言い淀んだ末に小さく、小さくそう呟いたはる菜が、赤い顔をしてふいっとそっぽを向いた。徳田様を思い出して少し紅らむその頬は、殿方に恋する普通の十九の町娘と何ら変わりはない。

 新吉はふと、甥の直太朗をまるで我が子の様に抱いて、雪の降る空を見上げるお華の美しい横顔を思い出す。

「いい顔、しやがるなあ」

 新吉は、白い歯を見せて笑った。

「お身請けの話、まとまると良いな」

 新吉はそれだけ伝え、はる菜の部屋を後にした。

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