第5話 大黒屋
大黒屋の婿である若旦那の哲治郎には、数えで十六歳のお華という妹がいる。咳の病気で長らく小石川の療養所で入院している。
毎年、夏の暑さも和らいだ秋の終わりになって退院し、冬を大黒屋で過ごして、桜が散り終わった頃にまた小石川に帰っていく。
哲治郎の妻のりさは、商家のお嬢様らしくきっぷがよく、肝も据わってよく働く若女将だったので、お華は大黒屋にいる間は、りさに代わって長男の直太朗の面倒を見ていた。
小石川の療養所では、小さな入院患者の面倒を見る仕事を自ら進んで受け持っているお華は、乳幼児の保育、育児はお手の物。りさも安心して、お華に子どもを預けて働いていられる。
普段は小間使いのじいやと二人、まだ言葉が理解できない小さい子どもの世話に明け暮れているお華にとって、数多く居る同年代の手代や丁稚達の中でとりわけ頭の良い新吉は、かっこうの話し相手になった。
じいやと直太朗と三人で、団子や大福を作ることを趣味にしているお華は、それを新吉にも振るまってくれる。
新吉にとって、それは至福の時間……。
新吉のそんな大事な時間を、邪魔する者が現れた。
男の名は龍之介という。
この大黒屋の若旦那である。
大黒屋の当主である潮五郎と、妾との間に出来た長男だそうで、本店の跡取りは本妻の子どもである姉夫婦に任せ、自分は上方で商売の勉強をしていたという。
「その勉強に一区切りがついたので、自分の店を構えたい」と今年の暑い夏の盛り、まるで風来坊のような出で立ちで、ふらりと大黒屋に帰ってきた。
長男の帰宅を喜んだ潮五郎が、浅草の方で空きが出た店舗を買い取ってやり、小さいながらも一軒の店の主として、新年早々に開店予定で準備に追われている。
龍之介は普段はこの日本橋の実家から、毎日歩いて我が店「たつの屋」のある浅草まで通勤しているのだが、姉夫婦に娘の「りか」が生まれてからは、息子の直太朗が赤ちゃん返りを起こし、父の哲治郎にべったりになってしまった。
店での仕事や近場の配達は直太朗を連れていても問題はないが、遠方の配達や寄り合いに子連れで出向くことは出来ず、仕方なく龍之介が「たつの屋」の開店準備を休んで、大黒屋の仕事を手伝っている。
そんなわけで、普段朝も明け切らないうちに浅草に行くはずの龍之介が、ここ半月ほど、ずっと店にいる。
そうなると、自然、新吉はお華と龍之介の仲が気になった。
二人の兄と姉が夫婦なのだから、二人は兄妹のようなもの。家族も同然。仲が良くて当然。そう思えば良いのだろうが、夕方龍之介が仕事から帰ってくると、それは嬉しそうに龍之介に駆けより、甲斐甲斐しく龍之介の世話を焼きたがるお華の姿を見ていると、新吉のかすかな希望は、無残に打ち砕かれた。
「若旦那にバレると、龍之介坊ちゃん、殺されちまうぜ、なあ」
手代仲間のそんな冗談が、新吉の心に突き刺さる。
早くに両親を亡くしてしまったお華を、一回りも年齢の違う兄の哲治郎は、八つの頃から娘同然に育ててきた。
十一の歳に席の病を悪化させ「いつか、自分より早く逝ってしまうかもしれない」そんな覚悟をして育ててきたお華も、もう次の正月で十七になる。
毎日、臨終を看取る覚悟で育ててきたお華がそんな年齢まで育ってくれたとなると、哲治郎の方にも自然、お華の嫁の行き先も考えてやらねばという欲が出てくる。
病弱で身体は小さいが、百合か芍薬、沈丁花と表されるほどのお華の美貌。
その後ろを支えているのは、江戸で一番の
そんなお華を、若者たちが放っておくはずがない。十日に一度は、どこぞの
そんなお華にはすでに恋人がいて……それが妻の弟だと知れたら。
年頃の丁稚や手代達は、面白おかしく龍之介とお華の恋愛話を作り上げては、その大きな身体で長い木刀をすらりと抜いて、龍之介を追いかけ回す哲治郎の姿を思い浮かべ、冗談交じりで身を震わせた。
二人の恋は作りごと。ただの従業員達のうわさ話。そうだったら、どんなに良いか。
一度、大黒屋の片隅で、仕事に向かう龍之介と離れたくないと珍しくわがままを言い、龍之介の胸に顔を埋めて泣いて龍之介を困らせるお華を見たときには、胸が締め付けられ、思わずその場を離れた。
そんな状態だったので、はる菜に言われた「叶わない恋よりマシ」は、新吉の心を深くえぐっていた。
「自分だって、恋が叶うのは、ぬしさまがきてくれるほんの一時だって言うのによ」
河原で両足を抱えて、石を投げる仕草が板に付いてしまった自分が哀しい。
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