そばぼうろ

第1話 桃源楼

「お邪魔しますで」

 若い、ハリのある威勢の良い声が聞こえて、子狸が……ではなく、吉原桃源楼とうげんろうの主、信五郎がちょいと部屋から顔をのぞかせる。


 桃源楼の玄関先では、赤茶けた髪色をした背の高い男が、寒そうに白い息を吐きながら、愛想の良い笑顔を浮かべている。

 だが、信五郎はそんな赤茶けた髪の毛の色をした男になどとんと見覚えがなく、「どちら様で?」と、首をかしげた。

「へえ、大黒屋の配達でございます。先日ご注文いただきました花魁の帯。お届けに上がりました」

 男は綺麗に並んだ白い歯を見せて笑い、抱えていた行李こうりを大事そうに桃源楼の玄関先に降ろした。

 信五郎は妓夫ぎうにその荷物を持つように言いつけ、配達に来た男を自分の部屋に案内する。


「見ない顔ですね」

 自分の部屋で座っている男に一瞥いちべつをくれて、信五郎がそう切り出す。

 髷どころか、頭頂部まで茶色いぼさぼさの頭。

 透き通るように白い頬にいっぱい浮かんだそばかす。

 一見するといかにも教養が無く、性格も軽くてやんちゃそうな若者だが、「大黒屋」と染め抜きされた黒いはっぴを羽織り、見た目の年齢には分不相応なほどに上質な紬の着流し。

 見たところ、手代……いや、丁稚と言っても良いような年齢の青年だが、どうやらその出で立ちから並大抵の奉公人では内容に見受けられ、信五郎は眉間に皺を寄せて首をかしげつつ、目の前の青年と対峙している。

手前てまえ、大黒屋潮五郎ちょうごろうの長男で、龍之介りゅうのすけと申します。以後、よしなに」

 明らかに上方なまりの言葉遣いの青年が、を名乗るので、信五郎は驚いて、持っていたキセルを思わずぽとりと取り落としそうになる。

「大黒屋さんにこんな大きなご長男がいたとは、初耳だ」

 大黒屋は4代目を数える老舗の呉服屋だが、御店の主である潮五郎の子どもは次の正月で数えの22歳になるおりさだけのはず。

「へえ、お恥ずかしい話ではございますが、手前、潮五郎の妾腹でございまして……この年まで大坂で、商いの勉強をしておりましてん」


 大黒屋の潮五郎と言えば、真っ先に思い浮かぶのは娘のりさへの溺愛ぶり。近年、おりさは婿を迎えて男の子が生まれたが、その孫も、婿も、その婿の妹までもが愛おしくて仕方がないらしく、ほうぼうで自慢して歩いているというのは、この吉原にも漏れ聞こえてきている。

 だが、そんな潮五郎も先妻を流行病はやりやまいで亡くし、後妻を迎えて娘のりさが生まれるまでは、吉原でも名うての遊び人だったから、娘と同じ年頃の脇腹の子どもがひとり、ふたりはいてもおかしくはなかった。


「へえ……左様ですか」

 信五郎は納得して、煙管にタバコを詰め直す。

「ですがねえ……。桃源楼への配達は、若旦那のテツジのダンナが受け持ってくださるって決まってるんですがね」

義兄哲治郎もそのつもりで準備をしておりましたが、今朝方から急に、おりさが産気づきまして」

「あれま」

「哲治郎はこちらに参るつもりでおったんですが、直太朗が、母恋しさに泣きわめき……哲治郎がおらんと、飯も食わん、おむつも替えさせんで大暴れ。子連れで吉原に参るわけにもいきまへんので、仕方なく、私が代わりにこちらに参った次第で」

 本当に申し訳ないと、龍之介が頭を下げた。

「なるほど、そりゃあ、おめでたいことでございます。ですが……テツジのダンナが大黒屋にお身請みうけされたのだって、つい最近のことだと思っていたんですが、もう、お二人目とは」

「身請けて」

 いかにも遊郭の主らしい信五郎の言い回しに、龍之介がぶっと吹き出した。

「それを言うんなら、婿入りですわ」

 龍之介のツッコミに、信五郎が「あ!」と顔を赤らめる。

「ま、まあね。無事にお生まれになって、よろしゅうございました」

 帯にほつれや汚れが無いことを確認した信五郎は、文箱の中から代金を取り出し、龍之介の前に置く。龍之介はそれを恭しく受け取ると、自分の懐にしまった。

「さて、ほんなら私はこの辺で失礼させてもらいまっさ」

「では、ダンナによろしく」

「生まれた子の首がわればまた、哲治郎義兄が商談に参りますよって」

「はいはい。首を長くしてお待ちしておりますと、お伝えくださいな」

 信五郎は笑いながら、まだ若い大店の若旦那を見送ろうと、腰を上げた。


「おや?」

 ふと、龍之介が足を止めた。 

 遊女がひとり、こちらを見ている。

 堅気かたぎの商売であればもうそろそろお昼時……という時刻だが、ここは吉原。遊女たちにとって、昼は朝。朝は夜中である。

 この遊女もまだ起きたばかりで、お着付けの前なのだろう。少し寝乱れた髪の毛と赤い襦袢がなまめかしい。

「これは……可愛らしい太夫たゆうやな」

 龍之介は遊女に対して親しげに笑いかけると、玄関先に出てわらじを履いた。

 胸元のあらわな自分を見ても少しの色気も感じていない龍之介に、遊女が気を悪くする。

 ぷいっとそっぽを向くと、そのまま、自分の部屋に戻って言ってしまった。

「……あ、しもた。怒らせてしもうた」

 龍之介が、困ったように笑った。

「ああ……すみませんね。あの子はうちの花魁できよ菊と言うんだが……年が明ければもうひとりの花魁の年季が明けて、ウチの花魁はあの子ひとりになるんです。それで、少々気が張ってましてね。最近はあたしにまであんな調子で……愛想の良い、良い子だったんだが」

「ああ、それはおめでたいことで。一番太夫にならはったあかつきには、大黒屋で大きい道中げるように、お父ちゃんに言うときますわ」

 龍之介が、杯を傾ける仕草をする。

「そんときは、俺も、お相伴」

「ああ、それはありがたい」


 愛嬌のある龍之介の笑顔につられて笑いながら、信五郎は妓夫が持ってきたお菓子に目をやる。普段は禿に配ってやる安い饅頭だが、「こんなもので良ければ」と、龍之介に持たせた。

「うわあ! 俺、甘いもん好っきゃねん、おおきに」

 饅頭の入った袋を受け取って、龍之介はまた、人なつっこい笑顔を浮かべ、桃源楼をあとにする。



 

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