第2話 きよ菊
小さな饅頭を取り出すと、それを口の中に含む。ほんのりと、甘い味が下に乗る。少々、口が渇く気がするが、それがまた、良い。
「お華ちゃんと、たーべよ!」
特になにも考えていないつもりだったが、恋人の可愛い笑顔が頭に浮かぶと、帰宅の足取りは軽く、鼻歌まで出てくる。
少し早足になりながら、龍之介は家路を急いだ。
そんな龍之介を……きよ菊は、桃源楼の二階にある自分の部屋の窓から、じっと見ていた。
「……テツジ……今日は来なかったんだ……」
そう呟いて、手に持った煙管を灰箱の上に置く。
ふうっと長く、白い煙を吐き出したあと、ぽんっと手をたたくと、次の間からまだ年端もいかぬ
「……あい
「はる菜姐さんでしたら、
お菓子を食べる手を止めずに、禿ははる菜の行き先を告げる。
「こっちにお寄越し」
自分で訪ねておきながら、はる菜の行き先などとんと興味なさそうに呟いて、灰箱から
「あい」
禿が頷いて、きよ菊の部屋から出て行く。
その、派手な柄の襖を締めると……禿は振り向いて、襖に向かって「べえ!」っと舌を出す。
それから、力強く
「あい香」
「ああ、はる菜姐さん」
「そんなに廊下を走ったら、床が減るてお袋様に怒られるえ。ゆっくりと歩きんし」
「へえ、すんまへーん」
禿のあい香はちっとも反省していない顔で、頭を下げる。
「きよ菊姐さんから、なんぞお言付けでも」
「へえ。はる菜ねえさんを、お部屋にと……」
きよ菊の名前を聞いて……はる菜はまたぞろ、めんどくさい用事でもできたかと、身構える。
「姐さん、はる菜でございんす」
花魁の部屋の前で声をかけると、「お入り」と、不機嫌そうな返事があった。
この声のときは、怒りと言うよりただの不機嫌なのだと……はる菜はため息をついてから、花魁の部屋の襖を開けた。
「なんぞ御用で」
「お前のところのいく菜姐さん。あちきのお客になんの御用?」
花魁は、はる菜の顔も見ずに、タバコを一服。
「いく菜姐さんのことでありんすか? あちきはてっきり、ふみ菜のことでお叱りをちょうだするかと思うておりんした」
「
その名を出されて、はる菜はやっと、きよ菊が怒っている意味がわかった。
「あのおじいちゃまは、あちきのお客様。花魁のお客に手を出すのは、いくら姐さんといえども
厳しい口調でそう告げたきよ菊は、イライラした表情のまま、タバコを吸って紫煙をはき出す。
「下がりゃ!」
きよ菊に命じられ、はる菜が手をつき、部屋を出る。
「べえ」
さっきの禿がそうしたように、きよ菊の部屋の襖を閉めたはる菜も、その襖に向かって舌を出す。
「自分じゃあ、言えないくせにさ」
吉原桃源楼の
だがこの野菊、次の正月で数え二十五歳となり、めでたく年季明けを迎える。
その野菊の跡を引き継いで、桃源楼の一番花魁となるのが、このきよ菊である。
だがこのきよ菊という花魁は、姿形こそは野菊に引けを取らないものの、どこかひらひらと野原を舞う蝶のような……頼りなげで儚げ、筋が一本通ったところもなく、人望があるわけでもない。
ただ、本人の美貌と才能だけで花魁の地位まで上り詰めてきた子である。何事も少しの努力で人並み以上に出来てしまうので、何かを手に入れるために努力というものをしたことが無い。
そんな花魁であったから、きよ菊より年上の遊女たちは野菊に下げられた頭もきよ菊に下げるのは御免だというし、年下の遊女たちもただ、命令に従っているだけに見えた。
はる菜もそんな一人だが、「姐さん」たちに直接小言の言えないきよ菊の、都合の良い伝言係にされている感があり、
はる菜がもう一度、べえっと舌を出したとき、丁度さっきの禿が現れた。
「はる菜姐さん」
あい香が、おずおずとはる菜の顔を見に来る。
「なんえ」
少し、つっけんどんに言ってしまって、はる菜はそのあと、取り繕うようにあい香に笑いかけた。
「徳田様がお見えでありんす」
とたん、はる菜の顔が、ぽっと赤らむ。
「あちき?」
「へえ。ご指名で」
ふすまの奥のきよ菊に聞こえないように、あい香が小声で言った。はる菜は軽く目を細め、軽い足取りで、郭の狭くて古い、みしみしいう階段を下に降りていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます