第4話 阿津
「あーつーさん!」
聞いたことのない声で名を呼ばれ、ちょうど手習いから帰ったばかりだった阿津が振り向く。見たような覚えがあるようなないような、とにかく綺麗に整った顔立ちの男が、そこに居た。
「こんにちは」
身振りも羽振りも良さそうな、自分と同じ年頃の男が、にこにこ笑って自分を見ている。なんだか薄気味悪さを感じて、阿津は半歩、身を引いた。
「……ごきげんよろしゅう……どちら様でございましたでしょうか」
「昨日、お会いした相模屋ですよ」
相模屋と聞いても覚えがなく、阿津は首をかしげる。
「あ、そういえば先日、相模屋の女将さんが再婚なさったとか……あなたが相模屋のお婿様なのですね」
「ええ、ええ、そうです」
阿津の手を取り、若様が頷く。
普段の阿津なら、ここで「無礼者!」とでも呼ばわって、手を振り払うところ。
だが、相模屋の若様と言えば、小国ながらも大名のご子息。一介の旗本の娘ごときが、手を振り払って良いような御仁ではない。
だから、阿津はやんわりと若様の手を自分の手から遠ざける。ところが、ちょっとでも手が離れたとわかると、若様がさらに手を握りしめてきた。
「阿津さんは、ここの子なのかい?」
「ええ、澤山助右衛門が長女、阿津にございます。以後、お見知りおきのほど……」
「堅苦しい挨拶は良いじゃないか、ねえ、団子でも食べに行かない?」
「あら、お団子? ちょうどこれから、弟を散歩に連れていく予定にしておりましたのよ。喜びますわ。呼んで参ります、少々、お待ちくださいませ」
「え、ちょ、ちょっと、阿津さん!?」
阿津は、恋愛ごとに疎い。
だから、若様が自分を気に入った……ということなど、つゆほどにも気づかず、小さい方の弟の直太朗を抱いて、再び若様の前に現れた。
20歳と18歳の男女のあいだに、3歳の男の子がひとり。ともなれば、よその人には普通の家族に見える。
初めて入った団子屋の女将が、美男美女、似合いのふたりと男の子に目をくれて「綺麗な顔の家族だ」と褒め称えたから、若様はすっかり、気をよくしてしまった。
「弟さん、美男子だねえ」
若様が、団子をほおばる直太朗を褒める。
「ありがとう存じます。そういえば、相模屋さんにも男のお子さんがいらっしゃったのでは?」
「妻の連れ子でしてね。藤吉郎と、鶴松と言います。もう10歳と8歳になりますから、こんな可愛い盛りの頃を、わたしは知らないんですよ」
そう言って直太朗の頭をなでるので、阿津はすっかり、若様が直太朗をお気に召したのだと思った。
「あらあら。それではどうぞ、可愛がってあげてくださいまし。なお殿も喜びますわ」
その言葉を真に受けて、それから以降、三日にあげず、若様は阿津を誘いに来る。
阿津は阿津で、若様は弟の
ところが、小さな子どもを連れ、三人で行ける場所など決まっている。それに、目的はどうであれ、表向きは直太朗の散歩のおともだから、さて、良い雰囲気になってきた……と、思ったところで、直太朗が「おしっこ」だ、「おなかがすいた」だのいえば、それでその日の散歩はおしまいになってしまう。
直太朗は最初に行った団子屋のわらび餅が好きだったから、三回に一回は、そこに行く。それで、その団子屋の女将とすっかり顔見知りになってしまったのだが、この団子屋の女将という人がまた、口が軽い。
阿津と若様が小さな子を連れて、まるで夫婦のように仲良く連れ立って歩いている……と言う噂は、すぐにお信乃の耳に入るところとなった。
だが、お信乃は何も言わない。
何も言わずに日々の仕事をこなし、子育てをしている。
阿津はお奉行様の姫君だが男勝りの強情者で、とてもではないが若様が手に負える相手ではない。「ちょっと可愛いお嬢さん」などと手を出してみれば、たちどころに投げ捨てられ、組み伏せられてしまうだろう。
阿津のことは早々に諦めて、半襟屋のおみち、米屋のおとよ、雑貨屋のお滝など、次々、若い女の子と遊び始める。
遊ぶのには金が要る。
だから、お信乃に金の無心が増えた。
「冗談じゃありませんよ、お琴にお華に、お茶に能。それにお姑様のお菓子代。あんたたちに毎月、いくら使ってると思ってるんです。これ以上お小遣いあげたら、うちは
そういいながらも、お信乃は月に1両(約13万円)なら……と、小遣いを増やしてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます