その後の甚兵衛
朝日はその後大政所の体調が悪くなったため上洛したり、駿府に戻ったりしていた。聚楽第に住んでいた時期もあるらしいが詳しくはわからない。
ただ、天正18年の正月に病になり14日に亡くなった。
当時家康は小田原征伐の準備に追われている。そして京都東福寺に葬られた。
彼女の記録はこのくらいである。
その後毎月14日の彼女の月命日に彼女の墓の前で経を唱える僧侶がいた。
この寺は臨済宗の将軍家の菩提寺となっているが、その僧侶は毎月14日に経を唱えていた。
和尚も故人のゆかりの者だとはうすうすわかっていたのでとがめることは無かった。
やがてこの僧のことが噂となって京の町に広まった。
それが北政所の耳にも届いた。
「もしかしたら。。。」
おねはそう思い、人をやって様子を見に行かせた。
僧侶に声をかけたのは「片桐且元」である。
「おひさしゅうござる、「副田甚兵衛」どの。」
「これは片桐様。今日は何用でございますかな?」口調が昔とは違っていた。
「北政所様がお呼びでございます。」
「姉上が。。。。」
片桐且元の案内で聚楽第に到着した。
大広間に通され、しばらく待たされる。
北政所は甚兵衛の顔を見ると
「やっぱり甚兵衛さまでいらっしゃいましたか」と声をかけた。
「北政所様にはご機嫌麗しゅう」
「そんな他人行儀はやめてなも」
「姉上はかわりませんな」
「おねはおねでございます」
「元気にすごしとりますかね」
「出家いたしました。あの日から私は死人です」
「それを謝りたくてよんだのです」
「朝日さまはおまえさまといういい亭主を持ちながら、うちの人のわがままで徳川様に嫁に出してしまいました。天下人と今は言われておりますが、行ったことの報いは受けなければいけません」
「それでゆるしてちょうよ」とおねは笑ったが涙が流れていた。
「今思えば、すべてが夢のよーでごぜぇました」甚兵衛も泣いていた。
それから先の甚兵衛の行方は誰も知らない。
どこでいつ亡くなったのかも知る者はいない。
ただ、朝日の夫であった事実と、毎月14日に訪れる僧侶の姿はしばらくなくなることは無かった。
完
その後の甚兵衛 若狭屋 真夏(九代目) @wakasaya
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