信奉
錯田はその20代という若さもあいまって、つい最近まで
ことの重大さを ほんとうには理解できていなかったところがある。
退院してしばらくすると じきに服薬なぞいいかげんにしなくなった。
これは調子もいい、そう彼は錯覚し とことんまでうわついた。
あしもとをすくわれるのである。
その日はとつぜんやってくる すべてが反転したように、
彼はなにもかも現実感を失い、過去に二度 再入院措置がとられた。
入院してすぐのあいだは、もっとも症状は重くでる。それにくわえて、
入退院は くり返せばくり返すほど 乗数的に症状は酷く出る
という特徴があり、このことは皆に共通である。かれはそこで一線を
越えてしまいそうになる。最終的に彼は自分で気づく。
服薬の大切さに。もう繰り返すまい、そう固く決意する。
錯田のすきな音楽家に美夏良二朗という人物がいる。美夏は
豆寄シティーより遠く離れたY101地区出身のピアニストである。
錯田は一度だけ美夏のライブを見にいったことがある。
美夏良二朗-2039年日本で三人目となる実験モデル- 2030年をさかいに
メンタル問題に取り組む最先端の医療チームが
一定の条件を満たしたメンタルに問題を抱える患者に、救済策
として試験的にそれまでにない治療法でもって、回復を目指す
QRP(QuickRecoveryProject)早期回復プロジェクトが発足している。
美夏はその試験段階のQRP対象者で三人目なのだが、非公開で進められた一人目
と二人目とうってかわってパブリック扱いとして、限定的に周知したうえで
治療を受けている。
美夏は元、A社という主にPA用途のスピーカーを製造・開発する
会社の技術者。A社は”音像”というテクノロジーを開発し
その技術は広く一般家庭にまで普及している。音像とは
音楽を構成する楽器がそれぞれ立体的に配置されているように聞こえてくるし、
空気中に音が存在するかのような 触り心地を体験できる技術。
錯田は数年前 レコードショップに張ってあったポスターで
美夏というピアニストを知り、そのイメージ画像とプロフィール解説
にハートをキャッチされた。
-自滅から破滅へ- というキャッチコピーの下に簡単な略歴と彼が
初のパブリックQRP対象者であることが書かれていた。
錯田はそのまま美夏のアルバム一枚だけを買って、オーディオデータ
ではあるがもう擦り切れるまで何度もそれを聞きなおし、いつしか美夏を
神格視するようになっていた。
美夏のライブは洞窟の中で行われた。中といっても奥行きがあまりなく
大きなほら穴といった感じであった。錯田は美夏の出番をこころまちに
しながらキャッチーな演奏をまたときにはヘビーなサウンドを体感していた。
ふと気づくとすこしほら穴の会場が不思議に静まる。錯田は気づく
いよいよ・・!錯田は奏者の方を見たかったが、とくにステージのような
段差もなく背のびしても見えそうにない。完璧な間 ののち、ピアノ
というよりは轟音のようなサウンドに会場はつつまれ、オーディエンス
を陶酔に導いた。
あとから知ったことだが、美夏は日常をすべて常に管理されており、
睡眠のあいだ(夜)治療がおこなわれているという。睡眠と表現したが
美夏は日中と睡眠が分断していて関連性と記憶はなく、睡眠のあいだ
美夏は意識をもってコミュニケーションをとる 治療チームは
そのあいだに治療に取り組む。睡眠のあいだの美夏は意識もはっきりとし
人格者のそれだ。その睡眠中にライブは行われた。
そのライブの粗い録画ムービーを錯田はたまに見直す。もう 手の
届きそうな距離で撮影された映像。美夏の両脇にはかっぷくのいい
関係者であろう、美夏の行動を常に見守っている。美夏はもう
正気の沙汰ではないような空気をまといながら、力いっぱい電子楽器
を弾き、ところどころで鍵盤は壊れ撥ね飛んでいく。音楽ではないような
サウンドがつづき、最後美夏は前のめりにたおれかかるのを両脇
の関係者らしき人が脇をかかえ、そこで映像は終わる。
錯田は美夏の公開されている情報を見聞きしては、自分と重ね合わせて
あわい希望のような気持ちに浸る。
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