第2話 邂逅

 (一)

 オーラと言うのはあるものだ。

 僕はその時、つくづくとそう思った。



 阪急電鉄の嵐山駅で僕たちは朝の10時に待ち合わせをしていた。まさか4人で揃って出かける訳にはいかない。お忍びの道行きなのだ。僕は伊達と始発電車に乗り、ここまで来た。女性陣はTAXIで来るらしい。鈴ちゃんはその美貌でとかく目立つ。三枝も黙っていれば、人目を引く美人さんだ。そんな二人が早朝から旅仕度で町を歩けば噂を呼ぶ。そんな噂が流れれば、響子姉や、妹の浩美は間違いなく僕たちの道行きに気づく。で、TAXIと言う訳だ。まぁ、庶民の発想ではないけれど……


 爽やかな早春の朝。遠くに見える嵐山公園は水墨画に淡い桃色を彩ったように見えている。八分咲きと言ったところだろうか? 桃色の霞に覆われているようだ。


 僕はコインロッカーの横の壁に背中を預けて、遠くの山々の彩りを愛でていた。

 遠くを見ていたのには理由がある。


 駅の構内はもちろん、手前の道も人でごった返していたからだ。


 僕は鈴ちゃん程ではないが、雑踏を好まない。それがどうだろう。目につくのはうら若き女性のグループと若いカップルばかりで、黄色いくちばしから甲高い喧騒が溢れてる。


 これは鈴ちゃんはへそを曲げる。僕は遠景を眺めながら、無意識に打開策を探していたのだ。


「遅せえな……」


 うんざりした伊達の声が腰の辺りで響いた。伊達は僕の隣でうんこ座りをしている。胸元から煙草を取り出し、火を点ける。三枝がいたら頭を張り倒しただろうが、僕は注意をする気も起こらないので、あえて無視した。本当に煙草を好きで吸っているのではない。格好をつけているのだ。伊達は服にも奮発している。僕は言われないと分からないが、伊達のジーンズは2万円もするブランド品らしい。パステルピンクの派手なポロシャツは、やはりブランド物だ。派手なこと極まりないが、こいつにはこういう派手な格好が似合うのだから仕方がない。


 僕は伊達の言葉に時計を見た。10時半だ。確かに鈴ちゃんにしては遅い。と言うか、彼女は遅刻をしたことがない。待ち合わせの30分前には来ている娘だ。


 連絡するかな? と思っていたら、携帯が鳴った。鈴ちゃんからだった。TAXIが渡月橋で、渋滞のため、もう10分も動かないと言う。渡月橋で下りるから、荷物を取りに来て欲しいと言う。


 快諾して、渡月橋を見る。丁度、橋の半ばで止まっていた黒塗りのリムジンから、鈴ちゃんが下りるところだった。


 豆粒のようにしか見えないはずなのに、まるで眼前にあるかのように鈴ちゃんの姿が見えた。


 輝いていたのだ。鈴ちゃんは。


 凛とした美しさのオーラは、周囲の空気を変えて、人目を奪った。それで騒然とした空気までが変わった。老若男女を問わず、人々は息を飲み淡い桜吹雪を彩った振り袖の少女に魅入った。


「誰? モデル?」


「芸能人じゃないの?」


 そんな囁きが聞こえる。


 続いて下りてきた三枝も注目を集めた。明るい若草色の着物を着こなすには、美人であることが絶対条件だ。三枝はその条件を満たしていた。三枝は着物美人の見本のようだった。


 周囲がざわめくのと、鈴ちゃんが周囲をゆっくりと睥睨するのは同時だった。


『絶対零度の魔女』と学校で異名を取るだけのことはある。皆、言葉を飲み込み、後ずさって道を空ける。


(モーゼかよ?)


 内心、そう思いながらも、渡月橋へ急ぐ。電話を聞いていた伊達も煙草をもみ消し、僕の後に続く。あの二人の元へ駆け寄るのは若干勇気を要した。不釣り合いもはなはなだしい。


「おい。振り袖で来るなんて聞いてたか?」


 伊達が困惑の表情で尋ねて来る。僕は激しく頭を振った。


あいにく僕たちには鈴ちゃんのようなオーラはない。焦りながら、人混みをかき分けて、渡月橋へ急ぐ。鈴ちゃんと三枝は、僕と伊達が人混みに溺れるようにして進んでくるのに、鈴ちゃんは深々と頭を下げ、三枝は「お~い。こっちだよー」と声を上げて手を振る。その間、運転手の方はリアボックスから、大きなトランクケースを取り出していた。


 彼女たちの下にたどり着いた時には、僕も伊達も肩で息をしていた。

 観光客は何故か遠巻きに彼女たちと僕たちを見つめている。


「遅れてごめんなさい」


 鈴を転がす声で鈴ちゃんは頭を下げる。ぞわりと背筋が総毛立った。彼女の周囲だけが二、三度温度が下がっている。顔を上げると作った笑顔が張り付いていた。くりくりした瞳が青く輝いている。とことん機嫌が悪くなっているのが僕には分かった。


「すいませんが、こちらの荷物をお願いします」


 運転手さんの声に振り返ると、大きなトランクケースが三つもあった。海外旅行でも行く気なのだろうか?


 僕が荷物を取りに行こうとすると、僕にだけ聞こえるように鈴ちゃんが囁いた。


「ここは青山? 表参道?」


 ぞわり。背筋に冷たい汗が出る。聞こえなかった振りをして、「すいません」と運転手さんに頭を下げて、荷物を受け取る。


「明美。着物で来るなら言ってくれよ。驚いたぞ。どこの美人かって。似合ってる。似合ってる。綺麗だぞ」


 流石に口先の魔術師。伊達は鈴ちゃんの剣呑な空気にも気づかず、三枝を褒め称える。僕は無言で伊達の方向にトランクケースを渡す。伊達はこちらも見ずに明美とじゃれ合いながら、それを受け取る。二つめを渡したところで、荷物の尋常ならざる量に気づいたようだ。


「何だぁ~? この荷物?」


 素っ頓狂な声を上げる。


「ほら、着物だしね。女の子だし、色々あるのよ。あなた達の荷物は?」


 姉御が手をぱたぱたして言い訳する。


「駅のロッカーに入れた。着替えだけだから荷物と言う程ないよ」


 伊達が疲れた声で呟いた。気持ちは分かる。一泊二日の旅行にこんな荷物はあり得ない。


「こりゃ、ロッカーは無理だな。先にチェックインして荷物預けてしまおう」


 幹事役の伊達が言う。無論、僕に否やはない。


 鈴ちゃんは彫像のように無言で前の川面を睨んでいる。瞳が青くなって、見開かれている。この表情はヤバイ。怒り心頭に達している顔だ。誰が悪いと言う訳ではない。それは彼女も理解しているのだろうが、怒りの矛先がない事が余計怒りをつのらせているのだろう。


それで彼女は黙って、目の前の川を親の敵のように睨み据えているのだ。冷え冷えとした何者をも廃絶するオーラは、他の観光客も感じるのだろう。鈴ちゃんの美貌に見とれながらも遠巻きにして、通り過ぎる。彼女の回りだけ人のいない空間が生まれていた。橋姫でも裸足で逃げ出すような怒気を放っているから当然だろう。


 僕は、どうしたものかと耳の後ろをぽりぽりと描く。流石の伊達も気がついて、僕に近寄り小声で言う。


「おい。なんとかしてくれよ」


「……出来ると思うか?」


 僕は絶望的な気分で答えた。僕の顔を見て伊達の顔色が白くなる。余程、酷い顔をしていたのだろう。どこか静かな場所で二人きりになれれば、手は幾つかあるけれど、この嵯峨野にそんな場所が―――!


 まさに天啓! その瞬間、閃いた。忘れていたけど、幼い時、僕は一度、父に連れられて嵯峨野に来たことがあった。そして、あの場所なら人気はない筈だ。


「伊達、僕と鈴ちゃんの荷物頼めるか?」


「あれを何とかしてくれるなら、何でもするぜ」


 僕は渡月橋の西端を指さした。


「行き止まりに左に回る小道があるのが分かるか?」


「ああ。向こうは何もないぜ。人もまばらだろう」


「そこが狙い目さ。左へ暫く歩けば、山辺への階段がある。その階段を登ると小さな社がある。そこで待っているから荷物を頼む」


「―――それは良いんだが、明美がべそかいてるだよ」


 あの気丈な姉御が何故べそをかくのだろう?


「なぜだ?」


「明美の振り袖、鈴ちゃんに押しつけられたらしんだが、時価で二千万はするらしい。荷物なんか持てないと言うんだ」


 鈴ちゃんの家は昔からの富豪だ。着物も年代物が揃っている。元々、最上級の品にプレミアがついている。僕は伊達の両肩に手を置いた。


「頑張れ」


 伊達は太い吐息をついた。


「ま、鈴ちゃんの機嫌が治るなら、なんでもやるさ。あのままじゃ恐ろしくてたまらない」


 僕は伊達から離れると、鈴ちゃんの側へ近づいた。観光客の好奇の目が集まる。


「鈴ちゃん」


 声をかけると水面を睨み据えていた視線を、睥睨するようにこちらに向ける。この見下すような視線が最近は快感になりつつある。危ない傾向だ。


「―――なに?」


 鈴ちゃんは怒りで青くなった視線で、まっすぐ僕の瞳を見つめる。思わず背筋が総毛立つが、これで旨く機嫌を取り持てば鈴ちゃんは手のひらを返したように明るい美少女に戻るのだ。踏ん張りどころだ。


「電電宮って知っているかい?」


「知らない。パンフレットにも無かったわよ」


「観光地じゃないからね。ほら、西の端、人気がないだろう? あそこを左へ回って階段を登ると中腹に小さな社があるんだ。人もいない。電気関係の人が奉る社で、虚空蔵求聞持法こくうぞうくもんじほうで明星が輝いた場所なんだ。なんで電気関係の会社が参るのかは知らないけれど……」


 鈴ちゃんの顔つきが興味深いものに変わった。これはいける。


「虚空蔵? 真言宗のお寺でもあるの?」


「階段を登り切れば法輪寺に出る。こちらも観光地としては有名ではないから、渡月橋のような人気はない。ほら、西の山並みを見てご覧よ」


 言われて、鈴ちゃんは山並みを舐めるように見据えた。見開かれた目が徐々に細くなり、何かを追っている。口元に不適な笑みが浮かんだ。


「―――龍脈りゅうみゃくが走っているわね。なるほど、秦氏の西の結界みたいね。岩磐いわくらも点在しているようね。……登れるの?」


「その格好で登る気? いずれにせよ無理だよ。江戸時代以前から禁足地だ」


 僕は内心ほくそ笑んでいた。鈴ちゃんは怒りを忘れ、霊的呪詛に興味をい抱き始めている。


「電電宮、見に行かない? たぶん人はいないよ」


 そこで鈴ちゃんは伊達と三枝がいないことに気づいたようだ。


「明美と伊達君は、どこ?」


「ホテルに荷物を運んでくれている。姉御は流石に大きな荷物は持てないけどね」


「―――ああ。気を遣わしたわね。悪いことをしたわ。神崎君もごめんなさい。ああいう人混みは、どうしても性に合わないの。頭に血が上って周りが分からなくなっていたの。ごめんなさい」


 鈴ちゃんは深々と頭を下げた。怒気は消えている。第一関門はクリアしたようだ。


「なんで三枝にあんな高価な振り袖着せたのさ。萎縮してるぜ」


「あの程度の着物は着こなして自由に振るまえるようになってもらわないと、師匠として困るの。まぁ修練ね」


 なんか三枝が気の毒になった。


「電電宮で待ち合わせている。行こうか?」


 鈴ちゃんは不適な笑みを浮かべて頷いた。


 渡月橋を渡り切り、そのまま真っ直ぐ行こうとする僕の手を鈴ちゃんは握った。鈴ちゃんは立ち止まっている。感情の見えない青い瞳で僕を見据えている。


「―――なに?」


 その言葉に鈴ちゃんは氷のような表情で言った。


「何故、無視するの? 貴方が気づかないとは言わせないわよ」


(……流石だ。やはり気づくのか)


 内心、舌を巻いたが、僕はすっとぼけた。

 鈴ちゃんは右側の川沿いの小道を、鋭い視線で見据えている。


「わたしが貴方を選んだのは、貴方も感じる人だからよ。貴方への好意の根拠を一つ潰すつもりかしら? わたしと別れたいのかしら? そんなことしたら殺すわよ」


 鈴ちゃんは詰め寄って来る。笑顔で。……怖い。


「そ、そんな事はない! でも、あれはヤバイだろう? 蛇じゃないか?」


「冷たいのね。でもこの一帯を仕切る土地神よ。どんなに瘴気を放とうとも。それに、貴方は特別だし、わたしにも気づいてる。あちらにおわす方はね。無視する方がやばくないかしら?」


 僕はため息をついた。僕が特別と言うところは相変わらず納得出来なかったけれど……。


「君は何にでも筋を通すんだね?」


「あれは祟るわよ」


「分かった挨拶だけはしに行こう」


 実は橋の上から気づいていた。それほどに瘴気しょうきが強い。桜に囲まれていても、入り口の朱の濃い鳥居は目に焼き付いていた。ただ、体の中で警戒警報が鳴っていたので、デートに相応しくないと無視していたのだ。女の気を強く放つ蛇身の神は怖い。相当に古い神のようだが、荒魂あらみたまだ。これほど古い神なのに、瘴気は渡月橋まで届いていた。正直、恐ろしい。


 でも、鈴ちゃんが行くと言うなら、僕は盾として行かざるを得ない。僕はむき出しの土の道へ踏み出した。鈴ちゃんは僕の左手に指を絡めて、斜め後ろから着いて来る。湿った土の匂いが鼻を突く。むせ返る程の瘴気が小道を覆っている。悪い意味で、人気がまるで無い。およそ生き物の気配がないのだ。僕は緊張せざるを得ない。相手は夏休みに僕たちが対峙した凶つ蛇まがつへび以上の怪物のようだ。(参るのも命がけだな……)僕は嘆息した。


 ものの五分で神社の入り口に着いた。急勾配の細い石の階段の上に鮮やかと言うか、毒々しい朱色の鳥居がある。


(うわぁ~)


 見上げて思わず驚嘆した。風が降りている。自然の風ではない。溢れる霊気を風と感じるのだ。ふと気づくと、鈴ちゃんは僕の手を放し、絶対零度と称される視線で神社の由来書を見ていた。小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。


 見ると「棕谷宗像いちたにむなかた神社」とあり、市杵島姫を祀ると言う。嵐山の弁天様と言われ、金運向上・縁結びの御利益があると言う。そりゃ、鈴ちゃんが笑うのも当然だろう。ここの神は贄を求める祟神だ。贄が足りないと災いをなす類の神だ。ご利益を望むのがおかしい。鈴ちゃんは絶対零度の視線を僕に向ける。クイとアゴを上げて、先に行けと促した。


「え~。ヤダよ。二人で行こうよ」


 心細くて、僕は馬鹿な事を言ってしまった。予想通り、鈴ちゃんの視線は氷の矢となり、表情が消えて氷の彫像となる。


 ボリボリと僕は頭を掻いた。


「あ~。悪い。失言だった。行きます。先に一人で行きます」


 そう言って、万歳する。鈴ちゃんは『早く行きなさい』とばかりに、表情の消えた顔のままで、氷の視線で僕を射る。前門の狼、後門の虎って、こういう状況を言うのだろう。


 まあ、弁天と言われる神にアベックで参るのは馬鹿だ。誰だよ? 弁財天を縁結びの神様にしたのは? あれは嫉妬深いので、男女の仲を裂くものなのに……。


 階段を昇り、朱色の鳥居を潜ると、凄まじい冷気が僕を押し戻そうと押し寄せた。その瞬間、僕の中の何かが変わった。すーっと体が冷えて行くのが分かる。


「そう凄むな。巫女風情が……」


 薄ら笑いを浮かべて、僕の形をした者が冷たい声で囁く。


「消し去るぞ」そう凄むと、霊気が萎縮した。社にすーっと戻って行く。


 境内に入る。猫の額ほどの境内だ。神社は寂れている。

 鈴を鳴らし、柏手を打ち、頭を下げる。そして念じる。


『我が参るのだ。向こう百年蟄居せよ』


 その言葉に僕自身が驚いて、我に返った。夢から覚めた思いがした。自分の体を見て、あちこち叩いてみる。ちゃんと僕の体だ。さっきの台詞は悪い病気が出たようだ。なんだか安心する。


 階段を下りると、由緒書に背中を預けていた鈴ちゃんが笑顔を向けた。


「流石ね乱気が消えたわ」


 えっと思った。確かに瘴気が消えている。でも僕は何もしていない。


「ええ。ええ。そうでしょうとも。貴方は何もしていないのよね。蛇の方が勝手に萎縮しただけ。わたしはフォローしてくるわ。待ってて」


 鈴ちゃんはそう言うと、振り袖なのに器用に階段を駆け上って、境内へ姿を消した。僕は女性の嗚咽を聞いた気がした。恐らく空耳だ。鈴ちゃんが階段を下りて来る時には、神社の気は柔らかく変わっていた。どんな魔法なのかと思ったが、鈴ちゃんに何をしたのかは聞かなかった。


 降りて来る鈴ちゃんは満面の笑顔だった。


 トンと階段の中途でジャンプすると、そのまま僕の首に抱きついて体を預けて来た。危うくこけるところだったが、なんとか抱きしめた。鈴ちゃんはそのまま、僕の唇を吸った。頭が白くなった。不意打ちだったから。僕は本能の脊椎反射で、さらに鈴ちゃんを強く抱きしめ、こちらからも舌を絡めて攻めていた。


「―――ああ」


 鈴ちゃんは切ない声を上げて。軟体動物のように体の力を失った。唇を放し僕の首筋から、ヘナヘナと地に落ちる鈴ちゃんの体をそっと支える。鈴ちゃんは荒い息をして僕に体重を預けて居たが、それも暫しの愉悦。ゆっくりと力を取り戻し、自分の足できちんと立った。僕と目が合うと、顔を朱に染め、背中を向ける。結った髪のうなじが眩しい。着物でも背中のラインと、形の良いお尻は隠せない。僕は今晩、理性が保つのだろうか?


 そんな事を考えていると、鈴ちゃんは、くるりと振り返った。ひまわりのような笑顔を向ける。


「じゃ、行こうか? 電電宮へ」


 僕は笑顔で答えて鈴ちゃんの手を握った。


 (二)

 法輪寺の裏口へ続く階段の真ん中辺りに電電宮はあった。社は大きくない。ただ有名な鉄道会社や電気会社のお布施が集まっている。こんな小さな社にこれほどお布施が集まっているとは思わなかった。様々な電気関係の会社ののぼりや石碑が集まっている。


 社は階段の中腹の猫の額ほどの場所にある。予想通り人気は無かった。鈴ちゃんは魔女モードに切り替わった。不適な笑みは凄みを増している。


「虚空蔵求聞持法で、明星が降りたとあるわね」


「……うん。そう書いてあるね」


「笑わせるわね。ここは呪法の場所に替わっているわ。利用させてもらいましょう」


「利用って何をするのさ?」


「人払いの結界を作る。この人混みでもここでやれば、それなりの効果があるでしょう」


 鈴ちゃんは僕の手を握ると抱き寄せた。いきなりなので、又、胸が高鳴ったが、鈴ちゃんに、そういう甘い雰囲気はない。


 鈴ちゃんは、もう一方の手で虚空に陣を描いた。そして、僕の知らない真言を唱える。


「ええぃ!」


 鈴ちゃんの裂帛の気合いが放たれると、確かに僕らを包む空気が変わった。五メートル四方の感覚で、空気が冷気を帯びる。


 次の瞬間、鈴ちゃんは凄い勢いで後方へ飛び下がった。きっとした視線で何か睨んでる。きっと前世は野良猫だったに違いない。そう思わせる動きだった。


 僕はその気配に気づかなかった。鈴ちゃんの視線の先に、卒業式帰りと言う感じの艶やかな袴姿の若い女性が立っていた。女性は呆然とした表情をしている。落ち着かぬ様子で周囲を見回している。気弱な感じの女性で武道の経験があるとは思えなかったが、僕は彼女に気づけなかった。己の不覚に歯がみする。


 ウサギのようなイメージのその女性は唐突に現れたのだ。


 階段を登って来た気配もなく、降りて来た気配も感じなかった。


「―――貴女、何者?」


 鈴ちゃんは目を細め、鋭く彼女を見据えて言った。


 彼女が霊や怪異の類なら、鈴ちゃんもここまで殺気立たなかっただろう。彼女はきちんとした肉体を持ったごく普通の人間だったのだ。こういう時は物事に動じないように振る舞える僕の出番になる。正直、不気味さを感じていたが、目の前の若い女性は気弱な感じで、彼女自身動揺しているのが分かった。


「―――どちら様です? どこから来られたのですか?」


 静かに訊いた。


 袴姿の女性はその言葉にさらに動揺したようだ。そして言った。


「あの。ここはどこですか? わたし、迷ってしまって……」


 小馬鹿にされたかと思ったが、嘘をつけるタイプに見えない。典型的な世間知らずのお嬢様に感じられた。おどおどと怯えているのが分かった。


 鈴ちゃんが、ゆっくりと歩み寄って来て、そのお嬢様と顔と顔がくっつくくらい近づくと、絶対零度の視線で訊ねた。


「わたし、彩宮鈴香と申します。こちらは神崎浩平君。わたしのフィアンセです。お名前を聞かせて頂けますか。迷われているのなら、道案内くらいはしますわよ」


 お嬢様は、又、動揺した。


「フ、フイアンセ?」


「許嫁です」


 鋭く鈴ちゃんは言う。絶対零度の視線でその口調は怖いよ。鈴ちゃん。


「―――で、お名前は?」


「あの―――」


 お嬢様は後ずさった。


「名乗るのは困るんです」


 この台詞はキッパリと言った。相当名の知れた名家の娘さんなのかもしれない。気が弱く見えるが、絶対零度モードの鈴ちゃんに、こうもきっぱり答えるのなら、芯は案外強いのかもしれない。


 鈴ちゃんはため息をつくと絶対零度モードを解いた。


「じゃぁ、はいからさんだ。そう呼びますよ」


 お嬢さんは顔を赤らめた。


「そんな、はいからさんだなんて……」


「だって、貴女、お洒落じゃない? お召し物も流行のものじゃないですか? はいからさんで良いですね?」


 こういう時の鈴ちゃんは有無を言わさぬ迫力がある。


 僕は違和感を感じていた。卒業式の袴姿に流行なんてあるんだろうか? 確かに生地一つ取っても高級感が漂うのは、鈴ちゃんとの付き合いのおかげで分かるけど……



「お待たせーーー!」


 突き抜けた明るい声で、恐る恐る階段を登る三枝を後ろに伊達が階段を上がって来た。

 伊達よ。三枝の手を引く位のフォローはしろ。


 まぁ、伊達は鈴ちゃんが、まだ怒っていないか怖いのだ。だから、極力明るく振る舞っている。



 しかし―――この、はいからさんをどう紹介したものか。迷子だと言うし、捨て置く訳にもいかないだろう。なんとも奇妙な組み合わせになったものだなと思った。


 

「ああ。伊達。早かったな。荷物、済まなかった。三枝も済まなかったな」


 僕がそう答えると、鈴ちゃんが、ととっと階段を下りて伊達の手を取った。


「ごめんなさい。伊達君。わたしのせいで……」


 普段の鈴ちゃんからは考えられない言動に、伊達は狼狽えた。見る見る顔を赤くして、握られた手を振りほどいて、空中でひらひらと踊らせる。


「こ、これぐらい、何てことないぜ。鈴ちゃんの為なら広沢の池で泳いだって良い」


「それは死ぬから、止めた方が良いわね」


 唐突に冷静な声に戻って、鈴ちゃんは言う。その豹変が恐ろしかったのだろう。伊達は奇妙な踊りの格好のまま固まった。


 そんな伊達を無視して、鈴ちゃんは遅れて階段を上って来る明美の元へ駆け寄る。


「大丈夫? 気を遣わせたわね?」


 三枝は憔悴した顔に無理矢理笑顔を浮かべる。そして言った。


「それより、彼女は誰なの?」


 目ではいからさんを見つめて、三枝は問う。伊達がうんうんと頷いている。


「はいからさんよ。迷子だと言うから、道案内して上げようかと思っているのだけど、駄目かな?」


 姉御。もとい、三枝明美は大きく目を見開いて、息を飲んだ。他人には、いや、人間全般にとことん排他的な彩宮鈴香が、怪しげな袴姿の娘の為に道案内をすると言う。それはもう、驚天動地の出来事だったのだろう。三枝は大きく息を吸い、鈴ちゃんの耳元に小声で言う。


「鈴。分かってるの? 私たち初めてのお泊まりデートなんだよ? そこに他人が混じって良いの?」


 鈴ちゃんは意味ありげな含み笑いをした。


「わたしは連れて行きたいな。彼女、面白いよ。良いスパイスだわ」


 その答えを聞くと、三枝は真っ直ぐに『はいからさん(仮称)』の下へ歩み寄った。


「こんにちは」


 スポーツマンらしく爽やかに声をかける。はいからさんは、ぴくりと体を震わしたが、手を前で揃えて深々とお辞儀をする。「こんにちは」。綺麗な声で答える。


「今日は卒業式ですか? どちらの学校です?」


 はいからさんは驚いたようだ。


「なぜ卒業式だと分かるのです?」


「だって、袴姿なんて卒業式でないとしないでしょう?」


「―――? 学校にはいつも袴姿で通っていましたけれど?」


 噛み合わぬ会話に、はいからさんは、おどおどとする。

 姉御はこめかみを抑えた。


「私、三枝明美と申します。お名前をお聞きして良いですか?」


「ああ、駄目。駄目。明美。彼女、匿名希望なの。だから『はいからさん』」


「『はいからさん』ってマンガの?」


「そうよ。似てるでしょ?」


 鈴ちゃんは明るく笑う。


「確かに似てるけど……」


 三枝は難しい顔になる。気持ちは分かる。名前は言えない。そして迷子だと言う。怪しいこと、この上ない。


「迷子とおっしゃいましたね? どこから来られたのですか? どこへ行かれるのですか?」


 はいからさんは、とたんにオドオドし始めた。不安が滲み出ている。


「……あの、分からないんです」


「はぁ?」


 僕と姉御がはもった。


「東京から汽車で来たのは覚えているんです。でも、嵯峨野で会おうと言う約束だけで、今まで自分がどこに居たのか分かりません。ここは嵯峨野ですよね? 嵯峨野のどこなんでしょう? 気が付いたらここに居たんです。あの、あの、お二方は華族の方なんでしょうか? そのお召し物、華族の方でもないと着れないですよね?」


 姉御はその言葉にぽかんとして、言葉を失った。僕も言葉の意味が分からなかった。

 鈴ちゃんが間に入る。


「まぁまぁ、問い詰めないで上げて。はいからさん。わたしは華族です。彩宮の家はご存知? でも、心配しないで。貴女のこと言い触らしはしません。待ち合わせの御仁は思い人かしら?」


 はいからさんは、顔を朱に染めながらも「はい」ときっぱり答えた。


「わたし達は思い人と観光へ来てます。付いて来なさいな。その内、思い出すでしょう。約束しますよ。貴女の思い人と会わせて差し上げますわ」


 どんな自信があるのか? 鈴ちゃんはきっぱりとそう言った。はいからさんは目に涙を浮かべた。


「よろしくお願いします」


 深々と頭を下げた。


「じゃ、法輪寺の境内に行って、ちょっとお茶でもしましょう。伊達君。水筒は持って来てくれた?」


 伊達は黙って頷く。僕は伊達が一言も発していないことに気づいた。なんであれ、こんな可愛い娘がいれば黙っている伊達ではない。どうしたのかと視線を向けると、伊達は青ざめていた。


 伊達は僕の視線に気づいて、近寄って来た。耳元で囁く。


「なぁ、神崎。お前、幽霊とか分かるんだよな?」


 何を言おうとしているのか分からない。女性陣は石段を上がり、法輪寺の境内へ向かっている。


「まぁ、分かるよ」


「あれは人か?」


「なんかピントが外れているけど、間違いなく生身の人だよ。なんなら、お得意のセクハラしてみなよ」


「―――影がねぇ」


「え?」


「だから、あの『はいからさん』か? 影がないんだ。気づかなかったのか? 影のない人間がいるのか?」


 夏休みに怪異に襲われた伊達は必要以上に怯えている。

 僕は何か分かってしまった気がした。


「吸血鬼が出回るには陽が高い。そういう人間もいるさ。怯えるな。伊達」


「そんな人間、俺は聞いたことがねぇよ……」


 僕は伊達の肩を掴むとその目を見据えた。


「気にするな。あれは怪異ではない」


 そう言って肩を、ぽんぽんと叩いてやる。伊達は納得し難い顔つきだったが、不承不承「分かった」と答えた。


「他言無用だぞ。姉御にも言うな」


 伊達は黙って頷いた。


 (三)

 電電宮から石畳の階段を少し上ると法輪寺の境内にでる。境内に出た瞬間、僕の視界は薄桃色の靄に覆われた。靄は境内全体を覆っており、西の山並みから降りて来る風にオーロラの様に変化する。その靄の中に華やかな振り袖姿の少女がいる様は桃源郷を見るようで、現実感が失われた。見事なまでに桜が満開だった。しかも、僕たちの他に誰もいない。絶好の穴場と言えた。他に人気がないのは鈴ちゃんの「人払いの結界」が働いているのだろうか? このような場所を僕たちだけで独占するのは、罪を犯しているようで、どこか不安を感じる。桜に酔うとは、こういう心地を言うのだろうか? 皆も感嘆の声を上げ、このような穴場を選んだ僕を褒め称えた。気恥ずかしい。僕はあまり人が来ない程度のことしか知らなかったのだ。皆も桜に酔っているのだろうか? 妙に高揚してはしゃいでいた。


 ただ、僕は境内のあちこちに、無造作に岩磐いわくらが転がっているのが気になった。しめ縄をしていないから、伊達や三枝には大きな岩の塊位にしか思っていないだろう。岩磐は只の岩ではない。古代祭祀で神が宿る岩として崇められ、儀式が行われたものだ。当然、只の岩にはない霊気を帯びている。境内を囲む様に散在する岩磐。それは人為的パワースポットを形成していた。偶然ではない。誰かが仕掛けたのだ。


 伊達がいそいそとシートを敷いている。鈴ちゃんが敷く場所を指示している。パワースポットの中心を指し示している。流石だ、この寺の呪的構造を一目で看破しているのだ。


 シートに座る時には「本堂にお尻向けて座らないでね」と忠告するのも忘れない。


 本堂の気は強い。仏教の虚空蔵菩薩が祀られているとは思えない。この気は神社のそれに近い。山沿いの敷地の一角に立派な仏塔が建っている。それは何かを隠しているか、結界として、山から下りてくる何かを塞いでいるように見える。


 後ろの仏塔を見据えていると、隣に座る鈴ちゃんが「浩平君」と声をかけ、紙コップに紅茶を注いでくれる。鈴ちゃんは小声で言った。


「あまり見ない方が良いよ。あれはもう対処出来るものではないわ。貴方は引き込まれ易いのだから、旅行の間は、そう言うの忘れましょう」


 いつにない優しい声色。そこに鈴ちゃんの僕に対する不安を感じた。僕がいなくなることが、なによりも鈴ちゃんは怖いのだ。それ位は分かってる。日頃の毒舌・お説教はその裏返しだ。


 僕は鈴ちゃんからポットを受け取ると、一人、本殿に向かっている『はいからさん』にお茶を注いだ。


「あっ、すいません」


 はいからさんは、恐縮しながら紙コップを差し出す。お茶を注ぎながら、彼女を観察する。こうやって対峙すると、肉体を持つ若い女性だと分かる。抑えても華やかな色気が出ている。シートがお尻の形に凹んでいるから、体重もある生身の女性だとしか感じられない。だが、伊達の指摘の通り影がない。ふむと僕は考え込む。影が出来ない人間は希に居る。例えば、死期が極端に近い人間は影が無かったり、写真に写らなかったりする。「影が薄い」と言う表現はこの事から生まれた言葉だ。


 僕は、はいからさんを見る。死期が近い気配は無い。彼女はおちょぼ口で紅茶を啜って、「あら?」と驚嘆の声を上げた。


「こんな美味しいお紅茶は、初めて頂きます。銀座のカフェにもありませんね」


 驚きと微笑みが入り交じった表情で、鈴ちゃんを見据える。


「そう? お気に召して何よりですわ」


 鈴ちゃんは満面の笑みで返す。はいからさんが鈴ちゃんを見る目に尊敬が加わった。

 僕は怖気に首を竦めていた。


 なに? その笑顔? その台詞回し? 作り物じゃないか。鈴ちゃんは、はいからさんに心を許した訳ではないようだ。鈴ちゃんのこういう対応は普通は敵対する者へ向けられる。そして、相手の油断を誘ってとことん地獄へ送り込むのが鈴ちゃんの手法だ。


 はいからさんは、その点、とことんウブだった。


「尊敬いたしますわ。驕るところがないのですね。貿易商でもされておられるのでしょうか?」


「照れます。これはわたしの趣味で仕入れた物ですよ。それに家は貿易商ではありません。しがない和菓子屋です」


 また、極上の笑顔で答える鈴ちゃん。


 はいからさんは芯から驚いた顔をした。


「貴女が仕入れをされたのですか?」


「人に頼んだだけですわよ」


「お若いのに、これだけの品を人を使って、ご自分で楽しまれるなんて……凄いわ。感服します」


「そこまで褒められると悪い気はしませんね。どうぞ、お茶受けです。家の品です。こちらも気に入って頂けると嬉しいのですけど」


 その言葉で、計ったようなタイミングで、三枝が和紙に載せてくず餅をはいからさんの前に置く。無言で頭をはいからさんに下げると、正座のまますすと自分の席に戻る。


 気づくと僕と鈴ちゃんの前にもくず餅が置かれていた。


 鈴ちゃんは目の端で三枝の挙動を見ていたようだ。にっこり笑うと三枝に頭を下げる。

 はいからさんだけでなく、伊達も驚いた表情で三枝を見ていた。


 茶道は奥が深い。三枝の無駄のない挙動は着物をさらに引き立たせ、三枝自身をも輝かせていた。


「紅茶にくず餅と言うのは気が利いていませんが、流石に野点の用意は出来ませんから」


 鈴ちゃんはにっこりと笑顔を作る。それに多弁だ。そう言えば、鈴ちゃんは父親から家督を継いだと言っていた。卒業したら家督を継ぐ約束だったらしい。どういう経緯でそんな約束になったのか、あまり考えたくない。ただ、鈴ちゃんはバブルの崩壊も事前に予言していて、彼女を信望して相談に来る経済人が多かったと言う。その為、彼女が家督を継ぐのも、周囲の経済関係者からも歓迎されたと聞く。鈴ちゃんは、卒業後、色んな会社の役員会にも出席している。これぐらいの芸当は出来て当然なのだろうが―――僕には過ぎた彼女だな。


 はいからさんは気を飲まれていた。鈴ちゃんと三枝を交互に見つめる。驚嘆している。そりゃそうだろう。自分より年下とおぼしき少女が二人、見事な挙動を見せたのだ。


 伊達に至っては、惚けたように口を開け、表情を崩さない三枝に見入っている。伊達よ。分かったか? 三枝は極上の女なんだよ。こういう挙動が出来る女なんだ。普段はお前の馬鹿に付き合っているだけなんだ。鈴ちゃんが僕には過ぎた彼女であるように、三枝もお前には過ぎた女なんだよ。お互い捨てられないように精進しようぜ。


 はいからさんは気を取り直したように、大きく息を吐くと、くず餅を上品に竹の棒で切り、その小さなおちょぼ口へ運ぶ。


 目の端で僕はそれを見ていた。


 おや? 中々……。挙動に無駄が無い。はいからさんもただ者じゃない。余程良家の娘さんだと思った僕の目も確かなものだったようだ。


 はいからさんは、くず餅を口に入れて目を丸くした。


「……極上の和三盆。極上の吉野葛。職人さんの卓越した技術。これは素晴らしいの一言に尽きます」


 喜色を浮かべて本当に嬉しそうにはいからさんは叫んだ。


 吉野葛は判るけど、和三盆ってなんだ?


 そう思いながら、僕はくず餅を手に取り、丸ごと口に運んだ。作法じゃない事は何となく判っていたが、そんな堅苦しい真似は出来ない。出来ない事はしないのが僕の主義だ。

 僕の仕草を見て、伊達も安心したように、くず餅を口に豪快に放り込む。そして叫んだ。


「旨めえっ! 口の中で溶けるぞこれ!」


 はいからさんは、それにクスクスと笑った。なんだ可愛いじゃないか。


「殿方は豪快ですね。それでいて野卑じゃない。武道を修めた方ですね」


「えっ? なんで判るんすか?」


 伊達が素っ頓狂な声を上げる。


「わたしも薙刀を嗜むのです。恥ずかしながら」


 はいからさんは楽しげに笑う。


「かなりの達人とお見受けしました」


 流石は伊達。はいからさんの心を開かせた。


「いやぁ~ 俺なんかまだまだっす。こいつは凄いですよ。今年の全日本剣道大会で優勝しやがったんです。顧問の鬼教官を病院送りにもしてるんですよ~」


 要らぬことを言う。


「瀬尾が出ていなかったからな。運が良かった。悪かったな。本当はお前が出る筈だったのに」


「良く言う。オール一本勝ちなんて、あの鳴神先生以外じゃ初めてじゃないか。その鳴神先生を病院送りにしているんだ。流石は鳴神四段の秘蔵っ子とみんな言ってる」


「次は勝てないよ。鳴神先生はそんなに甘くない。見ろ。このみみず腫れ。未だに引かないんだ。片手打ちでだぞ。女だぞ。化け物だよ。鳴神先生は。それに瀬尾は鳴神先生と同じ域に高校一年で達しているんだ。奴とやらんと鳴神先生は納得してくれない」


 首筋の傷を見せながら僕は言った。


「そう言えば、お祝いをしていなかったわね……」


 鈴ちゃんがぼそりと呟く。


「そんな気を遣ってくれなくて良いよ」


「あら? 自分の夫が日本一になって喜ばないわたしだと思ったの? そうね。今晩、わたしの大事なものを上げると言うのはどう?」


 それの意味するところを想像して、僕は耳たぶまで朱に染める。はいからさんまで真っ赤になっている。


「あら? 真っ赤になって……どうしたの? 何が欲しいのか言ってごらんなさいな」


 鈴ちゃんはここぞとばかりに責めてくる。悔しいが何を言っても敵わないだろう。


「拒否権を行使する」


 僕はそう言って、口を真一文字に結び、腕組みして瞑目する。


「あら、突っ込み甲斐がないわね。―――なによ。初めてじゃない癖に」


 鈴ちゃんの拗ねた口調に、心臓が口から出るかと思うほど僕は動揺した。だが、動揺すればするほど無表情になるのが、僕の性癖である。傍目には泰然としている様に見えただろう。だが、面子が悪かった。


 鈴ちゃんは当然、もう僕の性癖を知っているし、伊達と三枝は中学からの付き合いである。三枝が目を輝かせて、にじり寄り、上目使いで僕を見る。獲物を見つけた猫の顔だ。


「へぇ~、神崎。経験者なんだぁ~。鈴をさしおいてやるじゃない? 相手は誰よ。ほら、吐いて楽になれ」


 クスクス笑って何を言う。僕は刑事に尋問される容疑者か?


「ほれほれほれ」


 三枝は下手から、僕の顎をくすぐる。止せよ!


「おい、姉御。鈴ちゃんの前でそういう真似をするな」


 嫉妬深いんだぞ。鈴ちゃんは。


 三枝は、一瞬、鈴ちゃんを振り返る。


「良いわよ。吐かせなさい。三枝刑事」


 冷たい声で三白眼になった鈴ちゃんが言う。異端裁判受けている気がした。


「そうね。今まで試合じゃ弱かった神崎がいきなり強くなったのは夏よね? 正彦?」


「んだ。んだ。でも、マジかよ? 神崎? お前、童貞やと言ってたよな?」


 そんなやり取りを、はいからさんは、口元に両手を寄せた乙女チックなポーズで、興味しんしんと見つめていた。


「じゃ、心当たりがあるわ。今までどんな女の子にも興味を示さなかった神崎が籠絡されるような相手。しかもこの夏。そうなると答えは絞られる訳なのよ」


 指を天に向かって指しながら、三枝は得意げに言う。クスクスと含み笑いをしながら。

 今から、ダッシュで家に帰ろうかと思った。


「ずばり言うわよ。相手は桜ヶ丘高校が誇る才媛にして、桜ヶ丘高校の歴史に名を残す随一の美女。パーフェクトビューティーの名を冠する杉浦響子先輩! どうよ?!」


 雷に打たれたような衝撃を味わった。心停止するかと思った。


 その瞬間、『この、戯けが!』と高く響く女性の声が境内に鳴り響いた。


 お姉さん。あんた、なんちゅう事をするんや!


 一瞬、皆、無言になり動きを止める。


「なんだ? なんだ? 今、声が響いたよな? 凄い厳しい女の声、聞こえたよな?」


 伊達が動揺する。


「聞こえた! この声聞いたことある!」


 三枝も叫ぶ。


「わたしも聞こえました。凄い声。でも気品のある声がしました」


 皆が動揺する中、僕と鈴ちゃんだけが無言で居た。もっとも僕は死を前にした死刑囚の無言。脂汗がしたたり落ちる。鈴ちゃんは怒りの無言。三白眼が青く輝いている。


「鈴! あんたも聞いたわよね?」


「はぁ……」鈴ちゃんは大きなため息をついた。怒りのオーラが消えていく。


 鈴ちゃんは、すううと全員を見回す。僕を除く全員の視線が彼女に集まる。


「神崎君の後ろのお姉さんの声よ。あの人が神崎君から異性を排除してきたんだけど、女としては杉浦さんの情欲の方が強かった。そういうことよ。余程、腹に据えかねていたのね。後ろのお姉さん……」


 その言葉に皆が言葉を失う。はいからさんまで事情を知らないのに雰囲気に飲まれて黙り込む。


 沈黙を最初に破ったのは、歩く無節操男・伊達だった。


「え? え? マジ? あのトップモデルクラスの美女を神崎が抱いたの?」


「抱いたんじゃなくて、犯されたようなものだったんだけどね……」


 まるで見て来たように、鈴ちゃんは言う。その諦観の籠もった声の方が僕の心を傷つけた。


「……鈴。あんた、それで良いの? 何時から知っていたの?」


「仕方ないよ。明美。わたしと付き合う前だったんだから……。明美だって、伊達君を責めてないでしょう?」


「じゃぁ、杉浦さんがプールに一緒に来たのは―――」


「あてつけ。だったんでしょうね。今でも杉浦さんは怖いよ。わたし、言われたもの。神崎君が傷つくようなことがあったら、いつでも横取りするって。あの人に勝てると思う程、自惚れていないわ」


 ここで僕が黙秘をしていたら、僕は最低の男になる。

 僕は意を決して目を開け、鈴ちゃんを見つめた。


「鈴ちゃん!」


「は、はい!」


 怒ったような僕の声に、鈴ちゃんは反射的に返事をする。


「僕は鈴ちゃんを愛してる。他の誰よりもだ。自分自身よりも鈴ちゃんが大事なんだ!」


 衆人環視の中、僕はとんでもない台詞を叫んでいた。見栄も体裁もなかった。


「何があっても離さない。逃げたって地の果てまで追いかけてやる!」


 叫んで、我ながら悪質なストーカーみたいな台詞だと思ったが、本心なのだから仕方がない。


 いつの間にか、僕は立ち上がり、鈴ちゃんの肩を掴んでいた。


 鈴ちゃんは魂が抜けたように、体から力が抜けていた。呆けたように僕を焦点の合わない瞳で見つめていた。それは皆も同じだった。いくら身内同然の面子の前とは言え、とんでもない迫力で、神社の中心で愛を叫んだのだ。そりゃ、呆れる。


 どこからか、嗚咽が聞こえて来た。見ると鈴ちゃんの顔がみるみる崩れて、涙まみれになっている。それと何故かはいからさんまで泣いていた。


「だって、貴方、誰でも助けるじゃない。後ろのお姉さんだって、貴方が助けたから離れないんじゃない。わたし、お姉さんを説得するのに二年もかかったんだよ。ようやく、お姉さんを納得させることが出来たから、告白したんじゃない。でも、貴方、困ってる人がいたら、困ってる女の人がいたら、死んでても生きてても、助けるじゃない。貴方、気づいてる? お姉さん背負ってることで寿命削っているのよ。杉浦さんだって、助けを求めて来たら、貴方助けるに決まっているじゃない」


 泣きじゃくりながら、鈴ちゃんは言う。僕は鈴ちゃんの力の抜けた体を抱きしめた。強く強く抱きしめた。


響子姉きょうこねぇが助けを求めたら、助ける。響子姉きょうこねぇは僕にとって本当の姉以上の存在だから。でも、愛じゃない。誰が僕を助けてくれたと思う? 鈴ちゃんだよ。鈴ちゃんは僕を助けてくれた。僕に愛を教えてくれた。だから離さない。絶対にだ」


「本当に? 絶対に?」


 鈴ちゃんは縋るように僕を見上げた。「離さないよ」そう囁いて僕は鈴ちゃんを抱きしめてキスをした。


 長いキスの後、鈴ちゃんと僕はなんとなく体を離した。お互い気恥ずかしくなり、赤くなった顔を下に向けて、ゆっくりと体を離した。


「ブラボー!!」


 伊達が立ち上がり拍手しながら、そう叫んだ。それで僕たちは我に返った。今度は羞恥に真っ赤になる。三枝は唖然とした表情で僕たちを見つめている。僕は又、無表情に戻って何事もなかったような顔をしたが、一部始終を見られていた事実は誤魔化しようがない。


 鈴ちゃんも「止めてよ」と真っ赤な顔で言ったが、まだ涙は止まらず、しゃくりを上げている。はいからさんが立ち上がり、シルクのハンカチを取り出して鈴ちゃんの顔を拭きながら、背を撫でている。


 僕と鈴ちゃんの卒業旅行はとんでもない幕開けから始まった。

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