第3話 契り

(一)

 鈴ちゃんは化粧を直すと言って、手水へと席を立った。はいからさんが脇から支えるように、付き添って行った。鈴ちゃん、化粧なんかしてたかな? 僕は首を傾げた。ファンデーションくらいはしていたかもしれないが、彼女は化粧の必要がないのだ。肌は新雪を思わすような白さで、唇は薄く、紅をささずとも朱をさしたように鮮やかだ。気を落ち着けるのと、涙目を正しに行ったのだろうと思った。



 一見、表情のない冷たい顔で鈴ちゃんの背を見つめていた三枝が、鈴ちゃんの姿が視界から消えた時、静かな挙動ですっと立ち上がる。伊達が何故か怯えた表情で三枝を見上げた。



(―――なんだ?)


 そう思っていると、背筋に定規を当てたような真っ直ぐな姿勢で、三枝は言った。


「―――正彦。ここ片付けてくれるかな? 茶器は私がやるから、割らないように隅へ寄せて置いて頂戴」


「分かった。やっておく」


 答える伊達は青ざめて見えた。三枝は冷え冷えとした声で視線を動かさずに、更に言う。


「神崎。ちょっと来てくれる」


 鈍い僕にも三枝が体の芯から怒っていることが分かった。僕は黙って立ち上がる。三枝は弓を射る時の目で、一瞬、僕を射貫くと、かかとを軸にくるりと反転して、電電宮へとやや早足で進む。頭の上下動が殆ど無い。流石、弓道と茶道で鍛えているだけのことはある。僕はのそりと立ち上がり、姉御の後ろに付く。立ち上がる時、伊達が目線で『気をつけろ』と言った。僕は頷き、腹をくくった。


 三枝は振り返ることもなく、電電宮の前まで進んでピタリと止まった。止まったまま、又、かかとを支点に180度回転して、真っ正面から僕を見据えた。血の気が失せた青白い顔に表情は無い。瞳の瞳孔が死人の様に開いていて映画「ジョーズ」に出て来た巨大ホオジロサメを連想した。背筋が総毛立った。その瞬間、三枝の背後から風が吹き上げた。三枝は櫻吹雪の中、静かに佇んで、僕を見ている。瞳孔が開いているから眼が深遠に続く漆黒の闇へ誘う深い穴に見える。鬼女だと思った。


「神崎、目を瞑ってくれるかな?」


 地を這うような低い声で、姉御は言った。僕は気圧されて、少し後ずさった位置で止まって、「お、おう」と答えて素直に眼を閉じた。次の瞬間、僕は全くの無意識で顎を引いて上体を後ろにずらしていた。鼻先をブンと風を斬って何かが通り過ぎた。「何だ?」そう思って目を開けると、全体重をかけた右の拳を空振りして、たたらをを踏んで三枝が倒れるところだった。僕は反射的に三枝の胴を抱えて支えた。三枝は憤怒の表情で、抱きかかえられた姿勢で怒鳴る。


「なんで、よけるのよ!」


「避けるわ! お前、グーで男を殴るのかよ?!」


「離せ! この外道! 私に触るな!」


「―――離しても良いけど、良いのか? お前、この着物の値段分かっているのかよ?」


 その言葉に、三枝は黙って姿勢を整え、自ら立ち上がる。表情は仏頂面だ。


「で、なんで僕が鉄拳制裁をうけるんだよ? 姉御?」


 心臓がバクバク言っていたが、伊達に哲学者とあだ名を付けられていた訳じゃない。僕は無表情になって、何事も無かったように訊ねた。


 着物の襟を直して、三枝は真顔で訊いた。


「アンタ。自分が何を言ったか理解してるの?」


 ―――? 意味が分からなかった。大恥かいて、キスシーンまで演じたのに、何が三枝を怒らしているか分からない。


「僕は鈴ちゃんを愛してると叫んだぞ?! ちゃんと鈴ちゃんを抱きしめた。それが悪いのかよ?」


 三枝は怒った猫の様に僕を見据えて黙り込んだ。怖いから止めて欲しい。


「その前よ! あんた、杉浦先輩を助けるって断言したんだよ? まさか、忘れたと言うの?」


「当たり前じゃないか! 響子姉は、僕の身内だ。本当の姉以上の人なんだ!」


「それ、二股と言うんだよ。神崎、姉弟で肉体関係が成立する? 杉浦さんを助ける? どうやって助けるのさ? あの人は又、貴方を求めるわよ。貴方はそれに贖えるの? 貴方はね、大音声で二股宣言したんだ! 鈴があそこで引いたのは、神崎、アンタを失いたく無かったからよ! 今、ここで誓いなさい。もう二度と杉浦先輩とは行き会わないと!」


 三枝はここに来て、大音声で僕を怒鳴り付けた。その気迫は今の剣道の師である鳴神先生に匹敵するものだった。以前の僕ならその気迫の前に素直に頭を下げて、意味もなく謝ったかもしれない。だけど僕は鈴ちゃんと死線を潜り抜けたのだ。三枝が怒るのも理解出来るようになっていた。


 僕は三枝の右手を両手で包み込むように握り、三枝の瞳を見つめた。そして微笑んで言った。


「明美。ありがとう。心配してくれて」


 三枝は僕の言動に狼狽えた。


「な、なによ。そんな台詞は要らない。誤魔化さないで! ちゃんと杉浦先輩と切れると近いなさい!」


「それは無理だよ」


 その瞬間、三枝の左手が振り上げられた。避けられる平手打ちだったが、僕は避けなかった。『ぱーん!』良い音が参道にこだました。首で受け止める姿勢だったから、三枝の満身の力が籠もった平手打ちを受けても、体勢は崩れない。僕は微笑んだまま、三枝を見つめる。そして三枝は左の掌を僕の頬に当てた姿勢で動けなくなった。三枝は阿修羅の様な顔で僕を見据えて叫ぶ。


「この、大嘘つき!」


「そう言われても仕方が無い。三枝。だから、今のは避けなかった。だけど、三枝。今の僕がここにあるのは、響子姉きょうこねぇがいたからだよ。響子姉がいなかったら、僕は人を愛することが出来ない欠陥品になっていた。あの震災の日に響子姉が僕を抱きしめて泣いてくれた。それで、ようやく僕は泣けるようになったんだ。だから、響子姉が救いを求めたら、僕は救うよ。僕と響子姉の間に、確かに間違いはあった。けれど、それは一度きりのものだよ。もう、間違いは犯さない。響子姉もそう言っていた。そう言う心の切り替えは出来ている。

僕は鈴ちゃんしか愛さないし、抱きもしない。それだけは誓える。でないとお泊まり旅行になんか来る資格もない。僕を信じてくれないか? 三枝?」


 僕の対応が三枝の想像を超えていたのだろうか? 明美は毒気を抜かれた表情で、陸に打ち上げられた魚の様に口をパクパクさせていた。そして、次に左手で僕の顔面を鷲掴みにして遠のける。


「―――離して! 離しなさいよ! この鬼畜!」


 僕が三枝の右手を握っているので、三枝が身じろぎ出来ないことにようやく気づいて、僕は三枝の右手を離した。三枝は飛び下がるようにして、僕との距離を取る。僕の間合いから外れて三枝は息を整える。顔も赤くなっていた。


「アンタ。女には魔物だわ。全くどういう体術よ? 剣道にはそんな体術があるの?」


「……? お前が勝手に動けなくなっただけだろ? 僕は何もしてないぞ?」


 三枝は荒くなった呼吸を整えると、大袈裟にため息をついた。


「―――本当に魔物。神崎。何時か言おうと思ってたけど、アンタ、女への対応考えてやりなさいよ。本当に魔物だわ―――」


 僕は言われた意味が分からなかった。分からないから黙っていると、三枝は又、ため息をついた。


「アンタって昔からそうよね。人の良い顔しているのに、変に頑固。誰にも言わずに勝手に決める。そして決めたことは絶対に曲げないんだから。杉浦先輩も鈴も被害者よね。こうなると―――」


 そして三枝は笑っているのか泣いているのか分からない顔で僕に近づき、右の拳をゆっくり伸ばして、僕の額をコンと小突いた。


「神崎、そんな顔するなよ。私も辛い。私は神崎がそういう奴だって知っていたから、被害者になれなかった。それはそれで救いだと思うよ。神崎。これだけ約束して。次に泣きたくなったら鈴に縋る。誓える?」


 僕は自分の顔を両手でゴシゴシとこすった。僕の顔つきが三枝を悲しませていると思ったからだ。そして自分に言い聞かせるように誓った。それで三枝はようやく笑った。苦笑に近い笑顔だった。



 僕と三枝が境内に戻ると、伊達がビニールシートを綺麗に畳んでおり、鈴ちゃんとはいからさんが、茶器を片付けていた。鈴ちゃんが振り返ることなく、茶器を片付けながら呟く。


「二人してどこへ行っていたの? 随分、長かったけど……」


 剣呑な声色だった。僕は無表情の『哲学者』モードになって機嫌取りを考える。三枝は、先程の殺気はどこへやら、明るく笑うと鈴ちゃんの肩をバンバンと叩く。


「やーねー。鈴。私にも焼き餅ですかぁ~?」


 三枝は快活に笑うと、鈴ちゃんの耳元に囁きかけた。


「う・ち・あ・わ・せ・よ。打ち合わせ。天竜寺では別行動したいでしょ?」


「―――やんっ!」鈴ちゃんが可愛い声で身をよじる。


「止めてよ。明美。耳元に息吹きかけないで!」


「あら? 敏感。誰に開発されたんだ~? こら~」


 三枝は鈴ちゃんに抱きつくと、なんだかややこしい箇所を触り始める。鈴ちゃんが身悶える。


「―――っ! 止めなさい! 止めててば! 明美! 怒るよ!」


「おー。そいつは大変だぁ。鈴が怒ると後々祟るからねぇ~。鈴~。ちょっと内緒話しよう」


 明美は鈴ちゃんの肩を抱いたまま、社務所の影に鈴ちゃんを引っ張って行った。二人の姿が消えるのを呆然と見つめていた伊達とはいからさんは、二人の姿が視界から消えると、あんぐりと口を開けた顔のまま、ぎぎぃーと視線を僕に向けた。その異様な光景に腰が引けた。彼らが僕に何か答えのような物を求めているのは分かったが、僕に分かる筈も無い。

 僕はどっかりと地面にあぐらをかくと、伊達に言った。


「伊達。煙草を一本くれ」そう言うと、伊達は困ったように「……ここ、境内だぜ?」とらしくない台詞を吐いた。僕はその言葉に拝殿を振り返った。神仏も僕を哀れんだのか、咎める気配はない。


「構うものか。―――しかし、伊達よ。らしくない台詞を言うじゃないか?」


「俺も吸おうとして、はいからさんに咎められたんだ」


 伊達はそう応えると、頭をぼりぼりと掻いた。僕は目を丸くしている、はいからさんを見つめる。


「―――咎めますか?」


 暫しの沈黙。そしてはいからさんは太いため息をついた。


「いいえ。弁えている貴方が吸いたいのは、それなりの理由があるのでしょう? 止めませんよ」


 伊達は「差別だ……」などと呟きながら、銀のシガレットケースから煙草を出す。ダンヒルのメンソールだった。思いっきり見栄をはっている。僕が煙草を口にすると、純銀のZippoで火を付けてくれる。見栄もここまで来ると格好良いと言って良いだろう。火が点いた瞬間、Zippoのオイルの香りが心地よく鼻孔を刺激する。僕は強く煙草を吸った。ダンヒルは国産の煙草に無い濃厚な味がする。その後に強いメンソールの香りが口中から肺に染みこむ。普段,滅多に煙草など吸わないので、血中にニコチンが染み渡り、人心地がついた。


「お前が煙草吸うとは初めて知ったよ。なんだ。お前も悪じゃないか?」


「―――煙草を吸うのは、これで三本目だよ。貰い煙草ばかりで買ったことはない」


「にしちゃあ、堂に入った吸い方だな?」


「そうか? 親父の真似だよ。親父はヘビースモーカーだったからな……」


 伊達は暗い顔でうつむいた。あの震災を思い返したのだろう。


「―――でも、関心しませんね。煙草は体を壊します。分かっているでしょう?」


「分かってますよ。でも、季節の変わり目に一本吸う位です。大目に見て下さい」

 

 はいからさんは黙ってヒマワリの様な笑顔で頷いた。なにか大人の余裕の様なものを感じた。



 ―――一方、社務所裏。



「どういうつもりよ? 明美? カツアゲでもする気?」


「アンタにそう言うことして、無事だった奴を私は知らないなぁ~」


「まぁ、良いわ。で、浩ちゃん殴れたの?」


「えっ―――なんで分かるの? 透視でもしたの?」


 鈴は大きくため息をついた。


「何年の付き合いだと思っているのよ? アンタ、顔に全部出るんだよ。で殴れた?」


 鈴の言葉に明美は両手を拳に握りしめ、全身に力を込めて悔しさに顔をしかめる。そして、溜め込んだ悔しさを吐き出すように叫んだ。


「―――っ! なんなのよ? あいつ! 目を瞑らせて、至近距離から渾身の正拳出したのに、柳に風みたいに避けたのよ! 目を閉じたまま! どんな化け物よ? アイツ?」


「目を瞑らせて、正拳ーー? アンタ、日本拳法の有段者じゃない? エゲツないわね。そんなに腹が立ったの? でも、着物で正拳突きは足を開けないから無理よ。避けられたんなら転んだ筈だけど、着物、汚れてないわね?」


「いやーー。突っ伏して頭からダイブする所を、神崎に抱き留められちゃった♪」


 頭に手をやり、明美は「てへっ♪」と照れ笑いをした。その笑顔が凍り付く。


「―――ほう。抱かれたと?」


 鈴香の目が細くなり、その全身から冷気が放たれる。


「わたし、アンタに初めて殺意を抱いたよ」


 じわりと鈴香は明美に歩みよる。明美は見る見る青ざめ後ずさる。


「ちょ、ちょっと、待って! 鈴。その薄ら笑い怖いよ。殺すなら杉浦先輩やりなさいよ!」


 鈴香は足を止めて、一瞬、空を仰ぐ。


「駄目よ。アンタを殺しても、浩ちゃんは許してくれるけど、杉浦さんに手を出せば,絶対許してくれないもの。ここでアンタに鬱憤晴らしても許されるわよね?」


「殺気まき散らして嗤うなぁーーー! 命の価値に差はないわよぉぉーー!」


「―――何、寝言を言っているのよ。命に生まれながら価値の差があるのは当たり前じゃない? 地球より重い命なんて無いのよ」


 鈴香はにこやかに微笑んだ。冷気を撒き散らしながら。


「―――待って! 待ってよ、鈴香! 私はあんた達の恋のキューピットをしようと思っているのよ!」


「浩ちゃんに胸や腰を抱かれたキューピットなんか信じないもの」


「聞いてよ! 鈴! 頼むから! 今晩、あんた達がムーディーにベッドイン出来るようにセッティングして上げるって言っているのよ!」


「―――――――――」


 鈴香は歩みを止めた。見つめられる者の生命力を奪うような視線で明美を見据える。


「どうどう。鈴。落ち着いた?」


「―――どういうプランニングなの?」


 低い声で鈴香は尋ねる。明美は頬に冷たい汗を流しながら、無理に笑顔を作って、右手を握って親指を立てた。


「今、アンタ達に必要なのは既成事実よ! 避妊もなしでやりまくるのよ! そうすれば、杉浦先輩と同じスタート地点よ! いえ、むしろ周回遅れで引き離せるわ」


「ストレートと言うか……オブラートに包まないと言うか……。下卑た発言ね。でも、わたしもそれを考えてない訳ではないのよ?」


 鈴香はこぼれる笑みを右手で隠して俯く。頬が朱に染まっていた。明美にはそれが、とんでもない悪戯を思いついた悪ガキのように見えた。


「……鈴。アンタさぁ~、何か邪悪なこと考えているでしょう?」


「いいえ」鈴は顔を上げてにっこり笑う。「でも、そう言うことなら、天竜寺ではなるべく二人きりにして欲しいわ。大事なイベントがあるの」


「イベントぉー? あんな所に何か仕掛けたの?」


「天竜寺はね、彩宮の家と関わりがあるのよ。ハイカラさんを抑えてね。得体が知れないから、あの娘―――」


「あれ? 鈴、気が合ってたみたいやん? ちょっと天然入ってるけど良さそうな人じゃない?」


 その言葉に鈴香は大きくため息をつく。


「明美……。貴女、あの女性がまともな人に見えたの? 話の齟齬にも程があるでしょう? 伊達君は薄々気付いているようだけど」


 その言葉に明美は青ざめる。


「―――まさか、幽霊だと言うの? ちゃんと体あったよ」


「幽霊? 違うわね。分かり易く言うなら、彼女はシュレディンガーの猫よ。観測者たるわたし達は、あちら側に踏み込んだ人間だからね。だから認識出来る」


 小首を傾げながら言う鈴香に、明美はポカンと口を開ける。


「えっと……シュワルツェネッガーの猫?」


 鈴香は盛大に吹き出した。


「筋骨隆々とした未来から来た殺人猫ロボット? あはは。お腹痛い。ビジュアルがドラえもんと繋がっちゃうよ!」


 ツボに入ったのか、鈴香は身をよじって笑い続ける。明美は頬を膨らました。


「なによー。笑うことないじゃない。私、理系ではないんだから、そんなややこしい名前噛むわよ!」


 鈴香が笑い止まないので、明美は聞きたい事を訊いた。


「―――で、はいからさんは何者?」


「人間よ。わたし達がそう思っている内はね―――」


「思わなかったら?」


「その思考の切り替えはわたし達には出来ないわ。貴方たちは夏の一件で、わたし達は生まれた時から、あちら側を認識してしまったからね。ただ、あの女はわたし達に危害は加えない。見たとおりのお嬢様よ。迷子になっているのも嘘じゃない。普通に接して良いけど、電電宮で現れたからには意味がある。だから、天竜寺では貴女が抑えておいて。頼むわよ。明美」


「―――良く分からないけど、任された! 安心して鈴」


「ありがとう。じゃぁ、戻りましょう。でないと浩ちゃんが心配して来るからね」


 内密を交わして鈴香と明美は境内へ戻った。


(二)

 庫裏の裏から鈴ちゃんがいつも通りの涼しげな冷気を放って現れた。その背後から現れた姉御は妙に胸を張って気合いが入っている。呆然とそれを見ていた僕と伊達は、自然に視線を交わすと、同時に大きくため息をついた。あれは暴走機関車モードだ。本人に悪意が無くとも周囲に与える被害は甚大だ。そして面子から考えて、その被害は伊達と僕に降りかかるに決まっていた。僕は煙草の臭いが残っていないか気になった。


「お待たせ。行きましょうか」


 鈴ちゃんが凛と言い放つ。さっき号泣したことなど信じられない挙動だった。

 僕と伊達は無言で荷物を持って立ち上がる。


「次はどちらへ行かれるのでしょう?」


 まるで他人事のようにのほほんとした口調で、はいからさんが邪気のない笑顔で尋ねる。


「ちょ、ちょっと! 貴女ねぇ。忘れたの? 貴女、迷子なんでしょう? この冷血な鈴が道案内しようなんて驚天動地のことなのよ! 貴女、行きたい場所とかないの?」


姉御が、がなり声を上げた。


「と申されましても……」


 はいからさんは人差し指を顎にあて、首を傾げる。どこか表情が弛緩していた。


「嵯峨野は初めてですし―――夜行で嵐山に着いたら、なんと申しましょうか? 粗暴な男の方々に追われてしまいまして、文の入った鞄は無くしてしまいましたので、どこへ行けば良いのやら?」


 はいからさんは他人事のように言う。ひまわりのような笑みを浮かべて緊迫感がないが、こちらとしても聞き逃せる話ではない。


「追われていたとは穏やかじゃないですね。何か心当たりはありますか?」


 そう僕が尋ねると、はいからさんは笑みを浮かべたまま首を傾げる。


「―――さぁ? でも、お父様の放った追っ手かもしれませんわ」


 反応のぬるさに軽い頭痛を覚えて、僕は黙って耳の後ろを掻いた。ふと隣の伊達を見る。厳しい表情で俯いている。はいからさんの足下を凝視しているのだ。なるほど。確かに影がない。僕は困惑の視線を鈴ちゃんに投げた。鈴ちゃんは視線で頷くと、はいからさんに声を投げた。


「思い人とお待ち合わせのお約束だったのですよね? それでお父様から追っ手がかかると言うことは『みちゆき』をなさるおつもりでしたのね?」


 はいからさんは、ここで初めてはっとした表情を浮かべた。ありありと動揺していくのが分かる。


「―――いやだ。わたし、どうして健吾さんのことを忘れていたのかしら? 文の一言一句覚えていたのに……思い出せないなんて……」


 はいからさんは、白昼に龍を見たように青ざめて俯く。僕たちは無言ではいからさんを囲み、しばし彼女を凝視する。


「夜に嵐山駅に来られたのですね? どうやってお逃げになったの? 貴女は一晩どこで過ごされたのかしら? なにか覚えていることはあるかしら?」


 鈴ちゃんは怜悧な声で、名医がメスを振るうように、はいからさんの心へ踏み込む。


「ミルク色の濃霧が……足下も見えなくなるような白い霧に包まれて……まるで夢の中を彷徨う心地がして……」


 そこで、はいからさんは、はっと顔を上げ、幽霊を見るように僕たちをしげしげと見回した。


「これは夢ですか? あなた方は人ですか? 夢なら得心が行きます!」


 怯えた子猫のようになったはいからさんは、逃げ場を捜す。聞きたいのはこちらだ。『貴女は人ですか?』と。


「怯えないで」


 鈴ちゃんは胸にずんと響く低い声で言った。そうして、そっと、はいからさんの右手を取り。両手で包むようにして、自分の頬へはいからさんの右手を押し当てた。動揺するはいからさんを、至近距離から、その眼力で縛って優しい声色で尋ねる。


「―――温かい?」


「あっ―――! は、はい。とても温かくて柔らかいです。すいません。失礼なことを言いました」


「いいのよ。これは夢よ。そう思いなさい。『胡蝶の夢』ではないけれど、人生だって泡沫の夢のようなものよ。でも、夢で思い人に会えるなら、それに超したことはないでしょう?」


 はいからさんが鈴ちゃんを見る目が、畏れから、幼子が母親を見るそれに変わった。


「ここでわたしと出会ったのも縁と言うもの。付いていらっしゃい。きっと思い人に会えるわよ」


「―――はい」と答えたはいからさんの目には涙が浮かんでいた。




「天竜寺へ向かいます」


 鈴ちゃんは、はいからさんにそう告げた。


 先ほどの理解不可能な会話の後だと、それはまるで託宣のように聞こえた。



『人払いの結界』



 鈴ちゃんが張ったと言うそれが、どういう代物なのか、僕には分からない。ただ、その効果は如実に表れていた。


 天竜寺へ行くには、再び渡月橋に戻り、橋を渡る必要がある。遠目で見ても芋の子を洗うように人が群れている。僕は又、鈴ちゃんが臍を曲げるのではないかと危惧したが、それは杞憂に終わった。


 確かに人混みはある。歴然とごった返している。ところが、その人混みの間にエアポケットのように無人に近い空間が生じるのだ。そして僕たちは常にそのエアポケットの中に居た。僕たちの周囲10メートルは常に人は皆無に近かった。もちろん、僕らだけがそのエアポケットに居る訳ではない。まばらに数名の観光客がいる。その観光客達は振り袖姿の鈴ちゃんと明美に興味を抱かない。まるで見えていないかのようだった。おかげで好奇の目を向けられることもなく、僕たちは散策を楽しむ余裕すら得て、天竜寺へと向かうことが出来た。


『絶対零度の魔女』


 鈴ちゃんの通り名は伊達ではなかった。実際、この奇跡のような状況は魔法じみて感じられた。鈴ちゃんがしずしずと先頭を歩む。顔は正面に向けられて、およそ隙と言うものが感じられない歩みであった。


 その後を僕と伊達が荷物を持って続く。


 明美ははいからさんの横にぴたりと付いて、しきりに話しかけていた。射法八節で話が合ったらしい、二人は談笑しながら言葉を交わしている。着物と袴姿と言う点を除けば、この二人は嵯峨野観光を楽しむ若い女性となんら変わることがない。まぁ、射法八節で話が弾むと言うのは、あんまり普通とは思えないけれど……。


 嵐山公園の櫻は満開でピンクの靄がかかっているように見える。それを横目に橋を渡り、まっすぐ道なりに歩むと天竜寺の巨大な伽藍が見えて来る。創建当時は嵐山地区の殆どが、その境内にあったと言う古刹である。その存在は政治の世界にも大きな影響を与えて来た。


 現在の伽藍は殆どが明治時代に再建されたもので、規模も最盛期の四分の一と言われるが、京都五山の第1位に数えられることもある壮大なものである。元々は後嵯峨天皇と亀山天皇の離宮があった場所で、背後の亀山を取り込んで作られた庭園は当時のままの姿を今に伝えると聞く。亀山は霊山であり修行の場でもあった。今はこの両天皇の御陵が庭の景観の一部になっているが、ここに天皇陵があることは意外なまでに知られていない。




 この大伽藍の創建には逸話がある。


 後醍醐天皇を吉野の山中に追いやり、自ら征夷大将軍となった足利尊氏が禅僧・夢窓疎石に吉野で憤死した後醍醐天皇の菩提を弔うために寺を建立してはどうかと進言したことを受け、憎んで余りある後醍醐天皇のために、正に国を賭けて建立に望んだのだ。その心境は尊氏にしか分からない。ただ、尊氏も夢窓疎石も自ら土を運ぶほどの情熱を傾けた。だが、その大伽藍は金閣寺を建立した足利尊氏にとっても、財政破綻を起こす程のものであった。


 夢窓疎石は多くの大商人を口説き、尊氏は途絶えていた宋との貿易船を復活させた。所謂、天竜寺船である。


 尊氏は武士による新たな政治に燃えていた。又、夢窓疎石も南都六宗の腐敗した仏教界を禅宗の力で一新しようという野心があったことはいがめない。禅は武士階級に広く行き渡ったが、足利尊氏の理念は引き継がれず、水戸国学により天皇を追い払った希代の悪党とされ、維新の志士達の行動原理を起こすに至った。皮肉としか言いようがない。


 蛤御門の変では長州の志士が天竜寺に籠もった結果、天竜寺は焼失している。これも歴史の皮肉かもしれない。




 そんな歴史の復習をしながら歩いていると、天竜寺の門に着いた。参拝者用の旧来の門は驚く程小さい。その門の横に駐車場へ向かう大きな門がある。そちらが正門だと思ったのか、観光客は皆ぞろぞろと大門を潜る。おかげで参拝者用の門を潜ったのは僕達一行のみだった。参道は長く正面に独特の造りの庫裏がそびえている。人払いの結界のおかげなのか、参道に人の姿は無い。参道の右側には庵とも寺ともつかぬ建物が並んでいる。と、鈴ちゃんがぴたりと足を止めた。


 理由は僕にはすぐに分かった。前方300メートル前に真新しい朱の鳥居が見えた。気で分かる。弁財天だ。そして、いつ現れたのか正面に渋い紺の留め袖を着た30代前半の女性が庫裏の方向からこちらに歩んで来る。紫の風呂敷に四角い箱を入れている。


 遠目でもその女性は目立った。背筋がピンと伸び、立ち居振る舞いに凛とした筋が通っている。人の域を超えた霊格を感じさせる細身の女性だった。女性は立ち止まる僕達に黙礼すると、自然な動きで弁財天の中に入り、柏手を響かせた。弁財天から出て来た女性は、そのまま歩を進めて、僕達の横を通り過ぎた。


「ようお参りやす」


 頭をさげてた。僕達も無言で頭を下げたが、その女性の気品に比べると、下卑たものと言わざるをえなかった。


「―――凄いな」


 僕は嘆息を交えて言った。どうしても僕は剣道を基準に考えるのだが、その女性は遂に打ち込む隙を見せなかった。


「―――あんな怪物。いるものなのね。負けたわ。わたしはあの域に達せられない」そして、首を捻る。「―――本当に人間なのかしら?」


 さらりと怖いことを言う。


「おいおい。怖いこと言うなよ。少なくても……影はあったよ」


 苦笑いする僕に、鈴ちゃんは食ってかかった。


「だって、あり得ないわよ。あの霊格で肉の枠に収まるはずがないんだもん!」


「―――まぁ、何だって起こりえるさ。京都だしね。僕は何でも受け入れるつもりでいる」


「―――至言ね。なら、良いわ」


 珍しく鈴ちゃんはすんなりと引き下がった。そして視線を朱の鳥居へ向ける。

 弁財天は最近立て直されたのか、真新しく鮮烈な気を放っている。これは無視して通れない。


「神崎君。お参りしていきましょう」


 鈴ちゃんが微笑んで言う。


「二人で? 不味いだろう? 弁財天だぜ。やだよ。嫉妬されて別れさせられるのは」


「確かに、棕谷宗像いちたにむなかた神社と繋がりがあるんでしょうね。でも、弁財天じゃないわ。これは祓戸大神よ。ここで筋を通せと言うことなのでしょう」


(―――行くしかないのか)


 僕は無言で石畳の階段を登った。ぴったりと鈴ちゃんが付いて来る。二人して並んで柏手を打つ。僕達はすでに様々な神社を回っている。互いの呼吸は合わすまでも無い。二人は同じタイミングで柏手を叩き、同じタイミングで一礼する。顔を上げるのも同時だった。


 確かに弁財天の厳しさはない。頭の上で榊を振るわれた心地がした。僕達は後ろ向きに後退し、鳥居で再度、一礼するとくるりと反転して階段を下りた。降りると、はいからさんが目を丸くしていた。


「お二人は神道をなさっているのですか?」


「―――いいえ」


 鈴ちゃんは冷えた声で答えた。


「あんなに息の合ったお参りは初めてみました!」


「まぁ、寺社仏閣は良く行くものですから……」


 僕は照れ隠しにそう答えたが、鈴ちゃんは表情の消えた顔で視線も向けない。


「明美、伊達君。次はあなた達がお参りしなさい。間違えても願掛けするんじゃないわよ」


「え~? なら拝む必要ないじゃん。功徳がないんだろ?」


「功徳が無くても祟るくらいはするかもよ。ここは入り口なの。チェックインはしないとね」


 祟りと言う言葉に伊達の表情が一変する。無理もない。夏休みは呪詛との戦いだった。

 伊達と明美は真剣な表情で頷き合うと階段を上がった。不揃いの柏手を聞きながら、鈴ちゃんは、はいからさんに言った。


「はいからさん。貴女は願掛けしなさいね」


「―――え? でも願掛けはするものじゃないとおっしゃりませんでした?」


「貴女は別よ。半分向こう側だしね。こう願をかけなさい『道を開いて下さい』と」


「―――道をですか?」


 鈴ちゃんは真摯な表情で頷いた。

 はいからさんは、じっと鈴ちゃんを見つめていたが、きりりと答えた。


「分かりました」


 はいからさんのお参りの仕方も堂に入ったものだった。毎日、神棚でも拝んでいるのではないだろうか? でないと、ああも自然体で拝めるものではない。底の知れない女性と言えた。ああも真摯に拝まれては、神様も感じ入るだろうと思わせた。


 目を細めてその様子を鈴ちゃんは慈愛が籠もった眼差しで詰めていた。僕は少なからず驚きを覚えた。『絶対零度の魔女』。高校一年生の夏休みにはその通り名が全校に広がっていたのは伊達ではない。神秘的な美貌は超一級品だが、喋りかけるだけで、その冷え切った青光りのする目で相手を射貫く。射貫かれた者は言葉を失い背骨が凍り付いたように固まってしまう。文字通り近づきがたい美少女だったのだ。加えてルーン占いを嗜み、その的中率は外れなしと囁かれていた。姉御がいなければ、鈴ちゃんは高校三年間を全く友人を作ることなく終えただろう。明美がはばかり無い笑顔で、自分の友人や占いを望む女学生を鈴ちゃんに押しつけたので、性格が人嫌いで無いことは認知されたが、通り名が変わることは無かった。それほど筋金入りの冷徹な視線に慈愛が溢れる様子など、恋人である僕ですら滅多にお目にかかれない。鈴ちゃんの洞察力と直感は常人の域を超えている。鈴ちゃんは、はいからさんの正体も素性も見抜いているのかもしれないと僕は思った。




 はいからさんがお参りを済ませて石段を下りて来ると、鈴ちゃんは高らかに言った。


「さぁ、龍を見に行くわよ!」


 瞳が爛々と輝いている。何故か、彼女の機嫌は良いものに代わり、彼女らしからぬハイテンションになっているようだ。


 もう、眼前にある法堂に僕らは向かった。法堂は仏教を学ぶ巨大な教室だと思えば良い。参拝客は法堂内には入れない。木戸越しに天井に描かれた雲龍図を見る。その瞬間、僕は強い視線の波動を受けて、思わず後ずさりした。法堂の天井で渦巻く巨大な龍が僕を睨み据えていた。


(本当に人間が描いたのか?)


 そう思った。傍らに息を飲んで雲龍図を凝視している鈴ちゃんに言った。


「なぁ? この龍、本当に生きていないかい?」


「―――生きてるわね」


 雲龍図を見上げたまま、鈴ちゃんは答える。目の輝きが増している。


「平成に入ってから落款したと聞いたけど―――凄いわね。平成の世にこれだけのものが描ける人が居たなんて、信じられないわ」


 僕は慌ててパンフレットに目を通す。加山又造画伯の手による渾身の力作とある。平成9年に落款したとある。


「平成9年? ―――震災から二年後じゃないか!」


「そうね。多分だけど、そう言うことも頭にあって描いたんじゃないかしら? 彼の名は向こう百年残るでしょうね。歴史に名を残すような日本人がまだ居たんだね」


 鈴ちゃんの声には珍しく感動の響きが感じられた。彼女は答えながらも雲龍図から視線を外さない。そう言えば、幼い時の鈴ちゃんの遊び相手は食客の若い日本画家だったと聞く。日本画への思い入れが強いのかもしれない。僕はそっと鈴ちゃんの横を離れ、回廊へ出る。鈴ちゃんの『人払いの結界』が作用しているのだろうか? 回廊に人はまばらだ。他の連中はどうしているのかと周囲を伺う。伊達は厳しい顔つきで、回廊をぐるぐる回っている。四方の一角で止まっては親の敵を見るような目つきで雲龍図を睨み上げ、又、移動する。


(犬か? あいつは?)


 呆れてそう思う。伊達の保護責任者の姉御はと見ると、はいからさんと手を繋ぎ、嬌声を上げながら、「あっ、こっちから見ても、龍が見てるよ~♪」とハイテンションである。育児放棄も甚だしい。無理矢理、腕を引っ張られているように見えるはいからさんは、明美に言われて雲龍図を見上げる度に、困っているような、戸惑っているような、形容し難い苦笑を浮かべている。


 どうやら、姉御ははいからさんのケアに徹するつもりらしい。


 野犬となった伊達は回廊をぐるぐると回っていたが、やがて立ち止まると、うんこ座りで天井の龍にガン付けを始めた。顔も粗野に歪めてけんか腰である。魂を清める名刹でヤンキー化するのは止めて欲しい。まばらな観光客も遠巻きにして恐れている。僕はため息をつくと、伊達の後ろに回った。ガン飛ばしに懸命になっている伊達は気づかない。仮にも鳴神あさぎ先生の下で三年間剣を学んだにしては未熟の一言に尽きる。


 僕は無言のまま伊達の後ろ頭につま先蹴りを放った。伊達は盛大に頭から倒れ込み、障子戸の敷居にしたたかに額を打ち付けた。ちなみに、つま先蹴りは素人がするものではない。足の指を拳固を握る様にしっかりと曲げておかないと、頭のような堅いものを蹴ると足の指を折る。まぁ、後ろ頭を蹴るなら、かかと落としの方が良いが、それでは伊達が気の毒だ。下手すれば、頭蓋骨陥没である。従って、敢えてつま先蹴りにしたのは伊達への僕の思いやりである。しかし、伊達は僕の友愛に感謝するでもなく、おでこを抑えたまま倒れ込んで動かない。大袈裟な男である。


「おい、伊達。そんな所で倒れ込んだら、他の人に邪魔だ。早々に起きろ」


「――――――お・ま・え~。何しやがる? 俺に恨みでもあるんか?」


「恨みか―――多々あるな。かかと落としの方が良かったか? まぁ、お前こそ何をしている? ヤンキーは卒業したんじゃないのか? 誰にガンつけしているんだよ? 公共の面前で馬鹿やってるんじゃねぇ!」


 僕は静かに怒気を放った。伊達は条件反射で、きちんと立ち上がり言った。


「あの龍! 俺にガンつけやがった。どこへ行っても睨みやがる。俺はもう負けないと決めたんだ!」


 ―――駄目だ。こいつ馬鹿になっている。


 僕は耳の後ろをポリポリと掻き、周囲に救いを求める。ここは現役の禅寺だ。救いの神様くらいいるはずだ。姉御の姿が、真っ先に目に入った。はいからさんと一緒に呆然と僕達を見つめている。僕は姉御に目で救いを訴えた。姉御は困ったように微笑むと、僕に向かって両手を合わして、深々と拝んだ。僕は即座に鈴ちゃんを捜した。表情の無い顔で天井の龍を真摯に見つめている。振り返りもしない。神は我を見放した! 跪いて天を仰ごうかと思ったが、それでは伊達と変わりない。


「あのな? 伊達……。パンフレット読んだか? あれは八方睨みの龍と言って、どの方向から見てもこちらを見るんだよ」


「そんなもん、描ける筈がない!」


「描いたんだよ。人の身で。龍を封じたんだ。50年も経てば国宝指定もんだ。分かったか? 分かったら、行くぞ。旅の恥はかき捨てと言うが、巻き込まれるのはゴメンだ。恥は一人で背負ってくれ。それとも3年振りに僕の鉄拳味わうか?」


 伊達の顔色が青ざめる。


「ごめんだ。勝てない喧嘩はしない。ただな、神崎よ。ああ言うものにもう負けないって言う俺の気持ちを汲んでくれ」


 夏の体験を踏まえての言葉だろう。


「……分かるがね。TPOを弁えてくれ。やるんなら一人でやれ」


 伊達は頷きながら、額をさすりながら立ち上がった。


(三)

 僕たちは大方丈へ向かうべく庫裏へ足を向ける。春の陽差しの中、庫裏はそびえるように大きい。これ程の大きさの庫裏はそうあるものではない。その姿は異形とも言える。鋭角の屋根の上には、大きなうだつがある。梲は平屋家屋しかなかった時代に、煙突代わりに梲を建てた。もっとも、誰でも梲を建てられた訳ではない。許可を得た豪農・豪商のみが建てることが出来たものだ。「うだつが上がる」とは、このことから生じた言葉でもある。白い漆喰が陽光を浴びて目を射る。門を潜り、中へ入るとひんやりとした空気が僕たちを包む。

 伊達が怯んだように後ずさった。僕と鈴ちゃんも立ち尽くした。


 睨んでいた。巨大な達磨が眼を爛々と輝かして僕たちを睨み据えていた。


 それが屏風絵だと気づいたのは、一瞬、後だった。思わず吐息が漏れた。


「……凄いな」


 そう評するしかなかった。目を見開いていた鈴ちゃんも無言で頷くだけだった。僕たちはそれを合図に、靴を脱ぎ、下足箱にしまうと、スリッパに履き替え大方丈へ向かおうとしたのだが、ここで又、奇行に走る奴がいた。言うまでもない。伊達である。伊達は土足のまま土間にうんこ座りをして、達磨さんと睨めっこを始めたのだ。今度こそ踵落としだなと思っていると、受付の若い僧侶と目が合った。苦笑いを浮かべている。


「すいません」


 そう頭を下げると、「お気になさらずに、先に方丈の方へどうぞ。ああ言う方は希におられますが、なに、5分も保った方はいらはりません」そう答えた。


 僕は乾いた笑顔で後ろから伊達の背中を見ている姉御に、目線で先に行くぞと知らせると、姉御は頷き「ゴメン」とばかりに合掌して頭を下げる。その後、鈴ちゃんとも何やら意味ありげなアイコンタクトをしていたが、気にしないことにする。


 気の毒なのは、はいからさんで、姉御に手を握られているので逃げられず、羞恥に頬を染めて項垂れている。はいからさんは付き合う必要がないだろう。そう思い、声をかけようとすると、そのタイミングを見取ったように、鈴ちゃんが僕の手を握り、短く「行くわよ」と言った。こうなると僕は首輪をつけられた犬に等しい。鈴ちゃんの掌は柔らかく温かだった。男とはまるで違う、柔らかで小さな手は、今まで何度も握っているのに、優しく細心の注意を払って握り返さないと、幻のように霧散するような儚さがあった。僕は極力優しくその手を握り替えした。はいからさんのことは頭から霧散していた。




『方丈』と言う言葉に耳馴染みの無い方も多いだろう。主に禅宗のお寺で使われる言葉で、本堂と客間が一緒になった家屋を指す。天竜寺の場合、大方丈と言う位だから、家屋の大きさも相当の規模になる。達磨が居た庫裏は言わば玄関口だ。


「こっちよ」


 鈴ちゃんは僕の手を握ったまま、すすと摺り足で前へ出る。歩調に迷いが無い。まるで自分の家であるかのように進んで行く。


 と、突然、視界が開けた。


 そこは大広間だった。回廊越しに、大きな池のある見事な日本庭園が一望出来る。その素晴らしさに僕は言葉を失った。


「座りましょう」


 広間の中央で鈴ちゃんは呆然とする僕に、そう言葉をかけた。鈴ちゃんは流れるような仕草で、着物を折り畳んで正座する。それに倣って、僕は鈴ちゃんのすぐ隣に正座した。

 鈴ちゃんは、そんな僕を見てクスリと笑う。


 僕は何か粗相をしたのかと思い「なに?」と鈴ちゃんに問いかけた。鈴ちゃんは慈愛に溢れた観音様のような微笑みで僕を見つめている。


「足を崩して良いのよ。楽な姿勢でくつろいで頂戴」


 思わず僕は目を丸くした。こんなに優しげな表情と声色で接しられたのは、付き合ってから初めてだ。恋人に優しくされて、裏を考えてしまうと言うのも如何なものか?


「でも、鈴ちゃんは正座じゃないか?」


「わたしはこれが一番落ち着くのよ。回りを見てみなさい」


 言われて僕は他に観光客が居たのに、ようやく気づいた。大広間に5人の観光客が居た。あまりに少ない。これも鈴ちゃんの人払いの結界の賜物なのだろうか?


 二組の若いカップルと大きな一眼レフのカメラを持った老人がいるだけだ。皆、弛緩した姿勢で日本庭園を眺めていた。開け放たれた障子戸から入る風が心地よい。僕は大きな吐息を付くと、力を抜いてあぐらをかいた。


 鈴ちゃんは相変わらずそんな僕に慈愛の視線を送ってくる。


「……和むでしょう? ここ」


 う~ん。何なんだろう? 『絶対零度の魔女』なんて気配もないぞ。鈴ちゃんは弛緩したら、こうなるのか? こう側にいられると、着物ごしにも、むっちりとした肉感の太ももに目が行く。膝枕とかして貰ったら気持ち良いだろうな~と不埒なことを考えていると、鈴ちゃんが笑顔で言った。


「ここじゃダメ」


 吃驚した。ああ、吃驚した。何? 心を読むの? この娘?


「貴方の考えることくらい分かるわよ? モーゼの十戒は守ることね。汝、目にて視姦するなかれってね」


 お見通しか……余程、ガン見していたんだな。僕は庭に視線を移して、耳の後ろをポリポリと掻く。


 鈴ちゃんはクスリと笑った。


「―――二人きりになったら、してあげる」


「えっ?」


 振り返った僕は余程喜色に溢れた顔をしていたのだろう。鈴ちゃんはぷっと吹いた。


「浩ちゃん。分かり易すぎ!」


「―――凹んで良いかな?」


「ダ・メ。それより気づかない?」


「―――ああ。もしかして、気の流れ? ちょっとした聖地だね。この広間」


「分かっていて、女の太ももに見入るとは、とんだ久米仙人ね。」


 クスクスと鈴ちゃんは笑う。恐ろしい程に機嫌が良い。


「この日本庭園は創建時から、まるで変わっていないそうよ」


「へぇ」と僕は嘆息した。背後の山並みまでもその景観に取り入れた見事な庭園だ。陰陽五行の思想により池や岩磐が配置されている。背後の山並みも只の山ではない。その気は霊山のそれに近い。その気を陰陽五行の理に乗っ取って、自然に無理なく取り込んでいる。そのため清冽な霊気が庭で増幅されて、それが風に乗って広間へと流れ込んでいるのだ。それは人をして柔らかに包み込む柔和な気に変わっている。広間にいる人は雑念を忘れ、弛緩して庭へ魅入る。この庭を毎日眺めていたら、それだけで悟ってしまうのではないかと思われた。


「元々は嵯峨天皇の離宮だったそうよ。だから、嵯峨野と言うのね」


「―――嵯峨天皇?」


 僕は顔を鈴ちゃんに向ける。


「じゃぁ、空海が関わっているんじゃないかい?」


「正史にその記述はないけれど、関わっていると思うわ」


 鈴ちゃんは桜の花で桃色の靄にたなびく山並みの頂きを指さす。


「・・・・・・見えるかしら? 頂きの稜線に等間隔で岩磐が並んでる」


 僕は目を細めた。見える。ここから見えるのなら相当の規模の岩磐だ。


「古代からの霊場だったと思うの。あの山並みは大昔から禁足地だしね。あれを空海が利用しないとは思えないの」


「だね。彼はちゃっかりしていたそうだから。―――ああ、それなら電電宮が虚空蔵求聞持法で、明星が落ちた場所とされるのも納得出来る」


「―――理屈はともかく、ここは人の心に平安を与えるの。客をもてなすには最高の場所だと思わない?」


「つくづく思うね。暫くここで居眠りをしたいよ」


 大きく伸びをして頷く僕に鈴ちゃんは笑った。


「仏法では惰眠を貪るのは厳しく禁じていたと思うけど?」


 僕はあぐらの姿勢で背を後ろに倒し、両手で弛緩した上体を支えていた。たおやかな気分で鈴ちゃんを見る。自然と微笑みが浮かぶ、鈴ちゃんは僕に慈愛の微笑みを返す。満ち足りた気分になった。


 僕は時間と言う概念を忘れた。

 忘我の境地でただ庭を見る。


 見ていると、桜の花びらが一枚、ゆっくりと風に漂い落ちて来た。花びらは陽光を照り返し、天女が舞うようにゆるりゆるりと落ちて来る。僕はそこに永劫と刹那を同時に感じた。二律背反するそれが同じだと感じた時、何かが分かったような気がした。とは言え、頭で理解したのではない。僕は庭全体を見つめて忘我の中にいる。目の端で桜の花びらの舞を捕らえたにすぎない。些細なことだ。畳の感触が紫雲の上のそれに変わる頃、見計らったように鈴ちゃんが言った。


「ねぇ。庭を回りましょう」


「ああ」と頷いたものの、僕は半ば寝ぼけた状態で腰が上がらない。僕は肉の重みを失い魂魄だけのようになっていた。鈴ちゃんは微笑みを浮かべたまま、右手で僕の左手首を掴むと、そっと持ち上げた。僕は本当に魂魄だけになっていたのかもしれない。鈴ちゃんは、さして力を入れていないのに、僕の体は軽々と持ち上げられた。鈴ちゃんは顔を近づけて言う。


「行きましょう」


 僕は左手首を掴まれた姿勢で鈴ちゃんに誘われる。なんだか、鈴ちゃんが僕を涅槃へ導く観音様のように感じられた。




 親切と言うか、天竜寺には庭を巡る回廊が設置されていた。スリッパのまま広い庭の外周を回れるように設計されている。回廊には船底天井の屋根があり、床板には赤いフェルト地の絨毯が敷かれている。もっとも、色はほとんど抜け落ちていて、元の色が赤かったのだろうと推察出来るだけの代物だ。それでも、これだけ広い外周を回廊で覆い、その床に絨毯を敷くと言うのは贅の極みと言えるだろう。




 回廊は緩やかな坂を登るようになっている。こうして回って見ると、ここの庭園の奥深さが良く分かる。見る場所、見る場所で表情が変わるのは当然として、どの位置から見ても完璧に調和の取れた顔を崩さない。奥まった所へ行くにつれ、樹木が増え、神韻渺々たる気配が強まる。静けさの中に響く自然の音、風のうねりや鳥の声すら庭の世界観に取り込まれているのだ。自然、僕は口を開くことを躊躇う。鈴ちゃんに至っては、最初から無言だ。いや。その佇まい、歩の進め方が庭と一体になっている。僕は改めて鈴ちゃんに感嘆した。禅の境地とは体現するもので、言葉にするものではないと聞く。ならば、鈴ちゃんはすでに悟りの境地にいるのかもしれなかった。


 剣道の世界では『剣禅一如』と言う境地が説かれることがある。剣の道を突き詰めれば、禅の悟りの境地に至ると言うのだ。もっとも、剣の師匠である鳴神あさぎ先生はそれを鼻で笑っているのだけど……。


曰く「悟りたいなら、端から頭を丸めて出家すれば良いのよ。剣を取る必要はないよ。わたしのように剣にしか生きる術を見いだせなかった者が行き着く所は自ずと違う。お前もわたしの同類だよ。神崎」


 なのだそうだ。そう語って突き抜けた笑い声で僕の肩を叩いた鳴神先生の嬉しげな表情は、僕の目に焼き付いて離れない。


 雑談の一端で出た戯れ事と思っていたが、今、ここでこうもありありと思い返すところを見ると戯れ事などではないのだろう。禅の悟りに憧憬はある。だが、それは僕の世界とはまるで別の世界だから抱くのかもしれない。


 と、鈴ちゃんの歩みが音もなく止まった。真後ろを付き従っていた僕はどうしたのかと、鈴ちゃんを見る。彼女は船底天井を見上げていた。そのままの姿勢で彼女は言う。


「あれを見てくれる」


 鈴ちゃんの目線を追うと、船底天井に真新しく見える板の敷居があった。椿だろうか? 花の様な文様が彫刻されて鮮やかな彩色が施されていた。


「―――覚えておいて。あれは彩宮の家の印よ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「え? 家紋は違ったよね?」


 そう問うと―――


「華押の様なものよ。もっと呪的なものだけど・・・・・・彩宮の家でも家長クラスの僅かな人間しか知らないわ」


 鈴ちゃんと接していると、血筋とか家と言うものの意識の違い―――いや、格の違いか―――に圧倒される時がある。時代錯誤とかそう言うものじゃない。彼女の場合、それは歴然と息づく現実で受け入れざるを得ない重責なのだ。三代前の先祖を赤の他人のように感じる僕ら凡俗とは違う世界に彼女はいる。彼女と付き合うと言うのは、そう言う別世界の重責を共に担うことに他ならないことを僕はすでに学んでいる。だから、黙ってその文様を細部まで目に焼き付けた。


 鈴ちゃんは背中で僕が素直にその文様を覚えているのを確かめると、顎を引き瞑目する。何かの印を結んだようだが、「見て」と言われなかった以上、覗き込むような真似はしない。鈴ちゃんの喉からくぐもったリズムのある低い音が漏れて来る。呪を唱えているのだ。呪は発声するものではない。呪は自らの内に唱える。その背骨を打ち振るわせるように、自らの内に響かせるものだ。僕は光明真言しか知らないが、教えてくれた高野山真言宗の僧侶はそう言った。


 鈴ちゃんの背中から冷気が溢れ出す。空気がきんと張り詰める。僕は立ち会いに臨む心地で心を鏡のように澄ませた。鈴ちゃんの呪が止まった。静かに僕を振り返った瞳は正に『絶対零度』。感情が読み取れない。


 僕は彼女越しに向こうを見やって息を飲んだ。彩宮の華押から向こう一間、空気が凍っていた。結界だ。何者の侵入も許さぬ厳しい結界だ。


 そっと僕の手を鈴ちゃんが握った。氷のように冷たい。


「行くわよ」


 鋭利な声で鈴ちゃんが言う。僕はたじろいだ。


「えっ? でも、この結界は……」


「彩宮の者なら通れるわ。それ以外は決して潜れない絶対の結界よ」


 鈴ちゃんは有無を言わさず、ぐいと僕の手を引いた。僕は腹を括った。分かっていたことだ。彼女と付き合うには生半可な覚悟では駄目なのだ。




 結界を潜る瞬間、体温を半分奪われた。どんな結界だ? 神域ですら、ここまでの結界は無い。彩宮と言う家系の尋常無さを思い知らされた。


 結界の向こうは闇夜だった。漆黒の闇の世界に変わっていた。驚かなかったと言えば嘘になる。それでも僕は動じなかった。その変化を受け入れた。闇の中にぼっと松明の灯りが点った。目を瞠った。回廊の欄干の向こうの庭に緋毛氈が敷かれている。白装束の武士と女中が緋毛氈の左右の端にきちんと正座して対面を向いて動かない。松明は彼らの後ろでたなめいている。彼らの影がゆらゆらと揺れている。奇態なのはそれだけでは無い。彼らは全員、和紙で顔を覆っていたのだ。僕は欄干から身を乗り出すようにして見た。鈴ちゃんは後ろに控え、口を閉ざしている。僕の正面、庭の奥に白木の社があった。和蝋燭が灯され、紅白饅頭と御神酒が供えられている。その社を背に白無垢の花嫁衣装の少女が僕に対して深く頭を垂れて、お辞儀をしている。細い肩が震えている。


 僕は胸を掻き毟られる思いを抱いた。


 何と言うことしたのだ? 何と言うことを僕は忘れていたのだ。花嫁衣装の小さな娘の横の席は空いている。どれ程の歳月を彼女は待っていたのだろう? 落涙しそうになった。


と、足下で猫が鳴いた。汚れを知らぬ白い毛並み。間違いない。あの古刹で僕を誘い、鈴ちゃんの式を務める子猫だ。淡雪と言うその猫は、僕を見上げると、又、にゃあと鳴き、とんと庭に下りた。下りた瞬間、変化した。紅の振り袖を着た市松人形のような童女となった。下りた場所で正座して、僕に向かって頭を下げる。


 何をなすかは分かっていた。僕はやり残した大きな儀式を終えないとならない。それでも僕は鈴ちゃんを振り返った。鈴ちゃんは真摯な瞳で大きく頷いた。


 僕は欄干を飛び越えて、童女の前に下りた。下りると僕の姿が変わった。羽織袴の姿で帯刀していた。童女はすっと立つ。頭が僕の腰あたりしかない。童女は僕の手を掴んだ。顔を和紙で覆っていた者達は姿勢を崩すこと無く「高砂や~」と謡い出す。童女は緋毛氈の真ん中を通って、花嫁の横へと僕を誘う。僕が幼い白無垢の娘の横に正座する。その花嫁はお辞儀の姿勢のまま、涙を数滴零した。正座した僕を見届けた童女が、僕の後ろに回る。社を拝み、柏手を打つ。そして花嫁の横に回り込むと、ちんまりと正座して、懐から真っ白の晒しの布を取り出し、花嫁の顔を拭く。花嫁はすっと背を正して前を見る。一瞬、垣間見えた横顔は鈴ちゃんそのものだった。松明の光が照らす闇の中、謡が響く。欄干の向こうの回廊は闇に閉ざされ、まるで見えない。その闇から媼と翁の面を付けた二人の男女が現れた。盆の上に白磁の杯と瓶を載せ、差し抱くようにして僕たちの前へ出る。


 僕たちが無事、三三九度を上げると、周囲からすすり泣きが漏れて来た。僕は花嫁を見た。


「―――待たせた。済まぬ」


 そう言うと、花嫁は僕を見た。鈴ちゃんの顔で微笑みながら、大粒の涙をぽろぽろと零した。そして花嫁は僕に向かって深々とお辞儀をする。周りの者達も僕に向かって深々と頭を下げた。その瞬間松明が消え、無明の闇に僕一人が残された。僕は騒がない。静かにまぶたを閉じる。数瞬の間。僕は眼を開けた。古ぼけた社を背に、苔むした土の上に座る自分を見いだす。氷を思わす結界の空気は未だ周囲を覆っている。僕は座ったまま、顔を上に上げる。鮮やかな振り袖姿の鈴ちゃんが僕を見つめていた。先ほどの花嫁同様、微笑みながら涙を零している。僕は回廊へ戻り鈴ちゃんへ近づく。そして、強くその華奢な体を抱き締めた。鈴ちゃんも、顔を僕の胸に埋めて、その腕を僕の背中に回した。


「ありがとう」


 僕は鈴ちゃんに囁く。


「そして―――ごめん。僕は君をも待たせていたんだな」


 鈴ちゃんは僕の胸の中で頭を振る。


「ありがとう。浩ちゃん。これでわたしたちは、ようやく前に進めるわ」


 その時だった。泣きながら感極まった女性の声が僕たちに掛けられた。


「なんて、切ない。そして、なんて素晴らしいお話でしょう。貴方たちは前世から結ばれる縁を結んでおられたのですね……」


 その声は気配もなく、唐突に現れた。「化生か?」そう思い、僕は鈴ちゃんを背に回して、その声に向き合う。鈴ちゃんは声がした瞬間、電気に打たれたかのように背骨を仰け反らせた。僕が手を放した瞬間、猫のように後ろへ飛び退いていた。

 その声の正体に僕らは慄然とした。


 声の主は―――はいからさんだった。


 結界は―――生きている。「何者だ?」心底そう思った。


「どこから入ったの!」


 はいからさんに向かって進みながら、鋭く甲高い声を鈴ちゃんは上げる。僕は身体で鈴ちゃんを押し止めた。結界を破ることなく、ここへ入り、しかも、あれを見ていた。人とは思えない。警戒しなければならない。が、鈴ちゃんは歩みを止めない。僕を押しどけ、僕たちの剣幕に怯んだはいからさんに挑む。鬼神の様な殺気を放っていた。凄い怒気だ。睦言を覗かれた怒りだけではない。彩宮の場に無断で踏み込んだ者への怒りだ。化生の者なら、この場で打ち殺す気であることが読み取れた。


 鈴ちゃんは、はいからさんの襟を掴み持ち上げる。どこからこんな力が出るのか分からない。


「答えなさい! どこから来た? 明美と居た筈よね。名を名乗りなさい!」


 はいからさんは首を締め上げられている。それでも苦しい息の下で名を名乗ったようだ。僕には、その声は聞こえなかった。


「何ですって?」


 鈴ちゃんは驚愕に打ち震える。


「もう一度、名乗りなさい!」


 ますます首を締め上げる。はいからさんの顔は青く充血していた。微かにもう一度名乗ったのは分かった。鈴ちゃんは突然、力を抜いた。どっと床に落ちたはいからさんは激しく咽せ込む。


「―――なんてことなの……」


 鈴ちゃんは青ざめて上を見上げていた。その視線の先には彩宮の家の華押があった。

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