櫻の宴

桐生 慎

第1話 古刹

 (一)

 境内の奥。鬱蒼とした森に囲まれた空き地で、僕こと神崎浩平は呆然と立ち尽くしていた。山辺の道の古刹である。何故か境内には人っ子一人もいない。観光シーズンなのに。



 大学受験も終わり、人心地のついた春休みだった。恋人と言うか、半ばフィアンセとなった彩宮鈴香嬢は、茶道の師範として忙しく、同行していない。おかげで、趣味の一人旅を楽しんでいたのだ。それでも、鈴ちゃんに「明日は山辺の道を歩いて来るよ」と事前報告する辺りは我ながら小心である。


 鈴ちゃんは整った人形のような顔でジッと僕の目を見据えた。『絶対零度の魔女』の異名を取る凍り付くような視線。

 

 見透かすような視線に晒されること数分。鈴ちゃんはふっと微笑みを浮かべた。


「よろしく言っておいて」


「―――はい?」


「わたしもあの辺りには不義理をしてるからね」


 鈴ちゃんが言った謎の言葉が脳裏に蘇る。



「にやぁ」


 又、可愛い猫の声がした。


 どうしたものかと、僕は天を仰いだ。まばゆい新緑の輝きが柔らかな風に揺れていた。僕はぽりぽりと耳の後ろを掻いた。


「にやぁ」


 これで三度目。猫は明らかに僕を呼んでいる。


 僕は吐息をついて、その猫を見た。境内のさらに奥、5メートルほど先に純白の気品ある猫が座って、じっと僕を見つめていた。毛並みも綺麗で、その純白の身体には汚れが一つもない。誰か手入れをしているのだろうか? 僕もしゃがんで猫を見つめる。エメラルドのような瞳は気位の高さを示している。どこか鈴ちゃんに似ている。


 猫の後ろには注連縄が張られていて空き地が区切られている。白い紙のシダがそよ風に揺れている。立ち入り禁止の看板こそないが、注連縄の向こう側が禁足地なのは明らかだった。



 禁足地―――人が入ってはいけない場所。



 神社やお寺の禁足地には二通りある。一つは修行の場や重要な聖地で一般人の侵入を許さぬもの。もう一つは危険だから一般人の侵入を許さぬもの。この場合の危険は、霊的なものと物理的なものがある。崩れた崖でもあれば、観光客に怪我人がでないとも限らない。


 そして強い悪霊でも入れば、精神に異常を来す人も出るだろう。


 この古刹の禁足地は明らかに後者で霊的に危険なものだと知れた。


 注連縄のこちら側と向こう側は空気の色も質も違う。


「―――お前さ、式だろ? 僕なんかに何か用?」


 そう問いかけると、猫は一瞬、微笑したかのように表情を崩した。そして、招き猫のように右手で『おいでおいで』をした。ちなみに式とは使い魔のようなものである。


 それまで微苦笑していた僕は表情を失った。驚いたのだ。驚くと無表情になるのは僕の癖だ。結構それで得をしているが『哲学者』などと呼ばれることもある。そんな小難しい顔をしているのだろうか?


 純白の小柄な猫は優雅な仕草で立ち上がると、注連縄を潜って禁足地に入った。そして立ち止まると、又、僕を振り返り、「にゃあ」と鳴いた。


 こうもあからさまに誘われたら仕方がない。どんな神様の使いか知らないが、この猫には邪気が感じられない。高貴さがある。悪い事にはなるまいと、僕は腰の位置にある注連縄をまたいだ。


 ひんやり。


 結界を潜ると空気が変わった。微かに清い水気を含んだガラス質の空気になった。

(―――なんだ? これ? 聖地の空気だぞ。それもただもんじゃない)


 僕は身を引き締めた。俗世の人間が入って良い空間じゃない。危険な禁足地かと思ったが、この古刹が守るパワースポットなのかもしれない。しかし、僕は俗人である。邪な人間が滝行をすると、流木や落石に打たれることがあると言う。せめて、敬虔な気持ちで歩を進めないといけない。僕は腰のポーチから先祖代々伝わる唯一の品の数珠を取り出し、拝み手でゆっくりと腐葉土を踏みしめながら、白猫の後をついて行った。


 白猫は猫特有の体重を感じさせない足取りで一間先をゆっくり歩む。時折、立ち止まり、僕がついて来ているか確かめる。


 禁足地の中は意外に奥行きがあった。腐葉土の空き地がずっと続いている。天は新緑が覆っている。奥へ進む程に緑が濃くなり、空気の静謐さが増す。微かにせせらぎの音すら聞こえて来る。むせかえるような新緑の香りと土の匂い。清らかな水の気が強くなる。道はなだらかな下り坂だ。そして目の前にせせらぎが見えた時、猫は歩を止めた。


 半眼で気を整えながら歩いて来た僕は、同じく足を止め、目を開いて周囲を見回した。 目の前に幅一メートル程の小川がある。底が見える程に清い水が流れていて、マイナスイオンを出している。猫は川の側の円形の窪みの中心に座り、痛い程の視線で僕を見る。


 そこには崩れた小さな五輪の塔があった。


 崩れてから放置され、随分経っているのだろう。崩れた石は苔むしていた。


「にやぁ」


 今までより、やや強い声で白猫は鳴いた。僕は猫が呼んだ理由を理解した。


 吐息をついて座り込む。リュックを下ろし、中からペットボトルを取りだして咽を潤した。これから一仕事しなくてはならないのだ。


 一息つくと、リュックからスポーツタオルを取り出す。立ち上がり、小川の水にタオルを浸す。水は人に触れられるのを拒むように冷たかった。濡れたタオルを固く絞ると、僕は残っている五輪の塔の台座の苔を落としにかかった、唯一知っているお経・般若心経を唱えながら作業した。正直、鎮魂の思いをかけながらやらないと怖かったのだ。


 白猫は微動だにせず僕を見つめている。


 台座を拭き終わると、倒れている丸石や三角の石も拭く。何度かタオルを洗いに小川と往復した。小さい五輪の塔とは言え、石の塊だ。重い。苔を取るのもヤスリをかけるように力を入れるから、結構疲れる。その間、どこからか、ずっと見つめる視線を感じていた。途中で止めたら、この視線の主はさぞかし落胆するだろうと思う、縋るような視線だった。やりかけたからには止められない。唱えている般若心経が乱れがちになる。てっぺんに当たる屋根の形をした三角形の石を拭き終えた時、僕は般若心経を唱えるのは止めて、立ち上がり大きく伸びをした。腰が微かに痛い。体中汗だくになっている。僕は小川へ向かい、川の水で顔を洗った。清流の冷たさが、疲れをしばし忘れさせる。さて、これからが大仕事だ。もう、般若心経を唱える余裕はない。僕は軍手をはめ、倒れた石に手をかけると、腰を下ろして持ち上げ、台座に乗せる。凄い力仕事だ。一人でする作業じゃない。それでも五輪の塔を完成させた時には、大きな達成感と安堵を覚えた。


 気のせいか、周囲の空気も安堵に緩んだ感じがした。


 座り込み、ペットボトルの水を飲む。労働の快感が体中を弛緩させる。


 陽が傾き始めているのに気付いて、立ち上がり、花でもないかと周囲を捜す。先程の視線は消えている。白猫は最初の位置から微動だにせず、僕に視線を向けている。


 川辺にアマナの白い花を見つけたので、数本摘んで五輪の塔にリュックの中のチョコレートと一緒に供える。貧相だが、これが僕に出来る最大限の供養だった。


 どうか、お静かにお眠り下さいと言う思いで、毎晩仏壇で唱えている光明真言をひとしきり献げて、さあ、帰ろうとすると、白猫が黒い棒のような物を咥えて近づいて来た。咽をゴロゴロ鳴らしている。白猫は僕の足に身体を擦り付け、顔を上げて棒を見せる。どうやら土産らしい。自然に猫の口から、僕はその棒を受け取った。しげしげとその棒を見ている間、猫は態度を豹変させて、僕にすり寄り咽を鳴らす。


 棒には赤い珊瑚が輝いていた、タオルで拭いてみると、珊瑚をあしらった手の込んだ銀細工の簪(かんざし)だと分かった。こんな曰くのありそうな物を渡されても困ると思ったが、ままよと受け取ることにした。


 僕が帰るために立ち上がると、猫は五輪の塔の側に戻った。ちんまりと座る。


「じゃ、またな」


 と手を振ると、猫はお辞儀をした。


 また、びっくりした。礼儀が行き届いていると言うか、本当の猫なのか不気味に感じた。 急がないと陽が沈む。


 そう思っているせいか、帰りは思ったより時間がかかった。何度か道に迷ったか? と不安を覚えた。


 注連縄までたどり着いた時、ぎょっとした。黒い影が立っている。


 良く見ると僧衣の壮年のお坊さんだった。


(叱られるかな?)


 そう思ったが、お坊さんは微笑んでいる。両の掌を上にして、白い絹の布を献げるように持っている。

 それで「ああ」と納得した。


 僕は注連縄を挟んで、お坊さんの前に立ち、布の上に簪を置いた。


「御苦労様でした」


 お坊さんはそう言って、頭を深々と下げ、簪を布で来るんで、すたすたと本堂に消えた。何も問わなかったし、叱られもしなかった。僕は取り残された形になった。


 僕は空を見上げた。空の端が朱に染まりかけている。


「……いいように使われちまった」


 そう独りごちる。


 急がねば、陽が落ちてしまう。


「まぁ、悪くない」


 そう言って僕は古刹を後にした。



 最終バスを逃したので、重労働の後、最寄り駅まで二時間歩くはめになった。家に着くのは乗り継ぎが順調に行っても午後九時を過ぎるだろう。今夜は妹の浩美が食事当番だ。浩美は料理が冷めるのを嫌う。浩美のむくれ面が頭に浮かぶ。なにか土産を買って帰らないと怖い。携帯のアンテナが立つようになっていたので、メールをチェックする。三件着信があった。


 最初のメールは友人の伊達から、嵯峨野旅行の打ち合わせを、明日、鈴ちゃん家ですると言うもの。


 二件目は妹の浩美。午後七時には帰る約束を違えたことの文句と、僕の食事を愛犬のゴローに上げると言う脅し。機嫌を取った返信を即しないと、本気でやるから怖い。


 三件目は愛する鈴ちゃんから。「今日はありがとう。お疲れ様」とあった。意味は不明だが、今日一日の重労働が報われた気がした。今夜あたり電話をいれよう。


 しかし重労働だった。明日は筋肉痛に苦しむだろう。


 まぁ、僕的には満足のいく一人旅だった。


(二)

 彩宮鈴香の家は城下町にあるお屋敷である。今は駅前に立派なお店を開いて和菓子業を営んでいるが、お父さんは大企業の大株主らしい。相談役のようなことを頼まれて、滅多に家にはいない。なによりも、鈴ちゃんがお父さんと僕たちを会わすことを嫌い、顔を会わしたことはない。


 夏の一件以来、三枝明美と伊達正彦のカップルと僕は彩宮家の常連となっている。もっとも、姉御―――もとい、明美は高校入学以来、彩宮家を何度か訪ねている。鈴ちゃんの親友なのだ。


 お手伝いさんの藤沢さんの言によれば、鈴ちゃんが友人を家に招くことは、これまでなかったそうだ。その意味で藤沢さんは僕らの来訪を喜んでくれる。


 彩宮鈴香はミス桜ヶ丘高校に選ばれたほどの美人さんで、男女を問わず憧れる者は多い。ただ、鈴香嬢の人を寄せ付けぬオーラで友人を作らない。


 曰く、人嫌いなんだそうだ。


 僕は恋人として、その悪癖を直そうと努力しているが、功を奏していない。僕の隣の家のお姉さん・響子姉(きょうこねえ)の人懐っこさと足して二で割ればバランスが取れるのだが……


 その日は正午に彩宮邸を訪れた。


 いつもより早いなと思っていたら、初めて座敷で豪勢な日本料理をごちそうになった。

 ちなみに今日の鈴ちゃんの出で立ちは薄桜色の振り袖である。


 家に居る時は和服で過ごすよう仕込まれているのだ。鈴ちゃんは。



「茶室で話をしましょう」


 食事が終わり、ゆっくりしていると、鈴ちゃんは感情のない冷たい声でそう言った。顔は人形のような無表情である。


 財力もあるし、鈴ちゃんは茶道の師範なのだから、茶室くらいあって当然なのかもしれないが、それでも僕は驚いた。


 茶室である。


 普通の家にはない。


 まぁ、彼女の家には道場まであるから、今更、驚くことではないのかもしれないが……


「えー? 俺、作法なんか知らないぜ。鈴ちゃんの蔵で良いじゃないか?」


 紫に染めていた頭を三枝の教育で黒髪に戻した伊達が畳に横たわりながら文句を言う。こいつは儀礼とか作法を嫌うのだ。ちなみに鈴ちゃんは蔵を改造したものを自室としている。


 伊達は分かっていない。鈴ちゃんが、こう言えばそれは決定事項なのだ。


「人目がなければ、いちゃいちゃ出来るでしょう? 作法なんかどうでも良いのよ」


 珍しい。鈴ちゃんが冗談を言った。


「いちゃいちゃ出来るのか?!」


 伊達が、がばりと起きあがる。げんきんな奴め。出来る訳がないだろう。


「わたし、今日は機嫌が良いの。みんなにお茶を振る舞いたいの。あ、明美は別よ。作法を忘れていないか見せて貰うわ」


「うぃーす」


 げんなりした声で三枝が答える。

 三枝は鈴ちゃんの門下生なのだ。


 確かに、今日の鈴ちゃんは多弁だが、機嫌の良い顔かな? 人形のような無表情だが?


「浩平君!」


 いきなり呼ばれて、僕は視線を鈴ちゃんに戻す。


「今日は貴方の為のお茶会よ。昨日は力仕事したでしょう? 和んでね」


 そう言って鈴ちゃんは微笑んだ。


 昨日の謎のメールと言い、千里眼なのか? 鈴ちゃんは?



 赤い絨毯の敷かれた渡り廊下を鈴ちゃんを先頭に三枝・僕・伊達の順番で進む。周りは美事な日本庭園だ。前を行く三人が無口・無表情で、しずしずとすり足で歩んでいるのに、伊達は大騒ぎである。


「うおお! 凄ええ! この庭、俺の家が四軒建っておつりが来るじゃねぇか? ぉ? 小川がある。向こうは池か! なんだ? あの派手な鯉? あの鯉一匹で俺の家が買えるんじゃねぇか?」


 こんな具合である。僕も同感だが、空気を読んで欲しい。


「―――正彦! うるさい!」


 三枝が振り返って伊達をたしなめる。それだけで、伊達はしゅんとしてしまった。三枝恐るべし。


 それでも伊達はうつむきながら、「資本主義と言うものは……」「差別社会だ……」などと呟いている。


 茶室は古い農家に見えた。土壁に茅葺き屋根。ひどく地味だが、それは外観だけの話である。入り口はにじり口の本格的な茶室だった。


 鈴ちゃんはにじり口の襖を開けると、器用に着物の裾を折りたたみ、するすると茶室に入る。着物越しでも、ヒップラインは分かる。僕の目は釘付けになる。


 続く三枝はミニスカートだ。


 伊達が身を寄せて来る。なにを期待しているのか良く分かる男だ。

 三枝も器用にスカートに手を当て、するりと茶室に入る。パンツは見せなかったが、安産型だな? 三枝よ。


 伊達の舌打ちを背にして、僕も腰をかがめて、にじり口を潜る。何か作法があるみたいだが、知ったことか!


「なんか、ネズミみたいだな……」


 伊達が呟く。うるさい。


 茶室は六畳程度の狭いものだったが、にじり口から入ると、天が開けたような開放感があった。香を焚きしめているのか、伽羅の香りがする。奥の席に座るよう、鈴ちゃんから指示された。奥の床の間には、太い筆で書き殴ったような文字らしきものが掛け軸として、かけられていた。達筆すぎて読めないが、これもきっと値の張るものなのだろう。とりあえず先の二人が背筋を伸ばして正座しているので、正座する。


 なかなか来ないなと思っていると、伊達がにじり口から首だけ出して、落ち着かぬ様子できょろきょろしている。

 こいつは大胆なようで小心者なのだ。


「早く入りなさい」


 三枝が声を落として叱咤する。諦めた表情で伊達は、ずるずると匍匐前進するように入って来て空いている下座であぐらを組む。

 前言訂正。大物だよ。こいつ。


「なんか、入ってくるのは惨めだったけど、こうして入ると、広く感じるなぁ~」


 伊達は脱力して天井を眺める。


 一瞬、三枝の視線に剣呑なものが浮かんだが、三枝は小さな吐息と共にそれを消した。

 鈴ちゃんは、端から見えていなかったように伊達の不作法を無視して小さな器に何かを盛っている。


 中央の囲炉裏に火を付けると、鈴ちゃんは三枝を呼んだ。


「三枝さん、これを皆様に」


「はい」


 僕の左側に座していた三枝は優雅な動きで立ち上がり、ゆっくりと歩む。僕に一礼して、後ろを通ると、鈴ちゃんから器を受け取った。一瞬、三枝の動きが止まる。見ると目を剥いていた。だが、それも一瞬。三枝は器を僕の座る畳のやや横に「どうぞ」と頭を下げて置いた。


 波打つような四角い器は名のある陶芸家のものだろう。気品がある。そこに盛られたお菓子を見て、僕も三枝が驚いた理由が分かった。


 載せられたお菓子は桜餅。


 彩宮家の関係者で、特別の用があるときのみ限定生産される幻の桜餅だった。


 桜餅を配り終わると、三枝は何事もなかったかのように席に戻った。伊達はその桜餅がどういうものか知らないので、ただ、つまらなそうに天井を見上げている。


 全員に器が行き渡るとお湯がぐつぐつ言い出した。


 鈴ちゃんは三つ指をついて頭を下げる。


「いらっしゃいませ。ようこそ。どうぞごゆっくりお楽しみください」


 鈴の鳴るような声でそう言った。対して三枝は、


「ありがとうございます。おもてなしの心が伝わって参ります」


 そう答えて同じように三つ指ついてお辞儀をする。


 その様子に、僕と伊達はぽかんと口を開けて見つめ合った。


 伊達は慌てて正座して僕と二人で「ありがとうございます」と頭を下げる。場違いだ。こういう世界には僕と伊達は場違いすぎる。


 しばし静寂が流れた。


「くすっ」と最初に笑いを漏らしたのは鈴ちゃんだった。それを見て、三枝が「あははははは!」と大笑いして、畳の上に横たわりお腹を押さえて、身もだえする。


 僕は訳が分からず、無表情になった。そっと鈴ちゃんを見る。


 視線が合うと、鈴ちゃんは口元を押さえて「うぷぷぷ」と堪えた笑いを漏らした。


「予想通り! 予想通り!」


 明美はそう言って苦しい息で、まだ笑っている。


「―――お前ら、俺たちを嵌めやがったな?!」


 伊達は流石に察しが早い。怒鳴って立ち上がる。その伊達に鈴ちゃんが凍り付く視線を送る。


「―――座りなさい」


 伊達は青ざめて座った。流石、『絶対零度の魔女』の通り名は伊達じゃない。伊達よ。あんなもんじゃないぞ。鈴ちゃんの本当の怖さは。


「からかって悪かったわ。でも、いつも振り回されているからね。意趣返しよ」


 しれっとした顔で鈴ちゃんはお茶を点てている。明美はまだ寝転がって「ひーひー」言っている。靴下を履いた足を顔先に突きつけてやると、「やん」と妙に色っぽい声を出し、ようやく立ち上がり、正座した。


「―――でもさ、鈴。良いの? この桜餅『彩宮』の秘中の秘じゃない? 料理長みたいな人が一人で手作りするんでしょ? 結婚式でもないと作らないと聞いていたから、真面目にやるのかと思ったわよ?」


「そうね。わたしが頼んで八つだけ作ってもらった。神崎君の特別な日なの。神崎君、一つ残しておきなさいね。また、山辺の道へ行けとは言わないけど、ウチの仏壇に供えて頂戴」


 ―――――――――?


 僕はまるで意味が分からなかった。眉間に縦皺を立てて考えたが、特別なことは思い浮かばない。


「鈴ちゃん。それ、どういうこと?」


 僕の質問は聞こえたのだろうか? 鈴ちゃんは、にじり口に視線をそらして言った。


「淡雪。出ておいで」


 にじり口から白い何かが、飛び込んで来た。


 それは一直線に僕へ突進し、膝の上で丸くなった。ごろごろと喉を鳴らし、僕の顔を見上げて「にゃぁ」と鳴いた。

 僕は驚きに息を飲んだ。昨日、古刹にいて僕を導いた猫に相違なかった。


「―――お前か……」


「貴方、女神と縁を結んだのよ。こんな特別な事がある?」


 鈴ちゃんは小首を傾げてそう言った。その顔は慈愛に満ちた笑みをたたえていた。僕の心臓はドクンと鳴った。全く、彼女にはかなわない。



「きゃー! かわいい! 猫だ! 猫だ!」


 明美が黄色い叫びを上げる。


「触っちゃダメよ。明美。それは生きた猫じゃないのだから」


「え? まさか幽霊なの? 本物みたいだよ?」


「わたしの式よ。神崎君がいるから実体化してるだけ。触ったら消えるわよ」


 黙っていたが、この猫が鈴ちゃんの式だと言うのが、僕の中で妙にひっかかった。しっくり来ない。僕がいるから実体化しているとは、どういう意味だろう?


「この猫が幽霊だって言うのか?」


 伊達が驚いた声を出す。


「……う゛ぅぅ~ ねぇ、鈴、ちょっとだけ、ちょっとだけ触っちゃダメ?」


 明美の懇願に、鈴ちゃんが苦笑する。


「なんだか、伊達君に毎日言われている台詞のようね?」


 明美はぽっと頬を染め、伊達は妙な手振りで踊っている。認めたに等しいが、卑屈だな。伊達よ。


「からかわないでよ。鈴。私、真面目にお願いしてるのに……」


「―――いいわ。触ってごらん」


「神崎、前ごめんね」


 三枝はそういうと僕の膝の猫に手を伸ばす。こういう時に三枝の巨乳に目がいくのは、僕は伊達と同レベルと言う事だろうか?


「あ、触れた!」


 明美は喜びの声を上げる。だから、三枝、乳が、乳が触れてる。


 淡雪と呼ばれた白猫は、額を撫でられ「みゃあ」と鳴いた。そして、名前の通り透けるようにして消えて行った。


 僕と明美はその喪失感に同時に「あっ」と声を上げた。


 伊達は「おお!」と叫びを上げる。「手品みたいだな」。


 鈴ちゃんは揶揄を含んだ目で伊達を見る。


「女も『淡雪』のようなもの。無為に触ると消えるのよ。伊達君?」


 鈴ちゃんの一瞥に伊達は黙って頭を下げる。


「……ああ~ 消えちゃったよ~ 神崎、鈴、ごめんね」


「悪いと思ったら神崎君から離れて。その体勢。気に障るわ」


 鈴ちゃんの言葉に、僕と三枝は一瞬見つめ合い、お互い頬を染め、気まずく離れた。

  

 茶室に所狭しと並べられたトラベルパンフレット。


 僕と伊達が考えた春休みの卒業旅行プランだった。無論、明美の意見も取り入れて練ったものだ。で、一泊二日くらいで、親兄弟にばれずに行ける場所として選んだものだった。多忙な鈴ちゃんに計画を聞かすのは初めてになる。


「春休みの嵯峨野かぁ~」


 鈴ちゃんは気乗りしない声で伸びをしながら言った。


「ん? 鈴は気乗りしない? 桜、本当に綺麗らしいよ。竹林も美事だそうだし、鈴の好きな寺社仏閣もいっぱいあるし、保津川下りも面白そうだと思わない?」


 僕は三枝と鈴ちゃんのやりとりを冷や冷やしながら聞いていた。鈴ちゃんが気に入りそうで、四人で楽しめる場所を探すのは結構な難作業だったのだ。鈴ちゃんは自宅の蔵に籠もっているイメージがあるが、彼女も一人旅が好きで実は結構あちこち行っていることを三枝から聞いていた。鈴ちゃんが嵯峨野を蹴ると候補地がなくなる。


「気乗りしないのは確かね。春休みの嵯峨野でしょう? 直指庵や祇王寺なんか年頃の女の子で溢れかえっていそうだなって……」


「ああ……。鈴は人混みキライだもんね」


「今までそれが理由で嵯峨野には行かなかったんだけど……。これも天啓かな? いいわ。行きましょう」


 その声に僕と伊達は「おっしゃー!」と手を叩き合う。


「もうホテルも予約入れてたんだ。鈴ちゃんのおかげで無駄にならなくてすんだぜ!」


 伊達はいかにも嬉しそうに声を上げる。

 初耳である。確かにもう予約を入れないといけない時期ではあったけど。


「ああ、それか……」


 鈴ちゃんは無表情で呟く。


「明美の歩法にわずかに乱れがあったのは、それね」


 三枝はこくんと頷く。


「こいつ。どんな部屋頼んだと思う? 一泊五万円のスイート二部屋よ! 私の操が無事で済むと思う?」


 僕は息を飲んだ。五万円。大学入学用にため込んだ貯金を切り崩さないといけない。


「それは明美次第でしょ? 伊達君は強姦まがいの事はしないわよ」


「だから、困ってるのよ。泣いて土下座までされたら情が動くじゃない! 絶対、体触られまくるし……」


 そこで、うっかり舌を滑らしたことに気づいて、三枝は頬を染め黙り込む。伊達はテクニシャンを自称しているが、嘘ではないらしい。しかし、泣いて土下座って……伊達、性欲の前にプライドはないのかよ?


 鈴ちゃんは三枝の様子にクスリと笑うと、僕に視線を投げかけて来た。淫靡な視線だった。


「ねぇ、神崎君。わたしたちはどうするの?」


「二人の時に言う」


 僕は無表情でそう答えた。実は狼狽えていたのだが、混乱すると、表情がなくなるのが幸いした。僕たちはまだBまでの関係だが、鈴ちゃんの感度は凄く良い。秘所を触るだけで、のけぞって喘ぎ、腰をすりつけて来る。あ、思い出したら勃ってきた。六根清浄。六根清浄と自分に言い聞かす。


「あー! お前たち、もうやったんだろ?」


「ノーコメントだ」


 伊達の問いに、僕は鉄面皮で答える。


「ふふ……」


 鈴ちゃんが視線を絡ませたまま笑う。からかってる。いつか男が一皮剥けば狼だと思い知らせてやる。


「鈴はスイートでも良いの?」


「いっこうに構わないわよ」


 明美のすがるような声に、鈴ちゃんは涼しく答える。

 その答えに「ぶーーー」と三枝はむくれて、膝に顔を埋めて拗ねてしまった。 


「じゃ、スイートを男部屋と女部屋に分ける?」


「鈴ちゃん、やめてーーー!」


「野宿の方がマシだ!」


 おお。珍しく伊達と僕の意見が一致した。


「わたしも神崎君の腕枕で寝てみたいわ。明美はどうなの? わたしと寝る?」


 鈴ちゃんは際どいことを言う。三枝は恨みがらしい目で顔を上げた。


「ヤダ」


「なら、決まりね。明美、楽しい旅行にしましょうね」


 鈴ちゃんは三枝の肩を叩いて笑った。


 三枝が相手とは言え、鈴ちゃんも随分人間味が出て来た。僕はそれが何よりも嬉しかった。こうして僕たちの卒業旅行は決まった。

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