関ケ原

「おのれ~山城守め」

家康は直江山城守兼続の文に怒りをあらわにした。

この書状が世に言う「直江状」である。

上杉家が最近武力増強をしているという家康の問いに「都会の大名が茶器を高値でもとめるのと同じことで、もしお疑いならば攻めてこられよ」というものだった。

事実上の宣戦布告書にあたる。

これをみて家康は激しく怒った。ひさしぶりに爪をかんでいる。

これを大老。奉行にみせる。すでに前田利家の姿も、三成の姿もなかった。

すべては「意のままに」なり、「上杉討伐」が決定した。


その時、清正は肥後にいた。清正は島津家から謀反した伊集院氏を支援していたため、家康の命で蟄居していた。

これは家康のいいがかりといってもいいといえる。つまりは「戦上手の清正」が石田につけば「一大事」なのだ。なんとか清正を「遠く」に置いておく必要があったからだ。

清正の「影響力」はそれほどに大きい。


3日ほどして、「上杉征伐」の事が清正にも伝えられた。

「内府にはめられた」

清正は家康の真の意味をここで理解する。

おそらく、家康が留守の内に佐吉たちは大阪を実効支配するだろう。そして上杉と「挟み撃ち」にする。それを家康は知っている。

今の自分には指をくわえて眺める事しかできなかった。そんな身がはがゆい。

おそらくこれは「偶発的」な出来事だろう。

三成と兼続は仲は良いらしいが、所詮秀頼配下の三成には上杉家の外交ルートは無かったと思われる。

「しかたあるまい。」

といって家康に書状を書いた。

「大阪にいる加藤の軍をぜひとも内府様のご配下にお加えください。」

と記した書状を家康に送った。

「すまぬ。佐吉」

清正にとって大事なのは豊臣家であり、そのために「恩」を家康にうって交渉のカードにするつもりなのだ。

三成には三成の、清正には清正の「正義」がある。


やがて清正の思った通り関ケ原の合戦が起こった。

清正は黒田官兵衛とともに小西や立花などの三成派の城を落としていった。

後日「関ケ原の戦い」の結果を聞いて清正は驚いたことが2つあった。

一つは1日で戦いが終わったこと。

もう一つは家康の主力部隊(つまりは秀忠が率いていた兵)が到着しなかったことだ。

戦いに勝利した徳川家康は急ぎ清正を大阪に呼び寄せた。


「主計頭どの。このたびは誠にご苦労でござった」

家康は清正の手を取った。

「そこもとの活躍で九州の大名たちは動くことが出来なかった。さすがに音に聞こえた主計頭どのじゃ」

(おそらく、今回味方した大名たちすべてにこのような世辞を言っているのだろう。まったく古だぬきだわい)と清正は思った。

「これもひとえに内府様の御威光あってこそできたことでござる。」

と清正も世辞をいった。

清正の功績を家康は高く買い「肥後一国」の主となった。つまりは「小西領」を手にしたわけになる。

もともと清正には領地などどうでもよかった。

三成たちは処刑された。

心の中を風が吹き抜けていくようだった。

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