SFとかファンタジー小説の単位とかについて
@con
ぜんぜん話がまとまってない
なんとなく思いついたことを思いついた端から垂れ流したり書き加えたり削ったりしているので、冗長で散漫で脈絡のあやしい文章になってる。文字に起こすと考えてもみなかったことを考えたりするから自分用のメモに近くなってきた。でもいつか整理したい。
ファンタジー小説のたぐいでものの長さだとか重さだとかの単位をどうするのか、更に話を広げて、そもそも食べものの名前とかそういうものをどうするのか、というのはしばしば問題になる。
ファンタジー小説といいながらいきなりたとえが違うけど、たとえば時代小説で距離の単位としてメートルが出てくることは、少なくとも素の文に出てくることはまずない。出てくるとしても「ここから100町(約11キロメートル)の距離」のように注釈として用いられるのが常だ。
100町でも11キロメートルでもどちらでも同じことを指しているのだけれども、時代小説のおもな舞台である江戸時代でキロメートルという単位は使われていなかったであろう、雰囲気をぶち壊してしまう、というわけである。
それはそれで納得がいく話で、江戸時代を舞台にしているのに登場人物がなんの説明もなくフランスパンを食べていればやはり読者は妙に思う。「江戸時代風の世界を舞台にしたファンタジーものか何かだろうか」と勘繰るか、「あ、この作者はアホなんだな」と見限ってくる。
とはいえ、じゃあそういう時代考証とか雰囲気作りはどこまで真剣にやらなければいけないのかという問題もある。江戸時代において、モチベーションとかエビデンスとかそういうカタカナ言葉はまず使われていなかったであろうから、あからさまな外来語が時代小説に飛び出してくればはなはだ興ざめする。しかし、カタカナで書かれていない日本語でも明治以降に作られた言葉というものがある。また、同じものでも当時と今では呼び方が異なるものだってある(と思う)。
そういうものをどこまで本気でやるべきなのか。その線引きというか勘所がよくわからない。テレビで時代劇や大河ドラマなんかでは製作スタッフの中に時代考証を担当する人がいる。この言葉は江戸時代にはなかったとか、こういう習慣はなかったといったことを専門にやっているのだと思われる。
テレビの場合、地の文というものが基本的にはない。役者の話し言葉が大半を占めていて、その中に江戸時代に使われていなかったであろう言葉を使うとまずいというのは、当時の有様をなるべく再現しようという建前を考えればもっともである。一方で時代小説とかである。これは地の文がほとんどである。そして地の文というのは現代の私たちに対する説明であるから、これは別に当時の言葉しか使ってはいけないという束縛はないはずである。にもかかわらず、地の文にすらメートルとかモチベーションとかを使うことはなんとなくためらわれてしまうのである。
その上、このようなためらいはさほど厳密なわけではなくて、あからさまな外来語でなければ少なくとも私のような雑な読者はそれが江戸時代に使われていた言葉かどうかなんて気にしない。また逆に、もしかしたら私が不勉強なだけで江戸時代に既に使われていた現代においてカタカナで表記される外来語だってあるかもしれないのだ。
少し話を戻そう。私は別に時代小説を熱く語りたいわけではなく、ファンタジー小説でメートルなどをどのように使っていいのかという話をしたいのだ。
近未来の地球を舞台にしたSFなら、特に断りなくメートルを使っても違和感はなさそうだ。フィクションの世界に起こるような超現実的なハプニングでもなければ、数百年程度の未来ならメートルやキログラムはそのまま使われているような気がする。
ではファンタジーの世界ではどうか。ここではないどこかを舞台にしたお話でメートルはなかろうという気持ちはある。もちろんヤードやマイルも。メートルというのはあからさまに現実世界の単位であるから、せめて雰囲気を出すために「ここから30ルイルイ(約500メートル)の距離」のようにした方がいいような気がする。また、あからさまに現実世界と同じパンが存在してそれを食べることに違和感があれば、「ポポン(パンのような食べもの)」といった細かい一手間を入れたほうがいいのだろう。
なぜ私たちは単位や食べもののような小物には現実世界の名称や表現を使わないというルールを運用したくなるのだろうか。そしてまた、どういうものなら現実世界の名称をそのまま使ってもいいのだろうか。
フィクションの世界の住人はこの世界の言語を使っているわけではなく、会話文などは基本的にはあちらの世界の言葉が使われていて、それをこちらの世界に翻訳したという体なわけである。したがって、おそらくこういう指針は海外小説を翻訳するときのノウハウに明文化されているような気がしるし、もっといえば、時代考証の専門家に聞けばやはり明快な答えがあるような気がする。実際にその手の専門家に話をうかがったことはないのだけれども、ヤードとかポンドを無遠慮にメートルやキログラムに変換してはいけないという話をどこかでちらっと聞いたことがあるので、やはり何かの理由(あるいは経験則で)にもとづき、単位などは元の呼称を尊重すべきなのだろう。どういう品詞や単語に違和感を抱いたり雰囲気が台無しになるのかという問題は認知科学とか心理学の分野の問題だろうから、そういう方面で探せば何か出てくるのかもしれない。
と、長々と書いたことも気にはしていることなのだが、私がここでいいたことはそういう話でもない。さっさと本題に入ると、あるときに何かのSFかファンタジー小説のたぐいを、つまり現在の現実世界ではない世界を舞台にしたフィクションを、読んでいたのである。そこで特に注釈などもなく「1日」という言葉が出てきて、そのときはなぜだかこれが妙に引っかかった。
1日というのは24時間のことで86400秒に等しい。先ほど、メートルを使うのはいかがなものかとくだくだしく垂れたけれども、同様な発想にもとづけば秒をそのまま使うのもいかがなものかということになる。
「いや、その1日という表現は86400秒とは表現していないでしょ。それはある日の日の出から次の日の日の出までの時間を表していて、その世界では1日は65536ピョンで表されているんですよ」という反論はあるかもしれない。しかしそうなると今度は「日の出、日の入りがあるということはその世界は太陽のような恒星に対して自転しているのか」ということが気になるわけである。
また同様に、1年という概念が出てくるということは、その話の舞台はやはり太陽のような巨大な天体に対して公転していることが暗黙のうちに宣言されことになる。この世界ではないどこかを舞台にしていながら、なんの説明もなく地球の設定を使っているではないかといちゃもんをつけたくなるおもしろくなく眠れない夜だって、あるのだ。
ファンタジー小説の書き方や設定で困ったら『指輪物語』を参考にすればいいと多くの人は考えている。そこでWikipediaで『指輪物語』の項目を見てみると、あの話は地球を舞台にしていると明記してある。であれば1日だろうが1年だろうが存在しても問題はない。
それなら世の中のファンタジー小説は何もかもがことごとく地球を舞台にしているのかというと全然そんなことはない。明らかに地球どころか私たちが既知の場所ですらないどこかを舞台にしている話なんてざらにある。
そういう作品で、なんの説明もなく1日が出てきてもいいのか、それが妙に気になったのである。作品によっては「この物語はナンチャーラという惑星が舞台で、ナンチャーラは恒星カンチャーラの周りを回っている」というようなことが説明されていることもある。それはそれで作品に対する雰囲気作りとして丁寧だとは思うけれども、一方で恒星の周りを公転しながら自転するといった地球様の環境という呪縛とはそこまで強いものなのかという思いもある。夜と昼があって1日があって欲しいのなら舞台となる惑星の周りを恒星が公転していたっていいような気もするけど、そういう設定は少なくとも私の記憶にはない(あの作品がそうだよと指摘できる人はかなりえらい)。
もちろん、地球の環境ではない場所を舞台にしている作品だっていっぱいある。いっぱいあるといいながら具体的な作品名を挙げられないところが説得力に欠けるところなのだけれども(すぐにいくつかの作品を思いついた人はドヤ顔をしてもいいと思うよ)、昼夜や1日の概念がない場所を舞台にしている話は探せばあると思うし、もっと奇妙奇天烈な環境を設定した話だってたくさんあるに違いない。
ただ、そういう地球のような私たちが日常的に慣れ親しんだ環境以外を舞台にすると、それによってどのような超現実的なことが起こるかまで配慮、考察しなければならない。場合によってはこれはなかなか骨が折れることだ。
常に昼しかない惑星があったとして、気温はどうなるのかとか、その惑星は自転していないのかということを考えなければならない。そんでもって、仮に自転していないのだとすればそれが惑星の環境にどんな影響を与えるのかも考えなければならず、連鎖的にいくつもの懸案事項が生み出されてしまう。
物理の質問サイトで有名な「What if?」に「もし地球が自転しなければどうなりますか?」と質問すればおもしろおかしく、かつ、可能な限り真剣で正確に答えてくれるかもしれない。しかし、小説の設定を思いつくたびにいちいち質問していては話はいっこう進まないだろうし、向こうの人も毎度毎度答えてくれるとは思えない。
現実世界の設定をそのまま引き継ぐことは、破綻のない世界を簡単に用意できるからでもある。物理の世界には物理定数と呼ばれるものがある。光の速さとか万有引力定数とか、Wikipediaでも見ればおびただしい種類の定数があることがわかる。また、法則とか方程式もたくさんあって、運動の法則、熱力学の法則、エネルギー保存則、質量保存の法則、などなど、やはりこれもその手のページや参考書を見れば大量に出てくる。
こういう物理定数とか物理法則、はたまた、数学の公理というものが現実世界を設定していて、そして、少なくともこの世界が現にこうしてあるということは、これらの値や法則というのは破綻していないわけである。我思う、ゆえに我あり、というわけだ。違うか。
たとえば光の速さが今の2倍になった世界では何が起こるのか? ケイ素生物が実在するにはどういう条件が必要なのか? 2+2が4ではなく5になる世界を破綻なく構築できるのか? 物質を構成する要素が原子とか素粒子ではなく全く架空の何かを想定できるのか? 現実世界の設定を使わず架空の世界を用意しようとすると、それが本当に破綻することなく設定できるかよくわからないのである。
SFとかファンタジーものの中で現実世界の物理法則を無視して、「この世界はそういう世界なのだ」と宣言したときに、その超現実的な設定がどこまで影響を及ぼすのか。それを考えるのが楽しいこともあれば楽しくないこともある。作者が楽しくなければ、それを読む読者はたぶんもっと楽しくない。虚数が実在する世界を舞台にした小説があったとして、最初の10ページぐらいに理論的な説明が延々と、しかし緻密かつ正確に書いてあったらどうだろうか。私にはそういう世界がどんなものかたぶんさっぱり想像ができないし、おそらくそこで本を物理的に投げる。
超現実的な設定を持ち込んだからにはそこには何がしかの必然性がなければ、読者にいらぬ負担をかけるだけである。事前の知識があったり、タイトルで示唆されていなければ、私たちは小説を読むときに暗黙のうちに地球かそれに準じた舞台を想定したがる。その方が感情移入しやすいし情景を共有しやすいからだ。奇をてらった設定を持ち出されてそれを全く理解できなければ、他人が話すとりとめのない夢の話を聞かされるようなもので、舞台設定にかかわらない事象がよほどおもしろおかしいものでなければ、そんな話につきあわされるのは退屈であり苦痛である。
ファンタジー世界では非常にしばしば魔法が出てくる。何もないところからエネルギー弾とか炎とか出すけど、これに対してエネルギー保存則を無視してるだの、質量保存の法則が成り立たないなどといういちゃもんは無粋である。しかも、さほど理論的な説明がなくても読者はわりと受け入れる。ファンタジー世界の魔法というのは私たちに情景や暗黙の設定を想像しやすいものらしいのである。
きちんと調査をしたわけではないけど、いわゆるファンタジー世界といえば『指輪物語』とか『ドラゴンクエスト』とか『Wizardry 』(の1から5まで)の舞台のような中世~近世ヨーロッパらしき文化や文明に剣と魔法を組み合わせたようなものだろうか(『Wizardry』は中世ヨーロッパ風の世界観ではないよという話をどっかで聞いたことがあるようなないような……)。少なくとも私はそういうふうに感じている。
現実の無矛盾な物理法則から逸脱した世界を想像することが私には無理くさいので、ここではおとなしく基本的には現実世界の物理や数学の法則に従って考える。
ファンタジー世界の文明はなぜ中世ヨーロッパのあたりで止まっているのだろうか。もちろん、文明がどういうふうに発展するかなんて知りようがないけれども、任意のファンタジー世界において、現実社会の人類と同程度の体力、知能水準を有しており、現実社会と同じ物理法則に従った世界に生きているのであれば、現実社会には存在しない魔法を使えるというアドバンテージがあるだけ、もっと進んだ文明を持っていてもなんら不思議はない。
現代の文明と数百年前の文明とを比較して、一概に現代の方が優れていると断言できるわけではなく、昔の方が良かったことだったあるのは確かだろう。しかし、たとえば建造物について、基礎工事すら怪しい掘っ立て小屋や、吹けば飛ぶような紙と藁で作られた家屋と、鉄筋コンクリートで作られて断熱構造も取り入れた建造物とどちらが優れているかと考えると、資源や技術が十分確保できているのであればやはりこれは鉄筋コンクリートで作られた建造物だといえる。なぜなら、もし掘っ立て小屋が真に優れた住処であれば、現代の日本でもこれがポコポコ建っているはずだからだ。
同様に、自動車よりも馬車の方が全面的に優れているのであれば今でも馬車が使われているはずだし、夏場にクーラーを使わない方が快適であれば使わないはずだし、電気ストーブよりも囲炉裏や暖炉の方が優れているのであればそっちを使っているはずなのだ。
なぜファンタジー世界には現代文明において広く使われている機器がほとんど登場しないのかと考えると、おそらくそういった便利な機器が必要ではないのかもしれない。なにせ、ファンタジー世界では魔法というやつがある。私たち人類は有史以来、多くの不快、不便な事象を偉大な発明、発見で克服してきたけれども、ファンタジー世界の人々はそういった不便を魔法で解決しているのではないだろうか。その結果として、文化や風俗が中世のころに収束しているというわけである。
実際のところ、魔法が使えると文明はどのあたりに収束するものなのだろうか。ファンタジー世界の「魔法」というやつがどんな原理でどこまでできるのかは現実的には推定しようがない。こういう場合はとりあえず極端な段階から考えてみるといい。
まず、魔法というのが本当になんでもできるものだと仮定しよう。この魔法は非常に強力で、人間のありとあらゆる悩みを完全に解決してくれる。衣食住どころか、ありとあらゆる欲望を無限に満足させてくれるし、人生の意味でも宇宙の真理だろうと完璧に知ることができる。
こういう世界においては、人類はもはや魔法のほかには何も開発する必要はない。荒野だろうが深海だろうが宇宙空間だろうが、どんな時代、どんな環境に生きていようが、ただ魔法を使っていればそれ以上は何もいらない。だが、ごく一部の例外(たとえば『幼年期の終わり』の黒幕みたいな存在)を除いて、多くのファンタジー世界の住人はそういう世界には生きていない。したがって、エネルギー保存則だの質量保存則だのを無視する魔法とはいえ、一般的にはできることには限界があるようである。
魔法によって何が満足されて、何が満足されていないのか。たとえば服装である。ファンタジー世界の住人はなんとなくだけど、綿とか皮革といったいわゆる自然製品ばかり身につけていて、ポリエステルのような合成繊維で作られた衣服は着ていないような気がする。そもそも、ポリエステルだけではなくビニールやプラスチックといった素材もファンタジー世界にはなじまない。
ファンタジー世界の住人たちはそれらの化合物のたぐいをまだ発見していないのだということは当然考えられる。我々人類とて、化学を学んでから数百年か数千年以上の年月をかけてようやく発見したのだから、ファンタジー世界がどういう歴史をもっているのかは作品によりけりだろうが、文明の歴史が浅いのであればそういうものだとも解釈できる。
仮にビニールとかプラスチックを発見していたとしても、なぜ一般的に普及していないのだろうか。思うに、あの世界の科学者らも発見はしているけど、ご家庭での生活に使うほどの量産体制には入っていないのではないか。たとえば現在の人類は科学の力によってフランシウムを手に入れているけど、これが一般家庭でお目にかかることなどまずない。
私はよく知らないのだけど、ビニールとかプラスチックとか、ああいう素材はある程度大量生産しなければ採算が取れないような気がする。もし木とか皮革とかに魔法をかけて耐水性とか耐久性を容易に与えることができるのであれば、プラスチックを発見することは化学上の偉大な発見の一つとしては存在するのだけれども、別段、それをわざわざ日常用品に使う意義がない。そのため、プラスチックが読者の目に付く範囲に現れないのかもしれない。
しかし、魔法で木とかの耐久性を高められた、よかったよかった、と思う前に、もっと踏み込んで魔法で服とか作ってもいいのではないだろうか。皆無とはいわないけど、あんまりそういうのは見かけない。無から火を出せても物体を作るのは難しいというのだろうか。
なんか質量とエネルギーを変換するよくわからない式によれば、エネルギーで質量を作り出すのにはものすごい大きなエネルギーが必要であるらしい。であれば、火を出せても服を出せなくても不思議はないという主張はなくはない。
だが、たとえば机の上に本を移動させるという現象を考えてみよう。だれも机の上に本がすさまじいエネルギーを消費して配置されたなんて考えない。既に存在しているものをそっちからあっちに移動させるのであれば、エネルギーを質量に変換させるとかいうアホみたいに大量のエネルギーなんて必要ない。もし魔法によってどこかからか布とかを移動させてこちらに存在させるのであれば、実はそんなにエネルギーは必要とせず、むしろ火を出すよりもずっと簡単かもしれない、という解釈も成り立つ。
それに、そもそも火を出すといったって何かが燃えているわけだから、やはりその「何か」はここではないどこかからか調達しているはずである(魔法の火なのだから何も燃やしてなどいないのかもしれないが)。いや、質量とエネルギーがどうこうというのは単なる人間の都合なだけで、エネルギー保存則と質量保存則のどっちを破ろうが魔法にとっては大差がない話なのかもしれない。
ということを考えていると、ふと、そもそもファンタジー世界の連中はいつから魔法を使うようになったのかという疑問が浮かんだ。話があっちゃこっちゃ際限なくそれ続けているけど。
原人や旧人類のときからもう使いこなしていたのだろうか。だが、そうなるとさすがに現実世界の人類とは違った方向に進化して、違った方向の文明を作り上げて、中世ヨーロッパ風の世界観にはたどりつかないような気がするのである。火だの水だのを自由自在に作り出せる生き物というのはこの地球上では十分に強い。強すぎる。進化が適者生存なのだとすれば、魔法を手に入れた原人だの旧人類だのは、ある程度まで知能が現在の人類に近づいたところで、それ以上は進化しなくなるのではないだろうか。
人類が群れて、集団を形成して、社会を構築するようになったのは、個々の単独の力が巨大な猛獣や過酷な環境の前ではあまりにも非力だったからである。しかし魔法が使えればどうだろうか。群れる必要性は皆無ではないだろうが現実の人類と比べればだいぶ薄まる。また、魔法をだれでもかれでも使えるわけではないのだとすれば、魔法使いとそれ以外の人類はどこかで袂を分かち、違った方向へ進化していくことになるのではないか。
そう考えると、太古の昔から魔法を使えたわけではなく、魔法がない状態で中世か近世かそのあたりまで普通に科学や文明を発達させたところで、何かの拍子で魔法が使える人々が現れたと考えた方が自然なのだろうか。しかしそうなると魔法を使える人々を社会がどのように扱うかという問題がある。『七瀬ふたたび』なんかは超能力に目覚めた人たちが普通の人たちに拒絶、迫害されるというストーリーだった。
原人や旧人類が生きた弱肉強食で修羅道な世界とは異なり、人類はそれなりに文明や道徳を備えているとはいえ、それでもやはり火だの水だのを出す人というのは脅威である。どうやって魔法が発生して社会に受け入れられてきたのだろうか。
話があまりにもまとまらない。私の勉強不足とか不見識とか悪徳だとか、そういうこれまでの人生のツケを無理に清算しようとしているせいなのだろう。そもそものはじまりは何かの描写に1日が出てきただけだったのだが。
だいたい、ファンタジー世界の魔法はあまりにも戦闘行為に特化し過ぎではないだろうか。仙人は霞を食って生きていけるらしいので、魔法だってきちんと使えば腹の足しになるはずだ。案外、我々読者に見られていないだけで、あの世界の住人は魔法で腹を膨らましているのかもしれない。火を出せてもパンを出せないという道理はない。
魔法で容易に衣食住が満たされるのであれば、多くの人々は生産的な労働にはほとんど従事せず、娯楽や知的探求に人生のほとんどを費やすのだろう。だがここで考えるに、魔法使いばかりパンだの服だの日用品だのを生産させられて不公平ではないだろうか。魔法でパンを作り出す労力というのは我々には想像しようもないが、なんらの責任も負わずに気の向くまま部屋で寝転がって漫画を読んで馬鹿笑いをしているよりは楽ではないような気がする。あるいは、そういった不公平感によって、魔法を使えない人々が持つ脅威や不満を紛れさせているという見方もできる。
魔法使いは高貴なものの義務として委細承知の上で働いているのだろうか。そうしなければ、普通の人たちに迫害されるとかで。現在想定している魔法使いは無限の力は有していないので、いくら炎だのエネルギー弾だのを生身の体から撃ち出すことができても、多勢に無勢、大勢の武装した普通の人たちに襲われればひとたまりもないのだから。
しかしそれではあまりにも魔法使いがかわいそうだし、人類の情けなさに絶望すら抱く。そこでもう少し魔法使いと普通の人たちとの親和性の高い社会を考え直して、科学や文明が発達するよりも以前の、石器時代とかあのあたりで人類は魔法との邂逅を果たしたと考えてみてはどうだろうか。魔法を使うのにはある程度の知能が必要な気がするから、やはり原人だの旧人類だのは使うことができなかったわけである。
石器時代がどんな社会なのかはまじめに勉強したことがないけど、人類はある程度の規範や道徳を有してはいても、自然現象にわけもなくおそれおののき、神霊の存在を信じて、多岐にわたる事象にいちいち畏敬の念を抱いていたような気がする。また、科学や技術も体系的には発展しておらず、見よう見まねや口コミに頼っていたのではないだろうか。
たとえば石器しか知らないコミュニティーに鉄が持ち込まれたとき、そのコミュニティーの人々は大変不思議に思い非常に驚愕したはずである。この時代の人々は鉄ぐらいでおどろいてくれるのだ。そんな不思議とおどろきばかりの時代、魔法で手から火を出せる人がいたとして、不思議だとは思うかもしれないが鉄のような新技術を持ち込んだ人への反応のように、案外、世の中にはおれたちが知らんかっただけで不思議ですごい技術があったのだ、と受け入れてくれるような気がする。
そうして、人類は水を沸かしたらお湯になるとか、車輪を使うと荷台を運びやすいということを発見しながら、魔法についてもいろいろと発見していったのである。科学や文明と同じ水準で魔法にも慣れ親しんで発明、発見を繰り返しながら、中世ヨーロッパのあたりで人類の進歩は一定の収束を見せたのである。この世界では魔法を使えるというのは運動神経がいいとか口笛を吹けるとか鼻が利くとか、そういうちょっとすごいが排斥に及ぶほどの恐怖と嫉妬を招くこともない個人差の一つに過ぎないという感覚なのである。
話が前後してばかりだけど、ファンタジー世界において魔法使いばかりが過酷な労働を強いられるという世界観ではないという前提で考えてみたい(そういう設定で魔法使いたちが反旗を翻すという設定の作品もあるだろうし、あったような気がするけどタイトルは思い出せない)。
魔法使いがどのぐらい(現実の私たちから見れば)超現実的な事象を起こせるかは定かではないが、仮にあなたの身近に魔法使いがいたとしたら、あなたは彼ないし彼女に日がな一日パンを生産するなんてことをさせるだろうか。魔法を使わないでもできることをさせるなんてあまりにももったいない。そういうことは我々魔法を使えない普通の人がやりますから、あなたは魔法を使わなければできないことをぜひやってくださいとお願いするだろう(作っているのが魔法のパンで、それを食べれば一生腹が減らなくなるとか病気が治るとかなら話は別だが)。
というわけで、魔法使いはパンを作ろうと思えば作れても、平素はあんまり作らないで、魔法を使わなければ遂行できないようなもっとほかの仕事に従事しているんじゃなかろうか。あるいは、どこでもだれでも魔法を使えるように、魔法の力を何かにこめるとかそういうことをしているかもしれない。
ファンタジー世界には暖炉のような暖房機器はあっても冷房機器はそれほど一般的に普及していないような気がする。だが、あの世界の住人だって暑さ寒さは感じるだろう。クーラーのような機能をもつ魔法はあっても、一家に一人魔法使いが常駐するわけにはいかない。であれば、冷気を発するような魔法を何かに封じ込めて、一般家庭向けに販売、普及しているのではないか。クーラーに限らず、電気用品が発達していない理由はそういうことなのではないか。
そう考えてみると、ファンタジー世界における工業というのは工場制機械工業にまで発達しているイメージがない。あちらの世界の研究者のだれかも蒸気機関かそれに近いものは発見していたかもしれない。だがたぶんこう考えただろう、水が沸騰するときに発生する蒸気の力はすごいかもしれないけど、魔法の力の方がよほどすごいな、とかなんとか。もし魔法の力がそれほどすごくなかったり、何かに封じ込めて普通の人たちも気軽に魔法の恩恵にあずかることができなければ、蒸気の力を使って魔法の代替にすることを考えたかもしれない。しかしそういう方向に発展しなかったのは、魔法使いが現場に常駐していなくても普通の人たちも魔法の力を気軽に、たとえば私たちが乾電池を使い捨てるぐらいの感覚で、使えたのではないだろうか。同様にして、プラスチックはすごいかもしれないけど、これなら魔法をかけた木材だの皮革だのの方がよほど低コストで便利だ、と考えたためにプラスチックは普及していないのではないだろうか。
木材とか皮革とかは自然にあるものは、魔法も使えなければ特別な科学の知識ももたない人間にもまあなんとなく採集したり加工したりできる。そこに魔法の力ですごい特性を備えさせているのだ。そのため、ファンタジー世界の外観は自然にありふれていて、家内制手工業で作れそうなものばかりで構成されているのだろう。だから逆に、すごいお金持ちとかはお金と暇にまかせてプラスチックで作った食器とかを戯れに使うこともあるのかもしれない。あの世界では量産されてないから逆に貴重なのだから(プラスチックとかビニールが高価って設定が出てくるSF作品かなんかがあったよね、思い出せないけど)。
そいうことを考えると、魔法を使う人もえらいが、魔法の力を封じ込めて魔法使いがその場にいなくても魔法を使えるようにした人もえらいことに気づく。ファンタジー世界では非常にしばしば絶対王政がしかれているけど、そういう政治体制では為政者は悪い独裁者であると相場が決まっていて、更にいうと、そういう独裁者は魔法使いを自分の周りにだけ配置して魔法の力を独占して悪巧みをはたらくものである。ありそうな設定だしそういう作品もあるのだろうけど例のごとく作品名がスッと出てこない。歳だから。『Final Fantasy VI』とかそうだった気もするけどよくおぼえてない。
すごい魔法の力を自分にだけ使えるようにすれば民衆への圧政なんて思うがままである。いや、そもそも民衆からちゃちな税金なんて集めなくても、数が少ないとはいえ国中集めればそれなりの人数になる魔法使いの力を、自分ただ一人にだけ集中すればかなり快適な生活ができるに違いない。魔法の力を封じ込める技術は権力からの魔法の開放であり、劇的な社会の変化をもたらしたことが想像できる。
けど、そういう想像の前に魔法使いがやすやすと権力者に囲われたり軟禁されたりするものかどうかがわからない。悪い権力者ばかりではなく、初めから魔法の力を広く社会に活用することに尽力する良い権力者だっていてもなんらおかしくはない。こればかりはどちらもあり得るとしかいえない。
とか考えると、そもそもファンタジー世界は王権政治ばっかりなイメージがあることに気づく。絶対君主制か立憲君主制かは知らないけど、ともかく、たいていの場合は王様がいてそれが権力を有することが多い。あの世界の貴族だの王族だのはことごとく善政を敷いているのか、市民の間で平等主義とか人権意識にうといのか、がちがちの身分制、世襲制が浸透してなおかつ社会はそこそこうまくいっているのか、市民が謀反を起こせるほどの気力がみじんもわかないほどの苛政を行っているのか。
思い出したようにいきなり強引に戻って単位の話にもっていくと、単位が統一されるにはそれなりの権力が必要なことが多い。私のしょぼい知識でかろうじて思い出せる例だと始皇帝とか。
そもそもどうやって単位ができていくのか調べたり憶測したりすると、歴史上たいていの場合は人間の体のサイズが最初の単位になるようである。我々もものの長さをごくおおざっぱに把握したいときは、手をこのぐらい広げてとか、指何本分とか、手をグーにして何個入るぐらいとか、そういうやり方をする。フィートとか尺とかはまさにそうだ。人間の体は短時間で劇的に変化しないし、なにより取り回しが楽だからだ。
が、もちろんのこと人によって体のサイズは異なるので、Aさんだと3尺のものがBさんだと4尺になり得る。おおざっぱな物を扱うときならいいけど、家具を作ったりとか家を建てたりとか、人によっておなじ文言でちがう長さを表現されると非常に困る。
というわけで、それなりに文明が発達してくると、村のえらい人とか指導者とか、そういう人の体のサイズを基準にする。これならば、そのえらい人の影響力が届く範囲ではおなじ単位でおなじ長さになる。
ところが、えらい人の影響力が届かない隣村とかに行けばやっぱり異なる単位を使っているわけである。村同士がなんの交流も持たないのであれば別にそれで何も困らない。しかし、人の行き来があって、物々交換があったりすれば、やはり「3ポンポン」と「3トンテン」が似てはいるけど微妙にちがうといざこざの種になってしまう。
じゃあどっちかに統一すればいいじゃんというとこれがそうもかんたんな話でもない。まず第一に感情論として、なんでおれの村が隣村の村長の脚の長さを基準にせにゃならんのだという不満がある。第二に実用上の問題として、これまでその村で培っていた技術について、図面や設計図に準ずるものを大幅に書き換える必要があって、これはかなりめんどうだし、書き換えるときに変換をミスればことである。
したがって、単位を統一するときはかなりの中立性と公益性と強制力が必要になってくる。もしファンタジー世界で異なる国でおなじ単位を使っていれば、それらの国同士はめちゃくちゃ仲がいいか、めちゃくちゃ上下関係があるか、ファンタジー世界全土にわたって人の行き来と技術のやり取りがあって、しかも、それらを統一的に便利に扱おうとがんばった人たちがいたことになる。
人類がメートルを手に入れたのは1800年のあたりらしい。それほどむかしではないらしく、ニュートンの時代にはまだなかったようだ。フランスが提案したそうだけど、やっぱりこのときもフランスで使われていた長さの単位をそのままというふうにはせずに、地球一周の長さの4千万分の1、という、地球上に住む人間すべてに平等な長さにしたのである。そういうわけで、現在の地球の長さはほぼ4万キロメートルである。ぴったり4万キロメートルではないのは、その後、メートルの定義を若干変更したせいだ。
地球一周の長さの4千万分の1といったけど、もちろんこれはそんなに簡単な話ではない。たとえばあなたが18~19世紀のころの道具で地球一周の長さを測って来いといわれたらどうするだろうか。なんかこう、伊能忠敬も使ってたらしい車輪を転がして長さを測るやつ、あれでがんばりますか、と思って家を飛び出すだろうか。がんばって1日に40キロメートル歩いたとしても1000日だ(注、実際はフランスの人たちは一周ではなく4分の1周だけ測ったらしい)。海もあれば山もあるし、そもそも他国の領土でどういうふうな理由をつけて測量するのか。
当時はいまほど情報のやりとりもきちんとしていないから「地球の外周を測りたいんです」という話が先方にきちんと伝わっていない事態もおおいにあり得る。その上、国同士のいがみあいもあったし戦争だってしていたから、よその国の地形をのんきに測量していてれば、「あ、うちに侵攻するための準備だな」ととられてもなんらおかしくない。実際、現実世界でメートルのためにがんばった人たちも現地で袋叩きにされたり投獄されたり、なかなかひどい目にあったようである。単位の統一というのはかような難業、大事業なのである。
「30ルイルイ(約500メートル)」の表現を持ち出すということは、そういうことが、ファンタジー世界でも行われた科学史があるのだろうか、はたまた、ファンタジー世界の人類は有史以来世界全体でめちゃくちゃ仲がいいとか、類稀な行動力、カリスマ、軍事力、政治力によって世界征服を果たして単位を統一した大王がいたのかな、という話になってくる。
それも気になるとして、自分で書いておきながら30ルイルイが500メートルということは1ルイルイは16.7メートルであって、これはなんとも中途半端な長さに感じる。0.1ルイルイが1.67メートルで、これならまだかろうじてだれかの身長を単位にしたのかなと感じられるけど、それなら1ルイルイを1.67メートルにするべきではないかと思う。1ルイが1.67メートルで、10ルイが1ルイルイなのかもしれない。しかしどのみち人間の身長を単位にしているということは、おそらく身長1ルイの大王がかかるファンタジー世界を統一したことがあるのかもしれない。とか妄想できる。
しかし、だ。そんなら国同士で単位がちがうんだよといいだして、ファンタジー小説とか読んでて、P国を舞台にしているときは「30ルイルイ(約500メートル)」と書かれてQ国に行くと「240ルッチ(約98ルイルイで約1.6キロメートル)」とやられて、どうだろうか。文脈や演出にもよるけど、私なら、「あ、なんかめんどくさいことになってきたな」と思う気がする。私がものぐさなだけで、それに興奮する人もいるのかもしれないが、単位を気にして設定に凝る労力に対して、読者に与える良い影響のリターンがあまりにも見合わないように感じる。もっとほかのところに労力をかけた方がたのしい話を作れそうだ。
SFとかファンタジー小説の単位とかについて @con
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