四章

『こうして、世界の敵はいなくなり、世界は平和になったのでした。

 めでたしめでたし。

 えっ? 正義の味方はその後どうなったのかって?

 正義の味方もまた、いなくなってしまったのです。

 世界はとても平和に満ちて、幸せが溢れていたけれど、正義の味方はちっとも幸せにはなれなかったのです。

 なぜならば、彼の存在に気付くのは、彼の愛した妻だけ。

 その妻が、いなくなってしまったのに、どうして彼は幸せになる事ができましょうか。

 こうして、世界から正義の味方がいなくなり、本当に世界から良心は消えてしまったのです。

 こうして、世界は黄昏へと進んでいったのでした。』


****


 あれからどれだけ経ったっけ。

 俺は普通にリビングで出されたトーストにバターを塗りながら思う。

 時計塔のあの1件から、もう2週間は経っていた。俺はバターを塗ったトーストを頬張りながら、昨日山掛けした英語のテキストをパラパラとめくりながら、母さんの背中を見た。

 いつも通り。いつもと変わらないはずだ。


「なあ母さん」

「なあに?」

「俺に従妹っていたっけ?」

「あらなあに、マサ。アンタ従兄弟欲しかったの?」


 台所でコーヒーを淹れながら母さんはクスクスと笑う。


「ごめんねえ、お父さんもお母さんも一人っ子だからねえ」

「……だよなあ」

「はい、コーヒー。牛乳は自分で入れて」

「あーい」


 俺は母さんがテーブルに置いていったコーヒーに同じく置かれたパックの牛乳の口を開けると、注いで適当にカップを揺らして飲み始めた。

 ちらりと俺は隣を見た。

 テーブルは来客用に6つ椅子があり、大体端の2つは使わない時は母さんが鞄を置いていて、俺の隣の席はいつも余っている。余っていたその席は、今日も変わらずに空いていた。

 朝ご飯が終わった後、俺は洗面所で歯を磨いた。


「どうした? 最近ぼんやりしてるな」

「父さん」


 父さんも俺の隣で歯を磨く。


「なあ父さん」

「んー?」

「俺に従妹っていたっけ?」

「ほー、俺か母さんに隠れた兄弟姉妹がいたのか。すごいなあ、おい」

「……だよなあ」


 俺はうがいをした後、洗面所を後にした。

 あの時計塔の1件以来、姫川の記憶は周りから完全に消えていたのだ。


****


 家を出たら、いつものように浩美が歩いていた。


「浩美」


 俺が浩美の背中に声をかけると、いつものように浩美は振り返る。


「マサ君、おはよう」

「はよう」


 そのまま並んで通学路を歩く。


「テスト勉強した?」

「まあ山張った」

「もうっっ、本当に相変わらずいい加減なんだから」

「俺、これでも山外した事ないんだわ」

「……知ってるけど、ずるい」


 いつもの会話をしていると、いつもの日本離れした外観保護区が見えてきた。

 その石畳を歩く。

 と、石畳に響く音ががカツカツカツカツとこっちに向かってくるのが聴こえた。

 俺と浩美が振り返ると、大瀬がこっちに向かって走ってくるのが見えた。園田はその後ろをのんびりと歩きながら後についていっている。

 あれ、園田って通学路、学校挟んで反対側じゃなかったっけ。俺がぼんやりとそう思っている間に、大瀬がいつものように浩美に抱きついた。


「浩美―、おっはよー!」

「おはよう、陽菜ちゃん。どうしたの、今日機嫌いいね?」

「そんな事ないって、いつも通りだよー、いつも通り」


 いつものように浩美と大瀬がいちゃいちゃしている所に、のんびり歩いていた園田がようやくこっちまで歩み寄ってきた。


「よー、ご両人。今日もお熱い事で」

「誰がだ、誰が」「園田君……そんなんじゃないよ」


 俺と浩美がほぼ同時に返事するのを、園田はかんらかんらと笑う。


「まあ女性が幸せなのはいい事だね。最近は正義君もふらふらと余所見しないで浩美ちゃん一筋なんだから」


 園田が笑いながら言うのに、俺は「ん?」となる。

 そう言えば園田と大瀬って、姫川の事で散々俺に忠告してきたけど、2人は姫川の事覚えているのか……?

 思わず口に出す。


「いや、園田。俺、他に女いたっけ?」

「えっ? ……適当に言っただけだけど、正義君、他に好きな人なんかいたっけ?」


 園田は珍しく困ったような顔をした。

 ……。俺は黙って園田の胸ポケットから生徒手帳を抜き出した。


「うわぁん、正義君のエッチ!」

「誰がエッチだ。万年発情期は黙ってろ」

「万年発情期って、失敬な。俺はただ全世界の女性の味方であって、フェミニストなの。肉体主義じゃないの」

「あー、黙れ黙れ黙れ」


 園田の女の事調べ回った欄を見渡したが、『姫川広』の名前はとうとう出てこなかった。

 俺は無言で園田の胸ポケットに手帳を仕舞い直していると、


「あれ? 陽菜ちゃんと園田君……お揃い?」


 浩美のきょとんとした声が返ってきた。

 俺は浩美の視線の先を追うと、鞄に突っ込んでいる携帯のストラップが見えた。どっちも同じように見える。


「もしかして……」


 浩美が何か言おうとするが、大瀬はぱっと浩美を離して園田を蹴飛ばし始めた。

 園田は笑いながら蹴られている。……こいつ本当に大瀬の暴力に慣れてるなあ。慣れてなきゃ暴行罪で訴えられてるぞ、本当。


「まあ、保護者同士色々あったのよ、色々ね」

「やっかましいわ! 園田その口引っ込めろー!」

「ふっぎゅー!! ……ああ、陽菜ちゃんマジ暴力的……バタリ」

「口で「バタリ」とか言うなぁぁぁぁ!!」


 いつものようにどつき漫才が始まったのに、俺と浩美は顔を見合わせた。

 本当に、姫川に会う前に、完全に戻っていたが、俺は何かが抜けているような、そんな気がずっとしていた。


****


「なあ、浩美」

「何?」


 放課後になり、俺と浩美は保健室へと向かっていた。今日はもう期末試験前だから、本当なら委員活動はない。けど、九鬼先生に確認したい事があったから。テスト前で、いつも渡り廊下から見下ろすと実ににぎやかな中庭も、急いで家に帰る奴、図書館の自習室に向かう奴ばかりで、静かだった。


「お前は、姫川の事覚えてる?」

「……」


 途端に浩美は顔を曇らせた。

 ……あ、まずい。浩美は姫川の事はトラウマのトリガーなんだ。俺は慌てて謝ろうとするが、それより先に浩美が口を開く。


「……マサ君は、姫川さんいなくなって、寂しい?」

「んー? いや、全然寂しくはないな。むしろ、勝手に俺の生活を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、何も言わずにいなくなったのに腹立ってる」

「それって、寂しいんじゃないのかな……」

「……あー」


 寂しくはない。それは本当だ。

 でも清々する。それはない。

 俺は今の自分の感情をどう取ればいいのかをもてあましていた。

 やがて、体育館が見えてきた。そのまま中に入り、保健室まで歩いて戸を開く。


「失礼しまーす」

「先生―、こんにちはー」

「あら? 音無さんと小野君? もうテスト期間に入るから今日は委員の当番はないわよ?」


 奥から先生はきょとんとした顔でこちらまで歩いてきた。


「いや、ちょっとだけ聞きたい事がありまして」

「……時計塔の1件、かしら?」


 ああ、この人も、姫川の事覚えてるんだ。

 まあ、あいつが直接じゃないとは言えど、先生の旦那を……。先生にしてみれば複雑なんだろうなあ。


「……すみません、デリカシーなくって」

「うふふ、あんまり男の子でデリカシーありすぎる人も、返って計算高く見られて損よ? ちょっとデリカシーないくらいでちょうどいいのよ」

「はあ……」


 先生は時々難しい話をするけど……そんなもんなのか?

 俺が首を捻っている間に、先生が席を勧めてきた。


「まあ、ちょっと待っててね。お茶用意するから」

「先生、別にいいですよお茶なんて」

「貴重な時間を割いて来てくれてるんだから、ちゃんと礼は尽くさないと」


 そう言いながら先生はいつものように、にこにこと笑いながらお茶の用意を始めた。

 仕方なく、俺は普段委員の座る席に座った。浩美は先生の手伝いに向かう。

 しばらくしたら、先生と浩美が紅茶を持ってこっちまで来た。


「はい、小野君はストレートだったわよね?」

「はい、ありがとうございます」

「置くね」

「ああ」


 そのまま紅茶の入ったカップが並べられ、皆席に着いた。

 俺は一口飲む。先生がお茶好きだから、委員活動していると時々お茶をくれる。俺はあんまり味は分からねえけど……多分ペットボトルのお茶よりはおいしいんだろうなあと思った。


「先生」

「なあに?」

「……俺って結局、選択としてはよかったんですかねえ」

「よかったって言うのは?」


 先生はカップをカタリと机に置いた。浩美は複雑そうなで紅茶を一口だけ飲んだ。


「……いや、影の事とか、結局全部なかった事にしただけで、何の解決もしてないなって思って」

「まあ、そうね……」


 先生は少しだけ目を伏せると、本を出した。

 ああ、これ。『黄昏の正義の味方』って結局先生が書いた本だったんだっけか。


「もちろんね、影の事はどうにかしないといけなかった。ただ、世界の管理者は世界の都合だけを押し付けて、日常生活については何のフォローもしなかった。

 警察官だって、休みを与えなくては働けない。それは自衛隊員だってボランティアだって同じ。非日常が日常に変わったら、どんどん日常は蝕まれていく……」


 先生はそう言って、カップに形のいい爪を浸し、水滴を机に落とした。

 机に敷いてあった紙に水滴は吸い込まれて、やがてそこは赤茶色いシミになった。


「私がこの本を書いたのは、もし私と主人と同じ、正義の味方とその妻になってしまう人が現れた時、その時どう行動するかを考えて欲しかったから。もちろん、旦那さんがいなくなってしまったのが悲しかったからって言うのもあるけど、他の人に同じ思いはしてほしくはなかったから……」

「あの、先生……」

「なあに?」


 今度は浩美がおずおずと声を上げた。


「私に、世界の敵の力をくれたのは……私が世界の管理者……姫川さんに消されそうになっていたからで、いいんですよね?」

「……ええ」


 先生も浩美も、複雑そうに目を伏せた。

 おい、そんな事、今初めて聞いたぞ?


「ちょっと待って下さい……浩美、それ俺今初めて聞いたぞ?」

「……怖くて、言えなかったの」

「あんのアマ! まだ俺に黙っていた事があったのかよ!!」


 俺は思わずカップをガッと掴んでグビグビと紅茶を一気飲みした。それを見て、何故か先生はくすくすと笑い始めた。


「……多分、あなたと音無さんは、私と主人のようにはならないわ」

「えっ?」「はい?」


 俺と浩美は、ほぼ同時に先生の顔を凝視した。

 先生は俺達のいつもの態度を見て、いつものように手で口元を隠してくすくすと笑う。

 俺と浩美は思わず顔を見合わせる。


「少なくとも。小野君、あなたは音無さんの「助けて」の声に気付けたじゃない。だから、あなた達は大丈夫」

「……そう、なのか……?」


 俺は自分にそう呟く。先生は大きく頷いた。


「気付かない事が、1番の悲劇なのだから。ねっ?」

「……はい、分かりました」

「そろそろ最終下校時刻ね……気を付けて。明日、テスト頑張ってね」

「はい、さよなら」

「失礼しますー」


 こうして、俺達は保健室を後にした。気付けば、空はほんのりと紫色を帯びていた。


****


 保健室から窓の外を見る。2人が帰って来る後ろ姿が見えた。

 気付けば日は随分高くなっていたけれど、流石にもうすぐ夜が来るわね。

 私はティーポットを揺らす。たぷんと音がした。

 私は机の上にトンと腰掛けると、無造作に自分のカップにお茶を注ぎ、それに口を付けた。

 これでいい。私はお茶を飲みながらそう思った。

 私は1つ本当の事を伝えなかった。世界の管理者に「魔女」と称された時には正直驚いたけれど、確かに私の選択は魔女と呼ばれても仕方がないのだろう。


「だって、悔しいじゃない」


 私は呟く。

 声が、聴こえてきた。


 ――憎イ 憎イ ドウシテ――


 冷たく低く、唸るような声だ。


 ――――独リニナンテナリタクナカッタ――――

 ――――離レタクナンテナカッタ ダカラ――――


「――同じ思いを、他の人もすればいいのに」


 私は唸る声に続けて言った。

 なんて事はない。あの冷たく心を凍てかせる声は、自分自身の心の声なのだから。

 私は一生、世界の敵の声と戦い続けるのだろう。

 ふと、窓ガラスを見た。

 窓ガラスに映る私の顔は、メガネが逆光を受けて表情が読めなかった。ただ。

 唇はお茶で濡れてヌラリと光り、口元には、くっきりとした笑みが浮かんでいた――。


****


「ねえ、マサ君」

「んー?」


 ぽつぽつと外灯に灯りが点る。俺達はその下を、いつものように歩いて家路を帰っている途中だった。

 その下で浩美はひどく弱々しい声を出した。

 俺はその声で隣に振り返ると、薄暗くても分かるほどに、浩美はひどくしょげた顔をしていた。


「何だ? どうかしたか?」

「……あのね、もしかしてマサ君。正義の味方、楽しかったのかなって」

「え……? 何でそう思うんだよ」

「……だって、マサ君、誰かを助けてた時の方が、全然会えなかったけど……楽しそうだったのかなって。私は……私のわがままで、マサ君にもしかしたら、ひどい事をしたのかなって思ったの……」

「……」


 どうなんだろう。

 それは、九鬼先生としゃべっていた時にも出た疑問だった。

 俺自身、姫川の存在にはとにかくムカついていた。奴は秘密主義だし、必要な事以外は全く話したがらなかったし、おまけに高圧的で上から目線な物言いはひどく腹が立った。でも。

 影を殴れば消える快感。

「助けて」と泣いて叫んでいる人達を、訳も分からないまま助ける事ができる力。

 誰も何が起こったのかが分からない優越感。

 ……楽しくなかったと言えば、正直嘘になる。

 そりゃ、最初は姫川にいいように使われていたさ。でも……。

 浩美が消えても、よかったのか?

 そりゃ、違うだろ。俺が楽しいからって、それが原因で浩美が消えるのは、そりゃ何か違うだろ……。


「……正直、俺にもよく分かんねえ」

「えっ?」

「ただ思うんだよ。俺は、浩美が消えたら嫌だって」

「マサ君……」


 浩美の肩が震え、瞳が潤み出したかと思うと、途端にぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始めた。


「って、あー。泣くなってば」

「ごめんなさい……でも……」

「俺が泣かしたみたいじゃねえかっっ、泣くなって」

「うん……」


 俺は仕方なく、泣きじゃくる浩美が泣きやむのを待っていた視線を彷徨わせていたら。

 チビが俺達を珍しそうに見ていた。

 ばーか、見せもんじゃねえよ。そう思って通り過ぎるのを見ていたが。

 途端、けたたましい外観保護区に似つかわしくないエンジン音が響き渡った。道路をものすごい速さでトラックが突っ込んできたのだ。おい、そこにさっきのチビが……。


「あ……危ない!!」


 俺は思わず駆け出し、子供を押し倒した―――― !!


「……え? マサ君―――― !?」


 浩美の叫び声が響く。

 トラックは、止まる事はとうとうなく、そのまま外観保護区を突っ切って行ってしまった。


「……痛うう――――」


 俺も子供も無事だった。

 とっさにチビを押し倒して石畳にべっちゃりとくっついたおかげで、タイヤに轢かれる事なく、ミンチになることはなかったのだ。


「おいチビ、危ないだろ? 何でこんな……」

 俺がかがんでチビに説教をしようとしたが。


 チビはパンパンと膝と顔を叩いた。


「びっくりした……トラック来るから……」

「……えっ?」


 そのままチビはきょろきょろと道を見回し、もうトラックがいない事を確認すると、そのまま走っていってしまった。

 この感じ……。俺はとっさに自分の手を広げて見た。

 俺は、確かにここにいる。


「マサ君、大丈夫? もう何? さっきの子。何でマサ君にちゃんとお礼も言わないで行っちゃうのかな?」


 浩美は心配しながらも少し頬を膨らませて怒りながら、こっちに向かってきた。

 俺は、よろよろと立ち上がった。


「マサ君?」


 俺の頭の中には、ぐるぐると、最後に姫川に言われた言葉が頭の中で渦巻いていた。


「……あなた、本当に何も分かっていないのね」


 それは単なる、こけおどしだとあの時は確かにそう思った。でも、考えてみろよ。あいつは秘密主義だ。あいつの独自判断で必要ないと思った事はこっちが聞くまでは全く教えてくれない。高圧的だし人を見下した態度ばっかり取る傲慢な奴だ。

でも、あいつは嘘だけは、1度も言った事がねえじゃねえか……!

 畜生……!

 目から涙がこらえようとしても、こらえようとしても、頬を伝って溢れ出る。これが、悲しくてなのか悔しくてなのか、それとも怒っているかなのかは、俺自身にも分からなかった。

 浩美は、おろおろとした様子で俺の傍に寄ってきた。


「マサ君? ねえ、どうしたの? ねえ」

「やめますってこっちで言うだけ言っても、やめられないものなのかな……」

「何が?」

「…………。俺、まだ正義の味方みたいなんだわ」

「……えっ?」


 その言葉に、浩美の顔は強張る。

 ああ、やばい。浩美にはもうこんな顔なんてしてほしくなかったのに。

 泣きながら、俺は不思議と笑えてきた。

 俺は泣いて笑いながら、言葉を紡ぐ。


「さっきのチビの反応、まるで俺が正義の味方をやってる時に助けてた奴らと同じ反応。俺が助けたって、気付いていないんだわ。

 ……なあ、もしかして、先生が言ってた取り返しのつかない事って、本当は違うんじゃねえのか?」

「……なに?」


 浩美の声は、俺と同じで震えていた。

 俺は、何とか力を出そうとぐっと握り拳を作る。少しだけ、光の粒子が飛び散ったような気がした。


「正義の味方って、1度なったら、もう取り返しがつかないんじゃねえのか? 姫川は、あいつ全く何の説明もしなかったけど。

 先生も言ってたじゃねえか。どんどん、旦那の事を忘れていったって。忘れるのに耐え切れなくなったから、世界の敵になったって。

 つまり、こっちは一方的にやめますって言った所で、正義の味方はやめられないんだよ。

 俺はずっと影と戦ってた。影を殴って、消してさ……。前に姫川は言ってた。影の作った異空間の事は、普通の人間には覚えられないって。俺も、ずっと影と一緒にいたからさ。いずれは皆から、忘れられ……」

「そんな事ないよ!」


 俺が最後まで言い切る前に、背中に柔らかいものが当たる。

浩美が、俺に抱きついてきたのだ。

 さっきようやく泣き止んだと思ったのに、もう背中越しに濡れているものが張り付いた。


「私は、どんな事があっても、マサ君の……マサ君の傍にいるから。もし本当に他の人達がマサ君の事を忘れたとしても、私は絶対忘れたりなんかしない。もう世界の敵にもなったりしない。だから……」


 最後に何かを言おうとする前に、浩美はまた、嗚咽を上げながら泣き出してしまった。

 空から、完全に太陽の光は、消えた。

 光るのは、外灯の灯りのみ。

 その中、俺と浩美は、声を殺して泣く事しか、できなかった……。

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