転章 隠された悲劇
目が覚めた時、私は保健室の自分の机にもたれて座っていた。
カーテン越しに差す光は柔らかく、今が夕方なのだと教えてくれた。
「……生きてる?」
私は思わず胸を撫でた。
確かに、剣で心臓を貫かれたはずなのに、穴なんてなく、ましてや血なんて流れていなかった。
確か……。まだぼんやりとしている意識で、私は記憶を探った。
確か、だんだんと身体が透けて、それと同時に意識が薄くなった後、身体がどんどん黒くなってきて……それから。
さっきのは夢だったのかしら。
私の身体から、気味の悪い黒いものがどんどん出て、増殖して、辺り一面を真っ黒に塗り潰していった。
気付けば、保健室は見た事もないような場所に作り替えられていた。
何もかもが真っ黒で、透き通った空間……。無機質を通り越して異形にしか思えない空間に……。
私は、その場所を飾るオブジェのように、ただ立ち尽くす事しか、できなかった……。
暗い。黒い。怖い。寒い。痛い。
どんなマイナスな言葉を並べても、その時の事を的確に言い表す言葉なんてなかった。
そこに、一条の光が現れた。
主人が、剣で黒色を薙ぎ払っていったの。
どう……して。
どうして主人がここにいるの? 私はただ開いて閉じない目で、彼を見る事しかできなかった。
「あれが世界の敵よ」
「あれは……」
主人は私を見て表情を凍らせたわ。
私は涙を流した。
その時は、本当に久々に主人の顔を見た瞬間だったから。
でも、私の涙は墨よりも真っ黒で、気付けば真っ黒な涙は大きな津波となって、彼に襲い掛かった。
でも主人は剣を持って薙ぎ払ったわ。
そのたびに、私の皮膚に、骨に、臓器に、痛みが走った。
痛くて痛くて叫んだわ。
でも声になんてならない。
ただ、私の真っ黒な涙が零れて、大きく荒れるだけ。
違うの。私の大事な人を襲いたい訳じゃないの。
やめて。やめてやめてやめて。
「今ならまだ間に合う。殺しなさい」
「くっ……」
「世界がどうなってもいいの?」
何で?
世界って何?
私が世界を滅ぼすの?
――――そんな!
私は世界を滅ぼしたりなんてしない!
ただ私は主人と一緒にいたかっただけ。
世界なんて、主人といる事と比べたら、他に変えられないものなのに―――― !!
何であなたはそんな事を言うの―――――― !!??
私の叫びは、さっきまでも大きくうねる、激しい津波となって、主人を襲った。
やめて! 主人を、主人を……。
殺さないで!!!!
津波は、真っ二つに割れた。
真っ黒な波が、半分に、それぞれ別方向へと流れていく。
そのまま、剣が私に向けられた。
「……それが、世界のためなら」
剣が、私の胸を貫いた。
真っ黒な水が、私の胸から溢れ出し、天井まで昇るほどの飛沫を上げた。
――――そこで私は、目を覚ました。
「麻子……」
「えっ?」
温かい声で私は振り返った。
そこには身体が透明になった主人の姿があった。
「あな……た? 何で?」
「よかった。まだ俺の事、覚えていてくれたんだ……すまない。君を巻き込みたくなかったんだ」
「ねえ、何が? どうしてこうなったの?」
「……君が世界の敵になったから、俺が君を殺そうとした」
「……!!」
私は思わず胸に手を当てる。
心臓の音がする。止まってはいないと思うけど……。
さっきの夢は……夢じゃない?
「でも……皆俺の事を忘れていっているだろう? 世界の管理者が言ってたよ。長い間異空間に干渉していると、―――――――――――――――――って。……やがて、君も俺の事を忘れる……」
「そんな事……そんな事ないわ」
私は首を振った。
確かに……私はこんなに大事な人なのに、忘れかけていた。
でも、今なら自信がある。
私はこの人を忘れたりなんかしないと。
「君が死んで、その事に気がついた。俺はもう……1人になってしまったって。そしたら……もうこっちに干渉できなくなってきたんだ。
最後の力で、君の影をかき集めて、何とか君に戻す事はできた……でも、これが限界みたいだ……」
「いや……いや……行かないで……」
私は主人に手を伸ばした。
でも。
主人は確かにここにいるのに、触れる事ができない。ただ、空を切っただけ。
主人は静かに笑った。
「麻子、愛している。君に会えて本当によかった」
「あなた……私も、愛しています。」
彼は、本当に透明な笑顔で笑った後、そのままどんどん透き通り、とうとう色すらも残さず透明になって、見えなくなってしまった。
それが、主人と交わした最期の言葉だった。
私が、私が主人を。殺してしまった――――。
彼が残してくれたものは3つ。
名前と、指輪と。
――――痛み。
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