三章
『その人は、正義の味方にただ1人、助けてもらえない人でした。
正義の味方は、いつも世界の敵と戦っているので、会うたびに、ボロボロの姿をしていました。
それでも笑顔だけはとても輝いていて、見る人全てが好きになる、そんな美しい笑顔を浮かべていました。
その人は、とても心配しました。
こんなにボロボロになって。いつかこの人は壊れてしまうのではないでしょうか。
心配して、せめて少しでも元気になってもらえるようにと、お弁当を手渡しました。
次に会った時、彼はお弁当を弁当箱ごと無くしていました。
「ありがとう。これで、お腹が空いている人を助ける事ができたよ」
少しでも元気になってもらおうと、一生懸命作ったお弁当を、正義の味方は一口も口にする事はなかったのです。
いつも忙しいから、自分の事を時々は思い出してもらおうと、懐中時計をプレゼントしました。
次に会った時、彼にプレゼントした懐中時計は壊れていました。
「ありがとう。これを胸に入れていたおかげで、弾で心臓を撃ち抜かれずに済んだよ」
少しでも自分の事を思い出してもらおうと思ったプレゼントは、正義の味方が眺める事なく生涯を終えたのでした。
彼はとても優しい人だから、世界の危機を見過ごす事はできないけれど、どんどんボロボロになっていく彼を、その人は見ているのが辛くなりました。
何とかして彼の力になろうとしましたが、その人の努力は、いつも空回りで終わるのです。
それでも、その人は諦める事なく、正義の味方を助ける方法を考えたのでした。
考えて、考えて、考えて、考えて。
そして、気付いたのです。
気付いてはいけない事に、気付いてしまったのです。
正義の味方は世界を愛していますが、その人はちっとも世界を愛していなかったのです。
その人は世界を愛していません。むしろ憎んでいます。
自分の大事な人をどんどんボロボロにしていく世界。自分の大事な人は、きらきら輝く笑顔で世界を見ていますが、世界にとっては彼は世界の一部でしかないのです。
そして、助けを求める人も憎んでいました。
「ありがとう」と上辺の言葉を述べ、平和の恩恵は、彼が血を流して勝ち取ったものだと言うのに、気付こうともしない。
彼の存在に気付くのはごくごくわずかの人間だけで、クリスマスも正月も、来るのが当たり前であり、皆幸せ世界も幸せと思いこんでいる人が、憎くて憎くて仕方がなかったのです。
彼を救うただ一つの方法は。
世界を滅ぼす事だ。
その人は、怒りました。
その怒りは、普段は彼を助ける事ができないと嘆き悲しんでいたものとは思えないほどの、大きな大きな力を引き出したのです。』
****
朗々とした声が響いていた。
真っ黒なオブジェの隣には、真っ黒な胸と脚の大きく開いたドレスに身を包んだ女の人が、本を広げてそれを読み上げていたのだ。
「『正義の味方は、対峙した世界の敵を見て、衝撃を受けました。
世界の敵は、いつものように帰ってきて、いつも笑って迎えてくれた、妻だったのです。
正義の味方の妻は、正義の味方が助ける必要のない、ただ1人の人でした。
「私を殺すのね、正義の味方」
その人の微笑みは、深い悲しみを湛えていました。
「あなたは、誰もが好きになってしまう人。でも、あなたを愛せるのは私だけなのに。あなたは、私を殺す事で、本当に1人になってしまう。それでも、私を殺すの?」』」
ホールいっぱいに女の人の朗読が反響して広がる。
何だ、この話は。
女の人の本、どこかで見た事あるような……。
……思い出した。初めて姫川と会った時、姫川が図書館で読んでいた本だ。
俺は、ちらりと姫川を見た。普段はポーカーフェイスの姫川にしては珍しく、明らかに不愉快だと言わんばかりに顔を歪めていた。
「魔女、今すぐそのくだらない話をやめなさい」
「……」
魔女と呼ばれた女の人は、ちらり、と姫川に視線を向けた後、再び本に視線を戻した。
あれ? その人と一瞬だけ目が合う。
俺は、ようやく魔女と呼ばれた人が誰なのかを理解した。
途端に、喉がからからと渇いてきた。
まさか……まさか……。
朗読は、続く。
「『世界の敵となってしまった妻は、悲しい笑みを浮かべていました。
正義の味方は、黄昏の下でしか誰も見ることができないので、彼に気付く人はごくごくわずかです。
世界の平和を守っていると言う事はもちろんの事、いるのかどうかすらも、悟る事は難しいのです。
世界の敵を殺せば、世界は救われます。
ただしそれは、ただ1人の自分の理解者を失う事と同意でした。』」
「……先生? 九鬼、先生……?」
俺は、かすれた声で、女の人に向かって問いかけた。
先生はいつもつけているメガネを外していたけれど、いつもより露出の多い格好だったけれど、いつもの朗らかな声ではなかったけれど……。
たまに保健室で会う顔を、いくら暗いからって、見間違える訳がない。
先生は、答える事も全くなく、本の朗読を続けた。
「『「私は、あなたを世界から救いたかった。あなたはいつも笑顔を浮かべて、たくさんの悲しみを殺してきた。
でも、あなたは気付いていた? あなたがいなくて、私がどれだけ悲しんだかを。あなたが世界の敵と戦っている間、独りぼっちになってしまった私は、一体どうやって生きたらよかったの?
あなたが死んでしまったら、私は生きていけなかった。だから、涙を堪えて、あなたの帰りを待たないといけなかった。
あなたは、私の「助けて」って言葉にだけは、返事を返してくれなかったのだもの」
世界の敵は、涙を流しました。
正義の味方は、それでも剣を取りました。』」
気付けば、オブジェから何かが這いずり出てきていた。それは、影だった。オブジェの顔から出てきたそれが朗読する先生の身体を伝って、腕に絡む。その影を纏った先生の腕は、徐々に太さと硬度を増し、やがてそれは剣の形を作った。
そして、真っ黒で透明なオブジェの方向へ、身体を向けた。
その行動に、ピクリと姫川が反応する。
「小野正義、今すぐ魔女と、世界の敵を殺しなさい。このまま放っておいたら、取り返しの付かない事になる!」
姫川は焦ったような声を上げる。
「ちょっと待てよ、でも、あれは……」
「魔女の声に耳を傾けては駄目! 今すぐ殺しなさい!」
既に、先生の腕は、完全に影を取り込んで、真っ黒な剣へと変貌していた。
でも……あのオブジェは……。
「『「それでも、世界を守らないといけないから』
「そう……だから私を殺すのね。世界はこれで、救われるのね」』」
そのまま、先生は剣で、オブジェを突き刺した。
オブジェからは、デロリ……と液体が溢れ出て来た。
いや、あれは、液体……水でも、ましてや血なんかでもない。あれは……あれは……。
影影影
影影影影影影影
影影影影影影影影影影影影影影影影
影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影影
それは、洪水のように溢れ出して、ホールいっぱいに、黒い影の大洪水になった。俺と姫川の足元は影まで浸かり、逃げる間も、殴る間もなくあっと言う間に腰の高さになり、そのまま流される。
影が、顔を這いずり回る。そのまま俺達を飲み込もうとする勢いだ。
「殺しなさい! 正義!」
姫川は影を首筋に這わせながらもかろうじて顔を出すが、既に身体を影に絡め取られている。
その中で、唯一先生は、オブジェと一緒にホールの中央に立って、本を朗読していた。
「『世界の敵は、涙を流しました。
胸に剣を生やして。
正義の味方の笑顔が、初めて崩れました。』」
読み終えた後、本をパタリ、と閉じる。
「音無さんの話を聞いて、まさかとは思っていたけれど、あなただったのね、小野君」
ようやく、先生はこっちを向いた。
「……先生、何でこんな事……」
俺は、流されるがまま、何とか足を大きく使って立ち泳ぎをして、顔を出す。
オブジェからは、尚も影がぽこりぽこりと湧き出ていた。
そのオブジェは、明らかに浩美の顔をしているのだ。
「何で浩美が……」
「小野正義、見なさい。私はあれほど結婚してはいけないと言ったのに……」
姫川は流されながらも、冷静な顔で呟いた。
「ちょっと待てよ、姫川。お前、あれは……」
「音無さんでしょうね」
「―――― !」
姫川の言葉に、俺はギリリと歯を噛んだ。
「……」
浩美らしいオブジェは、こぽりこぽりと影を肌から湧かしながら、何かをぶつぶつ言って、こっちの声に気付いていない。
俺はきっと九鬼先生を睨んだ。
「先生、何で浩美をこんな事に!?」
「あら、私は何もしていないわ。そうね、強いて言うなら……世界を滅ぼす力を音無さんにあげただけよ?」
先生の声は、いつもの朗らかなものとは打って変わり、妖艶な見ず知らずのものに変わっていた。
「悪い事は言わない。正義の味方を、今すぐやめなさい」
「……!?」
浩美の肌から湧き出てきた影は、なおも洪水のように俺達を押し流す。
「小野正義、これは魔女の戯れ言よ。まともに聞いては駄目」
姫川は何とか洪水に流されつつも顔を出していたが、既に影は姫川の顔さえも覆おうとしていた。
畜生、殴れれば……。でも、これを殴ったら、浩美は、浩美はどうなるんだ……!?
「畜生……先生! 何だって浩美にそんな力を……」
「…………。私と同じで憐れに思ったからよ。彼女は、私が力を与えなければ、世界の強制力に負けて消されてしまう所だった」
「……え?」
俺は、隣の姫川を見た。
姫川は俺の視線を無視して、先生をきっと睨んだ。
「先代の正義の味方を殺したのはあなたなのに、よくそんな事が言えるわね。魔女」
「え……?」
話が、次から次へと。
浩美が世界の敵になって、先生が魔女で、その上、前の世界の敵って……。
ああ、もう。
俺は髪を掻き毟りたかったけど、今髪を掻き毟ったら溺れると思ったので、先生の方に向き合うだけに留めた。
「先生、教えて下さい。何があったんですか」
「正義、あなた魔女の言う事を信じる気?」
姫川は目を少し細めて俺を睨んだが、俺は聞く気にはなれなかった。
今回ばかりは俺の好きにさせてもらうぞ。俺は溜め込んでいた怒りを、声に乗せた。
「ああ、うるせえうるせえ、うるせえうるせえうるせえ! 少なくとも、お前信じるよかよっぽどマシだよ! お前は秘密主義だし、人の話全く聞かねえし、その上、知り合い殺せ殺せ迫る奴の話をどうやって聞けばいいんだよ!!」
「……失敗だったかしら」
姫川は明らかに今の場に合わないセリフをぼそりと呟く。
……こいつは。
俺はちっ、舌打ちすると、先生に頭を下げた。
先生は、少し目を細めると、にっこりと笑った。その笑顔はいつも見せる朗らかな笑顔ではなく、ひどく悲しみをこらえているような笑顔だった。
「世界の管理者が言っている事も本当だけど、聞いてくれる?」
「さっきも姫川に言いましたけど、こっちの方がまだマシですし。それに……」
俺はもう1度浩美を見た。
透明のオブジェの浩美は、相変わらず影をこぽりこぽりと出しながら、何かを言っている。でも、小さ過ぎて全く聞き取れなかった。
先生は俺の言葉を聞いて、少し溜め息をつくと、そっと手を撫でた。影を纏って剣に変わっていた手がしゅるしゅると解け、本来の生身の手が出てきた。その薬指には、指輪が光っていた。
「私はね、昔結婚していたのよ。この学校の、教師と」
「え……」
「でもね、ある日突然、旦那さんは家に帰ってこなくなったの。理由をいくら聞いても、教えてくれなかった。そして、気付いたの」
そこで、息を止めた後、悲しそうに目を伏せた。
そして続ける。
「周りがね、段々、彼の事を忘れていったのよ」
「……!?」
俺はその言葉を聞いて、思わず姫川の方を向いた。
姫川は、目を閉じてしまっていた。もうこいつは、俺の話に口を挟む気も、聞く気もないんだろうか。ちっ、何が世界の管理人だよ。人の気なんて、知りもしないで。
先生は続ける。
「そして、とうとう私も、旦那さんの事を忘れかけた……。そしたらね、段々身体が黒くなってきたのよ。そして……意識を失った。
気付いたら、私は今の音無さんのように、オブジェみたいになってた。身体からね、どんどん影が湧き出るし、人が、憎くて憎くて仕方がなかったの。彼がいないのは、理不尽で、理不尽でしょうがなくってね……。
そして――旦那さんを殺したの」
「―――― !」
言葉に、詰まった。
じゃあ、ずっと指輪つけてたのも……。俺の身体は、震えた。
どんなに影と殴り合いをしても、怪我をしても、死ぬ訳ないと心のどこかでは思っていた。でも……。でも……。
「……先生、さっきまで読んでた本は」
出た俺の声は、ひどくかすれていた。
「あれ? 私が旦那さんを殺した事を、忘れないようにって書いたの。自費出版してね。でも……私が手をかけたせいかしらね。ちっとも忘れないし、昨日の事のように思い出せるの……。
こうする事でしか、旦那さんを愛する事ができなかったの」
「……」
俺は、もうこれ以上何も言う事は、できなかった……。
もし先生の旦那は、本当の事を話していたら、嘘だって思われても言っていたら、旦那は殺されなくって済んだんじゃないのか?
それに……正義の味方は、いずれ誰からも忘れられるものだったのか?
俺は姫川を見たが、姫川は依然目を閉じたまま、開こうとはしなかった。
俺は再び、浩美を見上げた。
黒く透明なオブジェのようになった浩美の目から流れ出る影は、まるで涙だ。だとしたらこの影の洪水は、浩美の流した涙でできてるんじゃねえのか?
姫川は、以前の正義の味方が殺されたのは、結婚していたからだと曲解したから、俺と浩美を勝手に結婚していると解釈して引き離そうとした。
でも、それで不安だった浩美をさらに追いつめちまったんだ……。
畜生……。
畜生畜生畜生……。
本当に……どうしたらよかったんだよ……。
「あなたは」
「姫川……?」
姫川は、ようやく目を開けた。
その目は、俺を無視して、まっすぐに先生を睨んでいた。
「あなたは、あの時、どうして世界を滅ぼさなかったの? おかげで……」
そのまま次に、俺を睨んだ。
「正義の味方の選出に、時間がかかったわ。世界の危機が起こらなかったら、世界は正義の味方を得るための強制力を発動させないもの」
「……!!」
俺は、ようやく姫川が俺を選んだのかが分かった。
姫川は、やる気満々だった先生の旦那を失敗だと判断したから、俺みたいにやる気のない、結婚してない奴を選んだんだ。俺だったら、世界の敵を作る要素が微塵にもないって、勝手にそう解釈して……。
……んだよ。ふざけんなよ。
俺は、ガリガリガリと髪を掻き毟った。
手が止まった反動で一瞬、足が止まる。
「あ……」
「小野正義!」
「小野君?」
何とか足をバタバタと泳がせるが、泳げば泳ぐほどに、足が絡まって言う事を聞かなくなった。
そのまま、俺は影の洪水へと沈んでいった――。
****
影の洪水の底は、闇だった。
びっしりと影が形を作らずに漂っているのだ。
俺はその中で不安な浮遊力で沈んでいるような、浮いているような曖昧な状態で、ただ仰向けになって漂っていた。
沈んだはずなのに息苦しくもなく、重力も浮力も感じないこの曖昧な状態が、ひどく気持ち悪かった。
影が俺を取り込もう取り込もうと、肌を這いずり回る。
俺は、気持ち悪いとは思いつつも、抵抗する気を失って、されるがままに影になぶられていた。
何だよ。どいつもこいつも人の都合を押し付けやがって。
それで自分にとって都合が悪いとポイ捨てだと? ふざけんなよ。
やがて、1つの長い長い影が、俺を掴んだ。
「……んだよ。俺を取り込むってか?」
今まで影に話しかけた事もないけれど、俺はやけ気味に、影に声をかけた。
殴れば多分消えるんだろうけど、それは浩美を殴る事と同意と思ったらできなかった。
ヒッグヒッグヒッグヒッグ
「ん……?」
影には目も口もなく、ただブヨブヨとした黒いもののはずなのに、その影が泣いている事に気が付いた。
この泣き声……まさか、浩美?
「……が…………えば…………くる」
「えっ?」
小さなうわ言が繰り返される。
それは、浩美のオブジェがずっと呟いていた言葉と同じに聞こえた。
「せか…………ってくる」
「何て?」
その影は俺にしゅるしゅると絡み付いた。まるで……泣きすがってるみたいじゃねえかよ。
「――世界がなくなってしまえば、彼が帰ってくる」
「……!」
影は、そのまま俺を一気に取り込もうとした。
が、俺を取り込もうと俺の皮膚を刺す度に、光の粒子が散る。ああ、俺が自分の意思で使うのを止めていても、正義の味方の力が影を拒絶するのか。影は悲鳴を上げるように震えたが、尚も俺を取り込もう取り込もうと俺の腕に、首に、絡みつく。
「……なあ、浩美」
影は悲鳴を上げるように震えて、その度に触手が消える。それでも尚、影は俺に伸びてきた。
「……ごめん」
影は、ビクリッと反応した後、俺の手前で止まった。
「俺、お前に言えなかったんだわ。正義の味方してます、なんて。でもそれが、お前を追い込んだ。そうなんだろ?」
影は、しゅるしゅると遠ざかる。
「……ごめん。謝ってばっかだけど。ただ、お前を余計に心配させたくなかった。信じてもらえないのもあるけど、余計不安にさせる必要もないって思ったからさ」
影は、小さく細くなっていく。
俺はその小さくなった影に手を伸ばした。
影はびくり、と脅えたように震えたが、俺がされるがままになっていたように、影もそれに倣った。
俺はその影を、ゆっくりと抱き締めた――――。
やがて、辺りを漂っていた影にも変化が訪れる。
影は、小さな影にどんどんどんどんと吸い込まれていったのだ。小さな影は、やがて人の形になった。
そして、最後に現れたのは、オブジェの浩美だった。
黒く透明で、辺りが透けている。浩美の中には、くるくると吸い込んだ影が渦巻いていた。
俺は、そのオブジェの浩美の頬にそっと触れた。
感覚がない。例えるなら、パントマイムで人の頬を触るマイムをしているように。
「浩美……戻って来いよ」
「…………マサ……く……ん…………?」
徐々に、触れた場所に、感覚が戻ってきた。
浩美から、黒い影の色が徐々に抜けてきたのだ。それと同時に、透けていた身体の色が、濃く……。
そのまま、浩美は崩れ落ちた。
「おっと」
俺は思わず腕を出すと、浩美は腕の中に落ちてきた。
「……マサ君」
「浩美、大丈夫か? どっか痛い所とかは?」
「ううん、大丈夫……。マサ君は? 痛い所とか、ない?」
「いーや。だって戦ってねえから」
「……私、気持ち悪いよね。身体からいっぱい気持ち悪いもの出して……。悲しくって恥ずかしくって仕方なかったけど、でも止める事が全然できなくって……」
「うっせえよ」
俺はそのまま浩美の背に、腕を回した。腕の中にいる浩美は驚いたように、背中をビクリと跳ねさせる。
あー、もう。うるせえうるせえうるせえ。
どいつもこいつも勝手なんだよ。人の気も知らないで人の知らない所で勝手に話を進めて。俺の気持ちはどうなるんだよ。
「言っとくけどな。俺はお前を気持ち悪いなんて思った事、1度もねえよ」
「……えっ?」
浩美は俺の腕の中で、俺の顔を見た。その後、背中が震え始めた。
「……ありがとう」
「だぁぁー、泣くな! お前は俺を怒るのが仕事だろうが!」
「うん……」
俺にそのまま、浩美はすがり付いていた。
「とどめは?」
背後から、声が聴こえた。
姫川だった。
「世界の敵は戦意を喪失したわ。今の内にとどめを……」
「……」
姫川の声に、浩美は震えていた。俺の袖を、きつくきつく掴む。
……。
「ああ、もう。お前はもう黙れ!」
俺は思わず姫川に向かって叫んでいた。姫川の表情は変わらない。
「浩美はもう世界を壊そうとも、影を出そうともしねえよ! 見りゃ分かるだろう!?」
「あなたは何も分かっていないのね。世界の敵を放置したから、世界の敵は魔女になり、新たな世界の敵を覚醒させたのよ? 今とどめを刺さないと一体どうなるか……」
「ああ~、もううるせえ!」
俺は怒鳴った。
「そもそもおかしいだろ!? 自分の身内殺して、何が正義の味方だよ! ただの殺人じゃねえか、そんなのは。俺はそんなの嫌だね。
第一、先生が世界の敵になったのも、浩美が世界の敵になったのも、身内を放っておいた結果じゃねえか! 俺も、多分だけれど、先生の旦那も……身内を傷つけるために正義の味方になったんじゃねえ!!
俺は降りるぞ! そんなつもりなら!」
「……」
俺が一気にまくし立てている間、浩美はずっと俺の袖を掴んでいた。俺は、浩美の背中に回した手を強める。
姫川は、俺の顔をしばらく眺めていた。
「…………そう」
長い沈黙の後、それだけを呟いた。
その後、くるりと俺に背中を向ける。
「あなたは、きっとこの選択を後悔する事になるわ」
「ならねえよ。自分で決めたんだ」
「……あなた、本当に何も分かっていないのね」
姫川は、背中を見せたまま、もうこちらの方に顔を見せる事はなかった。そのまま、姫川は文字通りいなくなった。
……前から思っていたけど、姫川が消えたり出てきたりするのに、意味はあったんだろうか。秘密主義のあいつは最後まで自分の事を話したりはしなかったけど。
「……世界の管理者は、いなくなったみたいね」
ふと後ろを振り返ると、先生の声が聴こえた。口調はいつもの朗らかな声に戻り、服もいつものメガネに白衣姿に戻っていた。
まあ、あれだけの露出をもうちょっと拝めなかったのは少しもったいないような気もしたけど、まあいっか。
って、俺はそこで自分に柔らかいものが当たっている事に気がついた。
……浩美は、どっちかと言うと内向的な性格にも関わらず、スタイルだけはムチムチしているんだったわ。
俺は思わず浩美から手を離した。腕の中から出てきた浩美は、顔が真っ赤だった。
照れるな、こっちが照れたくなるわ。俺は頬が火照るのを感じていた。それを先生がいつものようにクスクスと笑っていた。
と、気付けばあの嫌だった機械油の匂いがするのに気が付いた。
周りを見ると、ありえない位に広いホールも、螺旋階段も消えていた。俺達が立っていたそこは、ただ埃と油の匂いのする、時計塔整備の道具がそこここに置いてある、ただの物置だった。当然真っ暗と言う訳ではなく、埃と油がべとついているせいで薄暗いとは言えども、白光灯の明かりが点いていた。
ああ、そっか。世界の敵が異空間を作るんだ。浩美はもう世界の敵じゃねえから、異空間も解除された……って事でいいんだよな?
「……先生」
浩美はおずおずと声を出した。
浩美?
「……私はもう、さっきみたいに影を出したりとか、もうしないんでしょうか? もし、また全然自分の意思関係なく動き回った、嫌だなって……」
「……そうね」
先生は少し目を伏せた後、にっこりと笑った。
「私の時は、気付けば主人を殺していた。全部手遅れになっちゃったけど……でも音無さんは違うわ。あなたは、取り返しのつかない事になる前に、元に戻れた。あなたがあなたの意思を保っていられる内は、大丈夫よ?」
「……はい」
「あら、そろそろホームルーム始まる時間ね、早く教室に帰りなさい」
「えっ?」「えっ?」
俺と浩美は顔を見合わせた。
さっきから洪水に流されたり、本の朗読を聞いたりしていたし、もうとっくに朝礼なんて終わっていると思っていた。
先生はにこにこと笑う。
「時計塔から出てみたら分かるわ」
先生に言われて、俺と浩美は顔を見合わせた。
****
埃っぽい時計塔の地下倉庫から出ると同時に、頭上から大きく鐘が鳴り響いた。鐘の音が耳の中で大きくぐわんぐわんと反響し、思わず俺は耳を押さえて時計盤を見た。
時計の秒針は、8時35分。ちょうどホームルームの時間に止まっていた。
「えっ……さっきまであんだけ鳴ってたのに……」
俺は思わず唸る。
今まで影と戦っていた事はあったけど、時間が止まっていた事なんて、確かなかったはずなのに……。世界の敵の作る異空間は、時間まで止めてたのか……。
浩美の顔をちらりと見る。浩美は、複雑そうな顔で、時計盤を見上げていた。
と、パンパンと手を叩く音に振り返る。
先生が、手を叩いたのだ。
「はい、もうホームルームの時間でしょう? 行きなさい?」
「えっ……あっ、はい。おい浩美。行くぞ」
「……えっ? あっ、うんっっ」
そのまま、俺と浩美は先生に頭を下げると、走っていった。
「んだよ、本当に今までのは一体!」
腕をぶんぶんと振る。浩美は俺より少しだけ遅れて走る。
「……でも、嬉しい」
「何がっっ!? 遅刻しかかってんのに!」
「ううん、日常に戻れたなって、そう思ったの」
「ああん?」
「……だって、この間までのマサ君だったら、遅刻とかそう言うの、気にしなかったもの……」
「……あー、それを言うなよ」
「ふふ……」
浩美は笑っていた。遅刻しかかってるのに、こうして走っているのに。
俺はそう考えていて……ああ、これが普通の事なんだなと納得していた。最近は、ずっと影を退治する事を優先していたから、他の事に目が行っていなかった。浩美は、それを心配してたんだな……。
「なあ浩美」
「何?」
普通科棟に入り、靴箱で制定靴から上履きに履き替える。そのまま、一気に階段を昇る。高等部1年は3階だ。そこまで駆け上らないといけない。
「ごめん」
「えっ……?」
「……いや、お前に面と向かって言っていなかった気がしたから」
「……うん」
浩美は曖昧に笑った。
階段を目が回りそうになりながら昇り続け、教室まで走る。
途中で他のクラスの担任が教室に入っていくのを尻目に、俺達のクラスの戸に手をかけた。
「あっ」
「浩美!」
「あらま、よかったよかった。2人で仲良くご登校できたんだ?」
戸が開いた瞬間、大瀬と園田が声をかけてきた。
幸いまだ先生は教室に入っておらず、クラスの奴らもまだ席に着かずにしゃべっている所だった。ちらりと戸の方を見てくるが、特に気にする訳もなく、銘々の話題にすぐ戻っていく。
俺と浩美が急いで教室に入ると、大瀬は泣きそうな顔で浩美の所まで走ってきた。
「馬鹿ぁぁぁぁ、アンタもう本当どこ行ってたの!? すっごい心配したんだからねえ!?」
「陽菜ちゃん……苦しい、苦しいよ」
「はーい、陽菜ちゃんストーップ。このままだと浩美ちゃん死んじゃうからねえ?」
大瀬が浩美に抱きつくと言うより羽交い絞めにするので、浩美は苦しそうにジタバタしていた。それを笑いながら園田が止めに入る。
本当に、いつもの光景だ。
「……ははっ」
俺は思わず笑った。
これが、当たり前の日常だったんだ。
本当、忘れてたわ。俺、本当は力を抜いて生きているキャラだったんだわ。
そうこうしている内に、教室に担任が入ってきた。
こうして、日常に戻っていく。
――はずだった。
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