1分で読める短篇小説

南野モリコ

第1話 キー厶ンの香り


20××年12月。その分野では輝かしい数々の功績を残した博士は、ささやかだが温かい住まいを構えていた。市街地からはそう遠く離れてはいないが世間の人の話に上ることはなくなったこの村には、博士が住むこの家しか残っていない。


毎日、午後5時になると、メイドが書斎にお茶とお菓子を運んで来た。博士は、メイドのスリッパの音がドアの外から聞こえただけで、それがコーヒーなのか、紅茶なのか、煎茶なのか、確実に言い当てることが出来た。そして、添えられた小さなお菓子も。


「今日は、緑茶だね。お茶うけは、羊羹かな」

「その通り。先生、ご名答です」


博士に当てられないように、匂いがしないものをわざと選んだメイドは、楽しそうに悔しがった。


しかし、ある日、博士はこんなことを言った。

「紅茶は、カップとソーサーがカチャカチャ音を立てるから、おしゃべり好きな貴婦人みたいなお茶だね。仕事をしながら、あのカチャカチャという音を聞くといかにもお茶が運ばれてきたという気分になるんだ。それと違って、日本茶は無口なお茶だ。瞑想している哲学者みたいだよ」


それ以来、メイドは紅茶を淹れるようになった。賢い娘だ。たまに手が触れた感じから想像するに、年は、まだ大学を出たぐらいだろうか。なぜ、こんな仕事をしているのだろう。博士は、お茶を飲みながら、彼女の身の上を聞こうと思ったがやめた。人間関係には距離が、社会には秩序が肝心というものだ。



博士は、毎日、5時のお茶の時間に間に合うようにと帰宅する。駐車場に車が止まる音が聞こえると、屋敷は活気を帯びる。料理人たちは、スープを作る大きな鍋をコンロに出し、秘書は、ネクタイを正す。博士が玄関を開けると、書斎では、暖炉がパチパチと音を立てている。そして、博士が書斎に座った頃を見計らって、メイドはドアをノックする。


「先生、おかえりなさいませ」

「今日は、キームンかな」

「さすが、先生。今日もご名答です」

メイドは、カチャカチャと音を立てて、博士のデスク脇のテーブルに、お茶とお菓子が乗ったトレイを置いた。



キームンは、木が焼ける時の煙の匂いに似ていると思った。博士は、まだこの村にたくさんの人が住んでいた頃のことを思い出した。年末の神社では、こんな匂いがする煙が立ち込めていた。

博士はこの村でただ一人の子供だった。そして、この村で育った最後の子供となった。

あれから何十回とここで年の瀬を迎えたが、木々と土が冷え始める12月の匂いは、どんな時代になっても変わらないだろう


5時半になると、再びメイドが入って来た。暖炉の燃える温かい書斎に、食器を下げる音が小さく響いている。博士は、パソコンから顔を上げた。


「今日のティーカップは、ウェッジウッドのワイルド・ストロベリーかい?」

「その通りです。先生、ご名答です。本当に何でもお分かりになるんですね」


本当によくできたメイドだ。彼女は、私が全盲であっても、毎日、違うティーカップでお茶を飲ませてくれる。そのおかげで、磁器ひとつひとつの手触りや、カーブの仕方、口に当たった時のかすかな音の違いを発見できた。美しいものというのは、目が見えない人にとっても、美しいということを知ったのだ。



博士は視力を失ったが、若い頃、研究で欧米各国を訪れた時に集めた食器の美しさは心に焼き付いている。ワイルド・ストロベリー、ブルー・オニオン、インドの華。

そして、テクノロジーは進歩を遂げ、点字と音声のデータのおかげで目が見えなくても研究を続けることができた。


博士は、北側のキッチンで、メイドや料理人や自分の送り迎えをしてくれる車の運転手たちが、テーブルを囲んでお茶を楽しんでいる様子を想像した。新年になると、彼らは10日間の休暇を取り、入れ違うように、博士の子供たちが帰ってくる。息子も娘も独立し、世界のあちこちで自分の道を歩んでいる。そして、年に数回、孫たちにこの村を見せに帰って来てくる。


夕食が終わると、ナイトティーが運ばれて来た。博士は、熱い紅茶をすすった。博士は幸せだった。

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