第3話 逃走

 能勢田のせだ橘音きつねはひどく怯え、そして長いこと悩んでいた。あろうことか、うどんから人に成り替わる瞬間を見られてしまった。もっとも知られてはいけない部分を・・・

 目撃した男は、橘音の知らない会社員である。まさかうどんに変身する女がいるなどという情報を誰もが信じるはずがない。だから、出くわさなければ当分自分の生活は守られる。それにしばらく経てばあれは幻覚だったのかな、とでも思ってくれるだろう。

 橘音は万が一満月の夜に帰宅したときの危険性に備え、会社のすぐ近くに住んでいる。あの男も近くに住んでいるだろうか。いや、それはわからない。ただ、働き場所が近いのは確実である。

 となれば、出勤時と退勤時に人目を避けて帰る事である。あれから何週間もどうすればいいか考えていたが、これさえ気をつければきっと大丈夫、と橘音は結論付け、ホッとしながら会社を出る。昼食のおにぎりを買うためだ。

 列の前には3人ほど並んでおり、さきほどインスタントうどんを買った人がコンビニの備え付けの湯沸かしポットに向かった。ここでもうどんがあるよね、と橘音はちょっと胸の縮むような思いでため息をつく。

 おにぎりと野菜ジュースを買い、おつりの端数を合わせて橘音は支払う。入り口に向かうとさきほどインスタントうどんを買った人がお湯を注いで出来上がるのを待っていた。橘音とその男は目があった。


 男は目を見開いた。端正な顔立ち。メガネ。


 橘音は気付いた。あの時の・・・。


 男は目を輝かせた。


 橘音はそっぽむいた。


 「ねえ、ねえねえねえ!」男がそう叫びながら橘音に寄ってくる。「この前の夜の、あの娘でしょ。うどんの。」


 まさか近場のコンビニで出くわすなんて。男、すなわち白井葱人が後を追いかけながら喋る。


 「ねえ、君の事、気になってるんだ。今度お茶しない?」


 橘音はダッと走りだし、そしてコンビニの外へと駆け抜ける。葱人は途端顔を歪め、「待ってよ!!」と怒鳴りながら追いかける。


 会社には警備がいる。今一番安全な場所といったらそこしかない。橘音は急いで会社のゲートをくぐる。後ろに気配がない。

 「どうしましたか?大丈夫ですか?」警備の人が橘音に声をかける。「男が私を・・・つけてきたので・・・」橘音は息も絶え絶えに言う。警備の人が会社の外に出て見回り、そして戻ってくる。「一通り見回りましたが男の姿はありませんでした。」「分かりました・・・。」「帰り大丈夫ですか?」「念のためタクシーで帰ります。」「そのほうがいいと思います。お気をつけて。」

 橘音は自分のオフィスへと戻っていく。



 夜、タクシーに乗りながら、明日はちょうど休日だし、交番に相談しに行こうと考える。どうもうどんの事件に拘らず危険人物っぽいし、なんならその事件だって彼の妄想という事で片付けてもらおう、と意地の悪い事さえ橘音は考えてしまう。

 「ここで大丈夫です。」橘音はそう言って財布を取り出し、運転手に代金を支払う。

 タクシーを降りて伸びをしながら空を見れば、月が少しだけ欠けている。まだ満月じゃない。その安堵感と共に手を降ろし、自宅であるマンションに向かう。背後で車が止まり、そしてこちらに来る気配がしたかと思うと、葱人が肘で橘音を羽交い締めにする。

 「ふひひひひひ、捕まえましたぞ、捕まえましたぞ。」葱人はにやりと笑う。「早引けした甲斐があった。これで君は僕のものだ。」

 「んぐぐぐぐ」橘音は声を上げようとするが首が締まっていて出ない。

 「ちょっと申し訳ないけど」葱人はガムテープと紐をポケットから取り出す。「おとなしくしててね。」

 そして全身拘束された橘音は葱人の車におしこまれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る