第2話 出会い

 満月が来ない日は、当然のことながら橘音は心安らかに過ごすことができる。とはいえ、橘音自身のこの疾病しっぺいは日常生活に少なからず影響を与えている。

 彼女は、たとえば社員食堂に行く事は滅多にない。なぜか?社員食堂には様々なメニューがあるが、中でも安価でおいしいうどんが人気である。つまり至る所でうどんがすすられる。ホラー映画だって満足に見れない橘音が、自分とそっくりのうどんが容赦なくその中身を救われ一本ずつ吸い取られていく様を見る事など耐えきれない。まるで自分の内臓が丁寧に抉られているようで、ストレスで胃に穴が開くような苦痛にさいなまされる。


 この病気は生まれつきのものである。両親の話すところによれば、赤ん坊のそのうるさい鳴き声が止んだ時、ベビーベッドにちいさなうどんがあったという。両親は事態を理解し、橘音が守られるために全力を尽くした。幼稚園と小学校はそもそも夜は家にいる事が多いから大丈夫だが、さすがにお泊まり会などで友達と共にいるときは、満月の日にならないよう細心の注意を払った。友達の目の前でうどんに変身しようものなら一生物笑いの種である。

 

 怖いのは大学時代である。うっかり気が緩んで夜遅く帰ってしまった時に橘音は両親にこっぴどく怒られた。それでもやはり遅い帰宅を何度か繰り返してしまった。幸いな事に、大学の四年間、満月の日に夜まで過ごしたのは一度だけ、大学祭の時だけだった。模擬店が溢れかえる中、足に違和感を感じた橘音は咄嗟に草陰に隠れた。そして案の定、うどんになってしまった。本当に幸いだったのは、酒や焼きそばなど食べ物の匂いで溢れかえっており、誰も橘音から発せられるうどんの芳しき匂いに気づかなかったのだ。それに祭りの最中だったからこそ、橘音の姿が無い事に誰も不審に思わなかった。その時以来彼女は満月の日を殊更に警戒するようになったのである。


 だが、親元を離れ社員となって忙しくなった時に、満月だからといって早引きするのはいろいろと難しい。幸い満月の光を浴びなければ変身しないので、窓の無い部屋で朝まで残業すれば良いのだが、毎回そういうわけにもいかない。


 今日の満月の日もわざと遅くまで残業したものの、たまたま先日から残業が続いていた事を心配に思った上司が橘音の肩を手を置き、「ちょっとは休め。」と言った。「でも、部長!この仕事をやらなくちゃ・・・」と橘音は慌てて言うが、「能勢田。家に帰りたく無い理由でもあるのか?」と上司は言う。見抜かれてしまった。でもうどんに変身するから帰りたく無いんです、とはとてもじゃないけど言えない。窓を見ると、なんと月が雲に隠れてるではないか。今のうちならチャンスではないか。「そういうわけではないですが、でも、ありがたく帰らせて頂きます・・・」と言って橘音は席を立ち、カバンを持ってカツカツとヒールの音を鳴らしながらその場を去る。


 空をチラチラとみながら帰るのは落ち着かないものである。いつまた月が雲から現れないか不安でしょうがない。路地で若い男女が睦まじく囁きあっている。「ねえ。」「なあに。」「ねえねえ。」「なによ・・・こうしてほしいの?」「ううん。」「じゃあこれ?それともこれ?」「うん、大好きだよ。」「うふふ何よ。」「だって好きなんだもん。」「かわいいわね。」

 いいよね、あの子たちは、と橘音は少し羨ましくも思う。自分が月に一度うどんに変身する、と打ち明ける事は、好きを告白する事よりも恐ろしい事だった。自分がもしも『あの子ならうどんにでも変身してもおかしくない気がするわ』とでも言われそうな変人だったらよかったかもしれない。だが、そうではない。ごく平凡に生きた女の、奇妙すぎるコンプレックスなのだ。

 そうして、自分のプライベートを伝えるのが億劫になるうちに疎遠になった人は何人もいる。その事を思い起こすたびに橘音は惨めな気持ちになるのだが、足が丼に変化していた。空を見ると、雲から、月が。ああ。




 またうどんになってしまった。橘音はつけもしないため息をついてみる。でも何も変わらない。ただ芳しい香りがまた路地裏に漂っているだけだ。ああ、神よ。なぜ神は彼女をこのような不幸に貶めたのか。人並みに、人並みに努力をしながらもうどんに変身するがばかりに上手くいかない数々の出来事。ああ、神よ。彼女に報われる機会は無いのであろうか。決して報われないのであろうか。答えはいったい、どこにある?神よ!




 「ああ、腹減ったよう・・・」

 誰に対して言ってるのか分からない独り言を唱える会社員の男。

 「昼間からなにも食わずに働いたから、本当にお腹が減ったよう・・・おや?」男は匂いを嗅ぐ。「この匂いは、うどんの香り!なんとおいしそうな匂いなんだ!」男は走り出す。すると路地の真ん中にほかほかのうどんが置かれてるではないか。

 ごくり、と男は唾を飲む。誰かのうどんかもしれない、と周りを見回すが、人っ子一人気配が無い。箸が無い。仕方なく、昼食のお弁当につかった箸を取り出して、じりじりとうどんに近寄る。


 月が雲に隠れた。


 激しい風圧とともに、うどんの上に竜巻が起きた。男は驚いて目を見張る。竜巻の中に現れたのは、泣き顔の可憐な乙女であった。乙女は箸をもったまま地面にへばった男を見て「あ」と蚊のなくような声で背を向けて走り去り、男は手を伸ばす。いなくなった時に、男は、自分の胸が疼いている事に気づいた。そう、これは紛れもなく。忘れられないあの泣き顔。自分はあの子に、恋をしてしまったのだ。

 男の名前は白井しろい葱人ねぎと

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