うどんむすめ
NUJ
第1話 うどんむすめ
「ハァ、ハァ、ハァ」
息を切らしながら走る女の影。
「ハァ・・・ハァ・・・ハァ」
それは何かに追われているようである。人々は何事かとじろじろ見るものの、気に留めない。誰も彼女を追ってこないからだ。
「ハァ・・・時間が・・・うわっ!」
女は転ぶ。それもそのはず、片足が
「もう、来てしまうの・・・」女は片足を見ながらわなわな震えた。「やめて・・・」
空の雲は移動し、徐々に満月が露わになる。
「いや、いや、いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
女は悲鳴を上げながらその体が足の丼の中に吸い込まれていく。そして女の姿はなく、代わりにほかほかのあつあつのうどんが路地の中に置かれていた。
否、このうどんは、あの逃げていた女そのものである。女の名前は、
だが、彼らは知らないであろう。橘音のコンプレックスを。彼女は満月の光を浴びると変身してしまうのである。そう、うどんに。
「ママー。うどんがあるよ。」と路地に指をさす子供。無視をする子の母。「ママー。あのうどん食べたい。」子供がそう言うと、「そんなばっちいところに、うどんなんかあるわけないでしょ。」と言いつつ、ふと美味しそうな匂いに気づいてこの母は路地に振り返る。そしてうどんと目が合う。
橘音は人間としての自分にそんな自信を持っていなかったが、うどんとしての自分がかなり蠱惑的である事を知っていた。うどんを見つめた子の母の唇の端からヨダレが垂れ、「ふふ・・・ふひひ・・・」と鼻で笑いながら「おいしそうじゃない・・・」と路地に一歩一歩にじり寄る。
「マ・・・ママ・・・?」
「ひひ・・・ひふひひ・・・」
「ねえ、ママ!」
母の異変を恐れた子供が叫び、母はハ、と我に帰る。そして、「あんなもの食べちゃいけません!バイキンがたくさんいてあぶないでしょ!」と逆に子供を叱りながら、親子ともその場を後にする。
うどんの姿の橘音はひどく怯えていた。もう何度あの欲望に翻弄された人間の醜い顔を見てきたか。橘音は泣きたくて泣きたくてたまらなかったのに、うどんだから涙が出ない。
きゅぅん、きゅぅぅんと犬の鳴き声。明らかに自分のうどんの香りにやられているのだろう。反対側の路地で飼い主がうどんの方にいきたがる犬を綱で引っ張っている。
満月の日が来るたびに、橘音はこの恐怖を何度も味わっている。いつか慣れるだろうと思っていても、やはり非力な状態で危険に晒される事に慣れるはずがない。しかし満月の日にかならず欠勤するのもできない。だからこの日がくるとなるべく早く帰るように頑張るのだが、それでも帰りつく前に変身してしまう。
悲しいがな、うどんのその熱気は橘音が生き続ける限り冷める事はない。つまりいつでも食べられる準備は整っているのだ!
路地の向こうから、夜を照らす月明かりに
案の定再び月明かりが差し、ベランダにはうどんが佇んでいた。
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