第16話 たった一つの危険な橋(5)
アーシュラの屋敷を辞し、門を抜けたところでロッテが大きく息をついた。
「勘弁してくださいよぉ、リサお姉さまぁ……ホント、生きた心地がしませんでしたからぁ!」
「だから、屋敷にまで無理して付いてこなくていいって言ったのに」
「だって、いくら何でもあそこまで無茶するとは誰も思わないじゃないですか! もう、びっくりしてちょっとお漏らししちゃいましたよ!」
「そんなことを告白されても困るわ。でも良かったじゃない、今日ならすぐ乾くでしょ?」
「そういう問題じゃありませんっ!」
彼女とくだらないやりとりをするのは楽しいが、今はそれどころではない。
「ま、悪かったわね、怖い思いさせて。今度ご飯でも奢るから、それで帳消しにしてくれないかしら?」
「うわぁ、ホントですか!? ……と、まあそれも、この計画が上手く運べばって話ですよね」
「そうね」
もし失敗すれば、食事を奢るどころではない。リサが魚の餌になるだろう。
「手配はアーシュラ樣に任せるとして、とりあえず船宿で待機することにしましょう。今のうちに、少しでも休んでおかないとね」
今日はタフな一日になる。徹夜明けですでに疲労が蓄積しているが、入浴して食事を摂って一眠り、というわけはいかない。
事態は今も進行中なのだ。
保安隊も『亡霊』も、すでに東北区に入っているだろう。
遅れて追いかける立場の自分に、休息をとる余裕はない。
二人でアーシュラと約束した船宿『風知草』に向かった。
水運が発展したここ帝都では、街の至る所に船着場と船宿が点在している。
東南区に数ある船宿の中でも、最も人気の店が『風知草』だ。
数百年以上昔、遷都の直後に開店という老舗中の老舗である。
優秀な船頭を多く抱えているという点でも知られているが、それ以上に安くて美味い料理が評判だ。
実際、船は使わず、酒と料理を楽しむだけの目的で訪れる客も多い。
(さっぱりした味付けの魚料理がいいのよね)
料理長はリサと同じく東方諸島の出身で、郷土の味が懐かしくなった時には迷わずこの店に行くことにしている。
もちろん今は、料理に舌鼓を打っている場合ではない。
昼過ぎの時間帯ということもあり、店は大変賑わっていた。
近隣の工房で働く、日焼けした職人たち。一仕事終えた様子の行商の若い男女。派手な化粧の女をはべらせた、恰幅の良い銀髪の中年男性。
彼らの座るテーブルを縫うようにして、若い女性給仕たちが機敏な動きでジョッキや大皿を運んでいる。
アーシュラが予約した窓際の席に座り、茶を飲みつつ連絡を待つ。
彼女の部下で、東北区の元締の一人・ザイツとの連絡係を務めている者が来る手筈だ。
彼と共に川を上り、ザイツと面会しアーシュラの書状を渡す段取りになっている。
(ザイツ樣が協力を拒んだら……かなり厳しいことになりますが……)
そこはもう、アーシュラの威名に頼るしかない。
ザイツという人物について詳しくは知らないが、彼女を敵に回すほど愚かではないだろう。
それにリサの作戦によって、ザイツが大きな不利益を被ることはない。
(まあ、万が一の場合は……何とか説得するか、ダメだったら計画変更するしかありませんね。今さらグイード様には頼めませんし)
日差しを浴びて輝く川面を眺めつつ、思案を巡らしていると、
「……リサお姉さま!」
ロッテが緊迫した声で囁いてきた。
常ならぬ様子にリサもすぐに頭を切り替え、入り口にさりげなく目を向ける。
意外な、そしてリサの今の立場としては、招かれざる客人の到来であった。
「おお、何だよリサ。まーだヤサに帰らねえで、こんなところにいたのかよ」
「おやおや、こんなところとは随分なご挨拶だねえ、グイードの旦那」
「おっと、俺としたことがこいつは口が滑ったな。いやいや、そういう意味じゃねえんだよ、女将さん」
噂をすれば影、というべきであろうか。
リサが今、一番会いたくなかった男『人斬りグイード』その人であった。
船宿を仕切る女主人相手に談笑しているその傍らには、彼の右腕と呼ぶべき存在である大幹部・ヤンの姿もあった。
東南区の闇を束ねる元締と大幹部の登場に、それまで談笑が途絶えることのなかった店内が、一瞬静まり返る。
あからさまに目を逸らす者、軽く咳払いをして料理を黙々と食べ始める者もいれば、顔を強張らせて横目でチラチラと彼の様子を窺う者もいた。
だが、真っ直ぐに視線を返すような勇気のある者は皆無だった。
「ちょっとまずいんじゃないですか? もし今、アーシュラ様の使いが来ちゃったら……」
「さすがに今は入ってこないでしょう。それに、さすがにこの場で揉め事は起こさないはずだわ」
リサは努めて平静を装いロッテと小声でやりとりしたが、心臓の高鳴りを抑えきることは困難だった。
この『風知草』とその周辺は、グイードとアーシュラという東南区二大勢力の縄張り内ではない。
アンの教会と同様、両者の力が及ばない中立地帯だ。
ここではお互いに顔を合わせても無視をする、というのが暗黙の了解になっているという。
(とはいえ、油断はできません)
昨日までなら問題はなかっただろう。
だが今は、彼が『亡霊』を召集するほどの緊迫状態なのだ。
むしろなぜ呑気に大幹部を連れてこの店を訪れたのか、その真意が気になる。
「おう、仔犬ちゃんも相変わらず可愛らしいな。二人まとめて俺の嫁にならねえかい?」
「うへへへー、キャンキャン!」
ロッテが軽口に呼応し、両手を頭上でプラプラと振る。
どうやらそれは、犬の耳のつもりらしい。
『人斬り』と恐れられるグイードを前にし、しかも彼に内緒で企みごとをしているというのに、この態度。
彼女の度胸と演技力に、リサは素直に感心した。
(もっとも、それくらいできなきゃ情報屋稼業なんて務まらないでしょうけどね)
グイードがご機嫌な様子で近づいてきて、ロッテの頭を撫でる。
その様子を苦笑して眺めつつ、リサは横目でちらりとヤンの顔を窺った。
そして、すぐに視線を外す。
(あぶない、あぶない)
グイードの片腕、ヤン・ルッセルがすぐ傍にいた。
彼はいついかなる時も口元に微笑をたたえている。
組織の大幹部という立場にあるが、決して尊大な態度を示すようなことはない。
もちろん、安いチンピラのように無作法な振舞いをすることも、やたらと声を荒げて凄むこともしない。
柔らかい物腰と知性、さらに謙虚さも持ち合わせた人物である。
だが裏社会の住人たちからは、ある意味グイード以上に恐れられている。
何しろ、腹の内が全く読めない。
今も、リサはさりげなく表情を観察しようと試みたのだが、
(観察されていたのは、私の方でしたね……)
グイードとロッテがじゃれ合っている間も、ヤンはリサの目をじっと見つめていた。
口元は確かに笑っていたが、その眼は刃物の如き鈍光を帯びている。
まるでリサの心に深く斬り込み、全てを抉り出して白日の下に晒そうとするかのように。
(……どこまで感づいているのかしら。それを尋ねるわけにもいきませんが)
表面上は『停戦中』のグイードとアーシュラであるが、水面下では互いの隙を窺い、縄張りの拡大を狙っている。
相手の動向を探るために、お互いに密偵も忍び込ませているはずだ。
グイードが『亡霊』を動かしたことを、アーシュラがすでに知っていたということからも明らかである。
その逆に、グイードも『宵闇の女王』の動きはある程度以上把握していることだろう。
だから、ついさっきリサが彼女の屋敷に赴いていたことを彼らが知っていても不思議ではない。
もっとも、彼女との交渉についてどこまで知っているかは定かではないが。
(怪しまれてはいるでしょうね)
何しろリサは、今朝までヒューイの件でかかりっきりだったのだ。
ろくに睡眠もとらずに働いたリサが、休みもとらずにアーシュラの屋敷にまで乗り込んでいる。おまけに東南区随一の情報屋まで引き連れて。
何かある、と推測するのが普通であろう。
(落ち着くのよ、こういう時こそ平常心よ)
動揺すれば間違いなく察知される。
中途半端な誤魔化しが通用する相手ではない。
ごく自然に接し、何事もなかったように事を収める。
それが最良だ。そのためには何より平常心を保つことである。
「ごきげんいかがですか、ヤン様」
ぎこちなくならないよう、媚びた態度にならないよう、細心の注意を払って挨拶する。
仲の良い情報屋の少女と、他愛もない茶飲み話に興じているだけと自分に言い聞かせた。
「こんにちは、リサさん。機嫌は最高に良いですよ、貴女のおかげで」
含むところが何もないような笑みで返された。
だが、油断はできない。
屈託のない笑顔で、無味無臭の毒を盛ることだって彼ならばありえる。
「おうよ、しっかり礼を言っときな、ヤン。お前の部下の不始末なんだからな」
「ええ、全く返す言葉もありませんね。リサさん、このたびは本当に……」
「え、そんな、おやめください!」
グイードが本気とも冗談ともつかない口調で肩を軽くポンと叩くと、ヤンがリサに向き直って深々と頭を下げてきた。慌ててそれを押しとどめる。
幹部の中でヤンは、組織の財政全般を束ねる立場にある。
言わばグイードの金庫番的存在だ。
賭場の売上を持ち逃げしたヒューイは、彼の直属の部下になる。
確かに責任はヤンにあるわけだが、こちらは十分な報酬も受け取っているのだ。
改まった礼は不要であるし、大幹部のヤンが頭を下げるなど、かえってこちらが緊張してしまう。
リサの困惑した様子を見て、グイードが愉快そうに笑い転げた。
(困った御方ですね、全く)
もしかしたら、朝の鉄扇の件に対するちょっとした仕返しのつもりなのかもしれない。
ヤンが苦笑を浮かべつつ面を上げ、
「元締。私のような無能な者よりも、いっそリサさんにお願いして幹部としてお迎えなさったらいかがです?」
「あっ、そいつはいいな。だけどよ、気がついたら組織ごと奪い取られちまうかもしれねえぜ?」
二人がそう言って顔を見合わせて笑う。
リサもロッテも、引きつった笑みを浮かべるのが精一杯だった。
いくら冗談にしても、きわどすぎてお付き合いする気になれない。
(続く)
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