第11話 眠れない一日の始まり(9)

男の名はチャン・ヴァン・クオン。

リサが生まれ育った草壁島に数年前に移り住んできた、東南諸島出身の男だ。


草壁島は、東方の海に浮かぶ島々の中で最南端に位置している。そのため、昔から東南諸島の交易は盛んだった。

チャンは東南諸島では名の知れた剣客だったらしい。

しかし、腕こそ立つものの人品には問題のある人物で、追われるように草壁島に渡ってきたというのが実情のようだった。

繁華街の元締の下で賭場や娼館の用心棒として働き始めたチャンは、東方の武術とは系統が異なる独自の剣法を駆使し、瞬く間に近隣に悪名を轟かせたという。


その頃のリサは、厳格な父の下でひたすら杖術の修行に励む毎日だった。

父は近隣に住む若者たちにわずかな稽古料で杖術を教え、父娘二人慎ましやかな生活を送っていた。

決して裕福な暮らしではなかったが、その点を不満に思うことは一度もなかった。


(ご飯を食べて稽古して、あとは本を読んで寝て……他には何もありませんでしたけれどね……)


当時は、今のように世間の広さと深さも知らなかった。道場とその周辺、たまさかに街で買い物をするぐらいでリサの世界は完結していた。

しかしその平穏な日々は、一年前の夏に粉々に砕かれてしまった。


蒸し暑い日だった。

道場の裏にある林から絶え間なく聞こえていた蝉の声を、今も鮮明に覚えている。

昼過ぎからずっと、リサは一人で型稽古を続けていた。父は珍しく、朝から港に住む旧友を訪ねて留守であった。


「リサさん! 大変です! 先生が、先生が!」


道場で杖術を習っている若者たちが、息せき切って道場に駆け込んできた。

道場は小高い斜面の頂上にあったが、彼らはそこまで全力で駆け上がってきたらしい。


「どうしたんのです、そんなに慌てて……。一体何が起きたのです?」


ただならぬ様子に不安を抱きつつも、リサは努めて冷静に尋ねた。

身体は壮健そのもの、杖術の師である父に万一のことなどあるまいと、信じていた。


(そう、信じて疑いもしませんでした、あの時の私は……)


この穏やかな生活が、いつまでも続くものだと。

自分たち父娘に、不幸が訪れることなどないだろうと。

思えば当時の自分は、本当に無邪気だった。

だが現実は非情で、理不尽で、そしてあまりにも唐突だった。


リサの父は、チャンの手によって斬殺されていた。

若者の話を信じることができず、現場まで脇目も振らずに走ったリサを迎えたのは、すでに物言わぬ父の無残な姿であった。

無数の傷が残された背中。今でも時折、目を閉じるとその光景が浮かんで胸が詰まる。

目撃した者たちの証言によれば、チャンの仲間が昼間から往来で酔って道行く人々に絡んでいたらしい。

そこを、旧友を訪ねて帰路に就いていた父が咎めたのだという。

相手は逆上したが、もちろん、リサの父は酔漢に後れをとったりはしない。

手にした杖を使うこともなく、容易く男の逆関節を取り、懲らしめたそうだ。

そこに通りがかったのが、チャンとその取り巻きだった。父は彼らに取り囲まれてしまったが、まるで慌てる素振りも見せず、淡々と杖を振るって一人ずつ倒していったらしい。

だが――。


「その、チャンという男が……先生の背中に……斬りつけたのです……」


チャンは戦いが始まっても、まるで関係ないといった様子で取り巻きたちの後ろから眺めていたらしい。

今にして思えば、それも気配を殺し、父の隙を窺うための作戦だったのだろう。

一瞬の隙を突かれ、父は凶刃に命を奪われた。

それは、リサの運命を大きく変えた瞬間でもあった。


「私はすぐにチャンを追いました。しかし奴を庇護していた元締の妨害に遭い、すんでのところで逃がしてしまったのです」


「それで、奴は海を渡ってこの大陸に逃亡したということか?」


モーリーンの問いに、リサは大きく頷いた。


「はい。私はすぐに身辺を整理し、身一つで奴を追ってここ帝都まで来ました」


それまで島の外に一歩も出ていなかった、言ってみれば世間知らずの田舎者だったリサにとって、帝都での捜索は困難を極めた。

早い段階で情報屋のロッテと知り合うことができたのは幸いであった。

そしてそれからは、傭兵として働きながらチャンの足取りを追ってきた。

全ては奴を討ち、父の無念を晴らすために――。


「むろん、帝都から外に出ている可能性もありました。ですが、何しろここは百万を超える人の住む大帝都です。いつかきっと奴の手掛かりを掴むことができるだろう、と……」


「そうか、なるほどな。私が保安隊にいくら誘っても心を動かさなかったわけだ」


不満げなモーリーンに、リサはそっと頭を下げた。


「では、申し訳ありませんが、私はこれで失礼させていただきます」


「待て、リサ。奴が誘拐師の一味となれば、ここは我々と協力して追う方がよいだろう?」


部屋を出ようとしたところで呼び止められたが、リサは苦笑して答えた。


「ありがたいお言葉ですし、確かにその方が合理的でしょうが……それは、できません」


「何?」


「モーリーン隊長。もし奴らの居所を突き止めたとして……私の仇討ちのために、法を曲げる御心算ですか?」


「む……」


「仇討ちは御法度、ですよね?」


現行の法では、親族の仇討ちが許されるのは貴族・騎士のみである。仮にリサがチャンを殺せば、モーリーンは法に則って彼女を捕縛し詮議しなければならない。

リサが仇討ちの件を彼女にずっと隠していたのも、それが理由だ。

モーリーンは高潔で正義感が強い、まさに理想の保安隊員であるが、それゆえに法の壁を乗り越えることはできない。


「リサ。そこまで分かっているからには、覚悟はできているだろうな。もし、お前が……」


「はい、もちろんです。私がチャンを殺し、保安隊に逮捕されれば……しかるべき罰を受ける覚悟はとうにできております」


モーリーンの隣で少女を抱いたアンが、一瞬悲しげに目を伏せ――それから、リサの目を真直ぐに見つめてきた。

リサは彼女にふっと微笑を返し、


「それでも、私はやります。何があろうと、必ずやり遂げます」


「……いいだろう。やれるものならやってみろ。言っておくが、私はお前を諦めていないぞ。必ず奴ら一味を捕らえ、法の裁きを受けさせる。お前に法を犯させはしない」


お互いに一歩も退かない、という構えだった。

もはや、二人の間にそれ以上の言葉は不要である。後はただ、それぞれが自分の信じる道を進むのみだ。

そして行く手を阻むものがあれば、全力でそれを排除する――決して容赦はしない。


(続く)

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