第9話 眠れない一日の始まり(7)

(これは本当に困りましたね……)


夏の日差しが徐々に強さを増していた。

その直射を防いでくれるような雲の姿はない。

海が近い東南区なので、時折吹く浜風は心地よいが、それでもすぐに大粒の汗が全身に浮き出てきてしまう。


――いや、暑さは仕方ない。いくらでも我慢しよう。


困ったのは、朝からの空腹が全く解消できていないという点だ。

リサは保安隊本部を出た後、最短の経路を使って『赤速亭』まで駆けた。

道行く人がいったい何事かといぶかしんでいたが、すでにパスタのことしか頭にないリサは構うことなく突き進んだ。

それなのに、


「はあ? あのねえリサ、今いったい何時だと思ってンだい? これからアタシは仕込みに入るンだ、昼飯時まで我慢しな!」


アルバおばさんの対応はにべないものだった。しかも落胆しきったリサの様子に、この恰幅のよい西方女性は呆れ返ったという態度で、


「全く、年頃の娘なのに……パスタ食べたいからって大汗かきながら走ってくるなンて、みっともないとは思わないのかい!? だいたい若い娘が傭兵なンてヤクザな……」


と、西方訛りの共用語で延々と説教を始めてしまった。

全てがそうとは言い切れないが、中年女性のこの手の話をまともに聞いていたら、それこそ何時まで経っても解放されそうにない。

リサは逃げるようにしてその場を去った。

却の判断は即座に下し、一度逃げ始めたら振り返らないこと。

これも傭兵の鉄則だ。


こうしてリサは、飲んだ水が胃袋の底に落ちるのがはっきり分かるほどの空きっ腹を抱え、意識が歩きながら落ちてしまうような眠気に断続的に襲われながら、真夏の帝都をとぼとぼと歩く羽目になったというわけだ。

何とも冴えない話である。


(冗談じゃありません。何で私、こんな大都会で行き倒れになりかけているのですか?)


懐には、グイードから受け取った報奨がある。

だがそれも今は、ただずっしりと重いだけのお荷物と化していた。

この時間帯は、『赤速亭』だけではなく、ほとんどの飲食店が昼の営業を前にした仕込みの真っ最中であった。


(……お腹空いた……。眠い……。お腹空いた……。眠い……)


石畳に杖をつき、呪文のように心の内で繰り返す。

我ながら、年頃の女性が唱えるにはあまりに色気のない呪文であるが、他に何も頭に浮かんでこないのだから致し方ない。


「……あら、リサさん。ごきげんよう」


聞き慣れた温和な声に、それまでうつむいて歩いていたリサは面を上げた。

危うく、敷き詰められた石畳が何かの食べ物に見えかけていたところであった。


「ああ、ごきげんよう、アン」


空腹と眠気が、彼女の姿を認めた途端、嘘のように吹き飛んでいった。

リサの親友・尼僧のアンジェリカが、いつものように柔和な表情を浮かべて目の前に立っている。

彼女を囲むように、教会で養っている孤児たちの姿もあった。


「ああっ、リサ姉ちゃんだっ!」

「お姉ちゃん、遊ぼうよー!」


無邪気な目を輝かせ、色とりどりの肌と髪の少年少女がリサに群がってくる。

勢い余って身体ごとぶつかってくる子もいれば、ぎゅっとリサの手を握ってくる女の子、リサの杖を奪い取ろうとしてくるやんちゃな男の子に、背中を昇ってこようとする元気な子、どさくさに紛れて尻を触ってくるませた子までいる。

まさに大騒ぎであった。

島にいた頃から子供の扱いには慣れていたが、平時ならばともかく今はかなりグロッキーな状態だ。


「こらこら、みんなお止めなさい。リサさんはお疲れのようですよ」


アンが眉をひそめて子どもたちを注意する。

緩いウェーブのかかった美しい金色の髪。澱みのない光を帯びた碧眼。華やかに着飾って舞踏会に出れば、間違いなく衆目を惹きつける美貌の持ち主だ。

実際、彼女はこの東南区で代々続く有名な商家の箱入り娘で、その気になれば社交界の花形となることもできただろう。

だが彼女はあえてその道を捨て、神に仕えることを選択した。

彼女の出自や名門・聖白龍女学園の卒業生ということを考慮すれば、若くして法王庁で勤めることも可能であったはずだ。

しかしアンは、ここ東南区の貧民窟に近い教会での勤めを強く望んだのだという。

リサが以前そのことについて問うた時の、アンの答えは明快だった。


「私は東南区に生まれ、この街で育ちましたから。それに、より神のご加護を必要としている方々のために働きたい。そう思っただけですわ」


(ホント、しっかりしてますよね、アンは) 


年齢はリサの一つ上だが、精神的にはそれ以上の差を感じることが多い。

リサよりも少し背が低いが、豊かな女性らしい肢体を白い尼僧衣が包んでいる。

首からは、法王庁から授けられた聖印が下げられていた。


「いや、大丈夫よ、アン……。いや、うん、大丈夫」


強がってはみたものの、傍目にはそうは映らないのだろう。

子どもたちも、普段より元気のないリサの様子にがっかりしたようだ。


「リサ姉ちゃん、どうしたの?」

「お腹痛いの?」


心配そうな子どもたちの視線に、リサは困った表情を浮かべるしかなかった。


(いや、お腹ペコペコなのよ、とはちょっと言いづらいですね……)


今さらその程度のことを気にする間柄ではないし、アンがそれを笑ったりするような人間ではないのは承知の上だ。だが、時には虚勢を張ることも必要だろう。


「お仕事でお疲れなのですよね?」


リサは苦笑して、『東南区の守護天使』と謳われる尼僧の問いに力なく頷いた。

彼女は、リサが尼僧とはまるで正反対の稼業であることを心得ている。

そしてリサが何のために帝都にやってきたのか、なぜ傭兵の道を選んだのかという真意を知る、ごく少数の人間の一人だ。

アンは、今朝のグイードやモーリーンのように「傭兵を辞めろ」などとは決して言わない。内心ではそれを願っているのかもしれないが、これまで一度も口に出すことはなかった。

ただいつも、危地に赴くリサの無事を祈ってくれている。その心根が嬉しかった。


「うん、実は昨日の夜からずっと、ね……あっ」


話の途中で、リサの腹の虫が盛大に悲鳴を上げた。

リサの顔が紅潮する。子どもたちが一瞬目を丸くした後、一斉に笑い転げた。


(う……な、情けないわ……)


しかしどれだけやせ我慢をしていても、生理現象はやはり止められるものではない。それにしても大きな音だった。子供たちが爆笑するのも無理はない。

せめてもの救いは、アンが全く動じることもなく普段通りの笑顔だったことだ。


「ちょうど良かったですわ。これからお昼をご一緒にいかがでしょう?」


教会の食事は世間一般よりも少し早いことをリサは思い出した。

子供たちもしきりに、


「そうだよ! 一緒に食べようよ!」


と、明るい声をかけてくる。

もちろんリサに、そのありがたい申し出を断る理由はなかった。


アンの勤める教会は、娼館や酒場、賭場が立ち並ぶ歓楽街のちょうど入り口のような場所に位置していた。すぐ近くにはすえた匂いを常に漂わせる貧民窟もある。

この辺りはグイードとアーシュラ、両者の縄張りが接し合う最前線だが、かつて抗争中であった彼らも決して教会には手を出すことはなかったという。

神をも恐れぬ彼らであるが、教会を守るボリス司祭の篤実な人柄を認めてのことだと言われている。

レンガの塀に囲まれた、簡素な石造りの建物。

礼拝堂の鐘と、その下にある聖印の他に余計な装飾は施されていない。

建物の周辺は、アンたち尼僧や下男の手によっていつでも綺麗に掃き清められている。すぐ近所に、猥雑で冒涜的な歓楽街や娼館街があることを忘れてしまうような光景だ。


リサはアンたちと共に入り口の背の高い門をくぐり、離れにある厨房に入った。


「では、すぐに支度致しますから。子供たちと一緒に待っていてください」


「いや、せっかくだから私もお手伝いしますよ」


「ありがとうございます。それじゃあみんな、呼ぶまでお庭で遊んで待っていなさい」


アンがにっこり笑うと、子供たちが歓声をあげて外に飛び出していった。

ただ一人、褐色の肌の少女だけが、リサの足にがっちりとしがみついている。リサは以前から彼女にえらく気に入られていた。

東南諸島系の血を引くようであるが、何しろ本人は両親の顔も知らない捨て子で、ずっとこの教会で暮らしているから確かめようがない。


(そっか、当たり前だけど、この子は逆に共用語しか喋れないのよね……)


先刻、保安隊本部で出会った少女のことを思い出し、リサの顔が曇った。

アンはすぐに、親友のわずかな異変に気がついたようで、


「何か、ありましたか……?」


人参の皮を剥いていた手を止め、尋ねてきた。


(相変わらず何でもお見通しよね、アンは)


人の心を救う職業だけに、何気ない心の動きにも敏感なのかもしれない。


「うん、実はさっきね……」


保安隊本部で出会った少女の話を、前半部分のヒューイの件は一切省いて伝えた。むろん、モーリーンに情熱的に迫られた件も、関係ないので伏せておく。


「……そんなことがあったのですか……」


アンが豊かな胸に手を当て、目を伏せた。そしてリサが答える間も与えず、


「それでしたら、私がお役に立てるかもしれません」


青い瞳で、真っ直ぐに見つめ返してくる。


「え?」


 外で遊んでいる子どもたちと同様、教会で引き取るという意味だと思ったが、


「私、東南諸島の言葉でしたら、ある程度は話せますので」


アンは普段と同じ、柔和な笑みを浮かべながらも力強い口調で話した。


早い昼食の支度を整えたリサとアンは、子どもたちと共に食卓についた。ボリス司祭は、朝から他の僧を連れて出かけているのだそうだ。

今日のメインメニューは玉葱、人参、キャベツの入ったトマトスープだ。

それにイワシを細かくすりつぶして卵と片栗粉で団子状にした物を入れている。

東方諸島出身のリサが得意な料理だった。


(東方人には魚を調理させろ、って格言もありますからね)


四方を海に囲まれた東方諸島では、当然ながら海産物が食事の中心となる。

その格言には続きがあり、北方人には牛、西方人には鶏、南方人には豚、とされていた。

意味としては、単なる料理の得手不得手ということではなく、各人に得意なことをさせろ、という解釈がされている。

ちなみに大陸を支配する中央人に関して、その格言は一切言及していない。「支配階級である彼らは料理などしない」という解釈が古来より一般的であったが、「彼らは料理が下手」という皮肉なのだという説もある。


(まあ、少なくともアンに限っては例外ですけれどね)


この一年の間、アンの手料理は何度も口にしている。

幼少の頃から厨房に立ってきたので、リサも料理にはちょっとうるさい方であったが、そんな彼女が食べるたびに感心させられる腕前だった。

大鍋でグツグツと煮こんだトマトスープは、イワシと野菜の旨味を十二分に引き出していた。熱々のスープを一口すすると、それが舌先から口中いっぱいにじんわりと広がっていく。

それだけで、昨日から蓄積していた疲労が癒えていくような心地だった。

ほどよく効かせたスパイスのピリッとした味わいも、食欲をさらに促進させる。

柔らかいイワシの団子を口に運ぶ。

噛んだ瞬間にジュワッと溢れ出る熱い汁。思わず目をつぶって堪能してしまった。

子供たちも、一心不乱といった様子で椀に向かっている。

アンは目を細めながら「よく噛みなさいね」「お替りはいいの?」と声をかける。まだ自分一人で食べられない幼い子の世話も、もちろん忘れない。

十数人の孤児たちの、優しい母親そのものであった。


(お母さん、か……)


リサには母親の記憶が残っていない。物心つく前に母は病死し、父と二人きりで暮らしてきた。大きくなるまでは、同世代の母親のいる子どもたちを羨ましく思ったこともある。


(それにしても、アンが東南諸島に行ったことがあるとは)


厨房で支度をしながら聞いた話によると、彼女は幼い頃、父の商談に付き従って半年ほどあちらで過ごしたことがあるそうだ。

わずかな期間であるが、アンは積極的に現地の子どもたちと一緒に遊び、その中で自然に東南諸島の言葉を覚えたのだという。


「なるほど、確かに子供の頃は覚えるのも速いよね。忘れるのも速いけれど」


昼食を終え、リサはアンと数名の女の子と共に、後片付けに取り掛かっていた。

男の子たちはまた元気に外に出て行き、もっと幼い子たちは奥の寝室で昼寝している。


「ええ、そうですね。その後、女学園でも少し勉強しまして」


「へえ。でも、モーリーン隊長は全然話せないみたいだったけど?」


「選択科目でしたから、先輩は恐らく別の教科を選んだのでしょうね」


「なるほど、そういうことね」


モーリーンは学園を代表するような優等生だったというから、学んだ内容をすっかり忘れているということはないだろう。

片づけを終え、子どもたちの世話を任せたアンを伴い、リサは再び保安隊本部を訪れた。

アンと二人でなければ、一日に何度も来たいような場所ではない。

入り口で用件を伝えると、モーリーンの待つ隊長室にすぐに通された。

目を輝かせたモーリーンが、挨拶もそこそこにアンの手をひしと握る。


(あらあら、今日の隊長さんは随分とスキンシップが過剰なようで)


別にどちらかに嫉妬しているわけではないが、何となく気になってしまう。


「そんな、モーリーン先輩。私にできることなら、何でも仰せつかってください」


泣く子も黙る保安隊長を前にしても、アンは普段と全く変わらない。

女学園の親しい先輩、ということもあるが、これがリオネルのような富豪でもグイードのような裏社会の元締相手であろうとも、本当に態度が一貫しているのが彼女の凄いところだった。


(自分の芯がしっかりしているのですよね)


リサも修羅場に生きる傭兵として、常々「冷静に」ということを心がけているが、まだ彼女の域にまでは到底達していない。

アンを人として尊敬している点の一つであった。


「その子は今、どちらに?」


「仮眠室に寝かせている……。かなり疲れているようだな」


モーリーンが疲れた様子で大きくため息をつく。抱えている案件は、もちろんこれだけではないだろう。

毎日、この東南区のどこかで大小様々な事件が発生している。


(う、まずい。眠くなってきました……)


教会で食事を済ませ、一息ついたところで猛烈な眠気が襲ってきた。元気な子供たちに囲まれ、アンと楽しくお喋りをしている内はまだ良かったのだが。


(さすがにここで居眠り、ともいかないですね……ガマン、ガマン)


いくら眠いからといって、アンを置いて自分だけ保安隊本部を辞するのは気が引ける。彼女が自分の意思で来たのだとはいえ、この件に巻き込んだきっかけはリサなのだ。

どうにか眠気を抑えなくては、と思っていたところで静寂が破られた。

隊員の慌しい足音と、子供の泣き声が耳に飛び込んでくる。

おかげで、リサの頭をすっぽりと覆っていた眠気もすっかり晴れてしまった。


「あら、お目覚めのようですね」


アンがにっこりと笑って隊長室のドアを開ける。

温厚な彼女だが、ここぞという時の行動力はリサも呆気にとられることがある。

ドアを開けると、例の少女の泣き声が一際大きく聞こえてきた。

アンが悠然とした物腰で廊下に歩み出て、柔らかい口調の東南語で語りかけると、途端に少女の声が止んだ。

赤く目を腫らせた少女が、廊下に膝立ちになったアンの胸に飛び込む。

早口で舌足らずな東南語でしきりに訴えるのを、頭を撫でながら何度も頷いて応えた。


「たいしたものだな、全く。私には真似のできない芸当だ」


「モーリーン隊長も、たまには教会で子供との接し方など教わったみたらいかがでしょう?」


嘆息するモーリーンについ軽口を叩いてしまったが、


「ほほう、それならお前も保安隊に入って法と秩序について学んだ方がいいな」


すぐさましっぺ返しをされてしまった。

今日は、余計なことは一切口に出さない方が良い日なのかもしれない。

アンの抱擁と聞き慣れた東南語によって、少女は徐々に落ち着きを取り戻していった。

その様子を見て、モーリーンが調書と羽根ペンを取り出す。

アンがゆっくりとした口調で、少女の言葉を訳していった。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る