「少年、忘れ物だ」

「ありがとうございます」

「まったく、学校の帰りがけに本を買って私の家で読んで帰るのはいいが、忘れて帰るのはよしてくれ」

「僕の家より先生の家で読むほうが落ち着いて読めるんですよ。あと先生、忘れて帰って、何か不都合はあるんですか?」

「あるね。そこに私の知らない本があれば、興味がないにせよ……君の読んでいる私の苦手な本だとしても読んでしまうだろう」

「さらっと貶しましたね。それで、感想は?」

「最初に主人公が事故になり、死んでしまうという趣向は今までなかった。そして、さらに異世界というところへ輪廻し、戸惑う描写もまあ、良かった」

「珍しく褒めますね」

「いや、そこまでは良かったのだが、そこから出てくる登場人物が、やれ乳のでかい女だの、やれ何度も羞恥する女だのと、清潔さの欠ける女性ばかりが登場するものだから、やめたよ」

「先生、一番良いところです」

「君はそんな女性が好きなのかね?」

「いえ。この際堂々といいますが、僕はJKが好きなんです」

「ジャマイカ共和国か。あの国は歴史の過程上、女性社会になっていて女性人口も多い。それに胸と尻が大きく上品だそうだ、是非いくといい」

「もういいです先生、僕が悪かったです」

「何を言う。君と女性の話をすることも滅多にあるまい。私はミャンマーの女性が好みだ。あの国の女性はスタイルがいい。まあ美しく着飾るために死に物狂いでダイエットするような国だ」

「そうなんですか」

「それに何より男性を重んじる文化だ。外国人との結婚を考えるならまずはミャンマーやタイ人を」

「男だったら笑ってあげます」

「なに、私は男でも構わないさ。それこそ人生の途中で男性から女性へ輪廻したのだと考えれば自然なことではないか」

「それは一理あります」

「そうだろう。おっと、脱線してしまったな」

「先生がジャマイカ共和国なんて言うからですよ」

「君がJKなどと言うからだ。ジョークならやめておけ」

「それもJKって言いたいんでしょ」

「そこは指摘するべきではないよ。さて、話を戻すが君の読んでいた異世界輪廻」

「異世界転生です」

「異世界転生だが、インドの古代思想に見られるその輪廻を現代人が物語の基軸にするとは、なかなか捨てたものではないな」

「ようやく分かってくれましたか。そういえば、輪廻って確か、バラモン教の聖典【ヴェーダ』の哲学的部門『ウパニシャッド』の概念ですよね」

「……これは驚いた。無知な少年だとばかり思っていたが、そんなことを知っているのか」

「ええ。それによれば生き物は生まれては死に、死んでは生まれ変わる。どこに生まれるかは業(カルマ)によって決められるんでしたよね?」

「素晴らしい。少しばかり見直したよ。それもアニメとやらの知識か?」

「いえ、学校で習いました。それに、テスト範囲です」

「なるほど。なら今日は輪廻の話をしよう。少年は生まれ変たいか?」

「僕は生まれ変わりたくないです。この人生だけでもしんどいのにもう一度やるなんて御免です」

「私もだ。しかしまあ、バラモンの考えに基づくなら、私たちは輪廻の輪から解脱しなければならないわけだが」

「そうですね。先生にはそういった煩悩はあるんですか?」

「ないね。別に私は人生そのものへの執着はほぼ皆無だ。因果応報に従い、生死を繰り返すというなら来世の自分に頑張れとエールを送るのみさ」

「来世の先生にも個人の根本である我(アートマン)がなさそうですもんね」

「ちなみに言えば、私には貪(むさぼり)も瞋(いかり)も痴(おろかさ)もない」

「でも、先生。その三毒の一つ、痴は真理に対する無知ですよね。そもそも、真理を知っている人間って、いるのでしょうか?」

「さあね。真理に対する概念や形は人によって違う。だからこそ、古代には何百、何千という哲学者が自分の考えを記し、遺したのさ」

「それを読んで僕たちが何を感じるか、ですよね。そういえば先生、見てくださいこれ。さっき買った本、外の雨で濡れてしまったんですよ」

「買い直しなさい」

「そうしたいのは山々なんですが、生憎お金がないんです。貸してください」

「直球だな、君は。私にもお金がないのは知っているだろう?」

「先生が古書やら骨董品を集めるのに使うからですよ」

「まあそう憤るな。四法印の一切皆苦にもある。世の中はそうそう上手くいかないさ」

「四法印ですか、覚えるのに苦労しました」

「覚えたのか」

「はい。

僕にだけ恋愛や青春の光明が皆無で苦しんでいるのが一切皆苦。

この世のリア充は常に生滅変化し永久不変のものがないというのが諸行無常。

この世に存在する全てのキャラは不変の実体である我(アートマン)がないというのが諸法無我。

煩悩を断ち切ってジャンル沼に浸かり心身の安らぎと平安にいたるのが涅槃寂静です」

「なるほど、君になにを言っても手遅れだというのはよく分かった。ようするに君にとって涅槃こそが別次元なわけだ」

「その通りです。僕は生まれ変わればそこに行くと信じています」

「そうか。まあ、どうせ死ぬなら私より後にしてくれ」

「どうしてですか?」

「話し相手がいなくなる」

「先生、それ、ぼっちって言うんですよ」

「君もだろう。本来友達付き合いに費やせるこの時間を、私などとの会話に使っているのだから」

「学校の人間はみんな嫌いです。行くたびに怨憎会苦(おんぞうえく)の四苦を踏んでいます」

「大変だな、君も」

「ええ、でも限定品や初回品を住んでる土地の不利と金欠で手に入れられない求不得苦(ぐふとくく)の方がよほど辛いです」

「少年は習った言葉を直ぐに使いたくなるという特別な特性があるみたいだな」

「いや、完全に話の流れですよ」

「そうか、ならば私も乗ろう。少年、君は先ほど二つの苦しみを口にしたが、愛別離苦はないのか?」

「ありませんね」

「なら、そう悲観することはないさ。君はまだ幸せの中にいる」

「先生は、あるんですか?」

「まあ、昔にね。そういえば少年、君は来週からテストなのだろう?こんな所で油を売っていていいのか?」

「いいんですよ。僕にとって、意外とここに居るのが好きなんです。もしかしたら、ここは涅槃で、僕はそこで先生(しんだひと)と会っているのかもしれません」

「恐ろしいルビを振ったな。まあいい、今日はもう遅い。雨が酷くなる前に帰るといい」

「そうします。頼まれていたかぷめん、ここに置いておきます」

「ああ、いつも助かる。そしてかぷめんという呼び方をやめろ。それもどうせアニメの影響だろう?」

「よく分かりましたね」

「君が本来の用語と違う言い方をすれば、ほぼ全てそれに辿り着く」

「自然に使っているので、僕自身自覚はありませんがね。それじゃあ帰ります。先生もダラけてないで、勉強やら掃除なんてしたらどうです?」

「何を言う、今更勉強する事などないさ」

「そうですか。そういえば今の先生にぴったりの言葉がありますよ」

「ほう」

「『人はただ単に生きるのではなく、よく生きなければならない』です。プラトンの言葉でよ」

「確かに、ぴったりの言葉だが、その言葉は本来ソクラテスのものだ。プラトンはソクラテスの言行を『クリトン』に記したに過ぎない」

「せっかく決まったと思ったのに、恥ずかしいですね」

「ふん。まあ私も、この言葉を抱負にしてみるさ」

「そうしてください」





「やれやれ。それにしても勉強か。久々に竜樹(ナーガールジュナ)の『空の思想』を嗜むとしよう。かの難解な哲学書は未だに私でも理解が追いつかない。

しかし、イスラームの話の流れからギリシャの思想を持ち出すとはな。しかしよく生きろ、か。私はいつまで生きるつもりなのか」


「……あの少年と相互依存する前に、苦の原因になり得る煩悩の可能性を断つ必要があるのかもしれないな」

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