「本というのは実に素晴らしい」

「先生の本の蒐集癖は異常ですよ。もはや壁紙ですもんね」

「少年、それは聞き捨てならないな」

「だってそうでしょう?巻数は揃っているものの、どこに何の本があるかも分からない。そして、大半の本は一度読まれて以来」

「いや、だが少年。私ほどの読書家になれば、一度読んだだけで、内容や作者の主旨は概ね理解できる。それに良作などは、初めの一ページで分かるようになる」

「一行ではないんですね」

「一行で読むのをやめるのは、ただの作者への冒涜だ」

「そうなんですか。話を戻しますが、この書架たちいっそ、全て燃やしてしまっては?」

「バカを言うな。それでは私の人生の結晶が全て藻屑となって消え失せてしまう」

「分かりました、整理するのが面倒臭いんですね。また今度、僕がやっておきます」

「その言葉を待っていたよ、少年。それなら、そろそろ私の勧めた本を1冊くらい読んでみるのはどうだい?」

「んー、別にいいんですけど、先生の読む本がどうにも好みに合わなくて。それより先生こそ、僕の勧めた本は読んだんですか?」

「一章は読んだが、あんなもの、作者の妄想と幻想が入り混じった駄作だ」

「駄作ではないです。それに、僕の読むものには理想が詰まっています」

「まったく、ファンタジーというのはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』や、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』などを言う」

「確かにそうかもしれないですが、ファンタジーというのは剣と魔法の世界で主人公達がヒロインと共にモンスターと闘うのが至高なんです。先生のは一昔前です」

「しかしだな、やはり私には君の読むライトノベルと言うものがどうしても理解の埒外にある。何故、あの作品では言葉を本来の意味として用いない?」

「カッコいいからです」

「格好いい……?私には全くもってそのような感情はなかった。そもそも本というのは人生の教養を深めるばかりか、自らの思考では辿り着けない他者の思考に触れることだ」

「先生、それだから昔の作品しか読めないんですよ。今の時代の本というのはエンターテイメント、いわゆる娯楽なんです」

「娯楽、か。確かにそうかも知れないが昔は違う。劉向の『戦国策』という遊説の逸話を編纂した書物がある。中国史における軍師というのは度々これらを引用し、戦場にて用いてきた。これが何を示唆するか分かるか?」

「本が人を殺す道具になったわけですね」

「その通り。これだけではない、その本を読んだことによって脳の中枢神経を犯された異常者が犯罪に手を染めることもある」

「それ、僕がこの間持ってきた古新聞の内容です。今時そんなこと言ってる人はいません。評論家の方も本に対しそんな知見は示していません。先生は考え方が古くて新しいものを取り入れなさすぎです」

「固陋(ころう)か、確かにそうかも知れないな。だが絶えず移りゆく世俗より、それらから飄逸(ひょういつ)した方が何とも怡悦(いえつ)な生活を送れる」

「自堕落な生活です」

「まあそんなことより、だ。話を戻せば中国史だが……」

「あ、そういえば先生。僕、意外と中国史については明るいんですよ?」

「そうなのか」

「はい。中学の二年生半ばまでは『三国志』や、『水滸伝』、『西遊記』なんかを読んでいました」

「その流れでなぜ『金瓶梅(きんぺいばい)』が出ないのかはこの際言及しないでおこう」

「何ですかそれ」

「中国の四大奇書の一つだ」

「初めて聞きました」

「だろうね。私も先程、君が俄仕立ての中国史好きということを確証した」

「どうしてそんなこと言えるんですか」

「君は先程、中国史に明るいと称したが、君の読んだ三作ではとてもではないが、歴史を知ることはできない」

「癪にさわる言い方ですね」

「事実そうしている。そもそも『水滸伝』や『封神演技』は作者の創作であるから論外として。『三国志』などの”志”と名の付く書物では主に歴史の横軸のことを表すのだ」

「そうだったんですか」

「中国史を知りたいといのなら、タイトルに”烈伝”、”史”もしくは”書”とついたものを読むといい。あれは歴史の縦軸を基軸としている」

「読んでみます。それより、先生はその三作を読んでいるんですか?」

「当然だ。まあ、君の知識が浅薄(浅薄)なことなどはこの際水に流しておこう。久々に君の知っている本の話が出来そうだ。ちなみに、その三つならどれが一番好きだ?」

「もちろん、『三国志』です。登場する英雄達がカッコいいんですよ」

「君のその乏しすぎる語彙力は何とかならないものか。まあいい。それで、一番好きなシーンは?」

「あれです、長板橋の戦いです。僕は趙雲が一番好きなんですが、主君の赤子を庇いながら敵中を潜りぬけるその様に痺れました」

「他には?」

「そうですね。赤壁の戦いに敗れた曹操を、関羽が恩義と忠信で逃すところや、寵愛していた馬謖を孔明が切ったシーンなんかはとても心に残っています」

「そうか。ちなみに『三国志』の作者と時代がいつかは知っているのか?」

「もちろんです。僕はこう見えて、かなりの三国志ファンですから。作者は羅貫中、時代は三国時代です」

「……なるほど、最後の質問だ。君は三国志を何度読んだ?」

「三度ほど」

「……なるほど、それはただ文字を読み、ストーリーを追っているだけにすぎないな。君が述べたのは煌びやかな場面、印象の強い場面のみだ。」

「どういうことですか。僕の答えに間違いでもありましたか?」

「大アリだ。まず、君と私とで作品を語らうことが出来ないと判断した。おそらく私の最も好きなシーンを、君はろくすっぽ覚えていないだろうからね。それに『三国志』の作者は羅貫中ではなく陳寿だ。羅貫中が描いたのは三国志の説話を基にして成立させた『三国志演義』だからな。それに時代は正確には180年頃から280年頃の100年間。ちょうど後漢末期から三国時代までだ」

「そ、そんなこと知らなくたって三国志ファンはやっていけます」

「確かに。コミュニティの中なら一度読んだだけで俄かファンとしてならやっていけるだろう。だが、その程度の知悉だと直ぐに襤褸(ぼろ)が出る」

「べ、別にコミュニティなんてないですし。僕が勝手には一人で楽しんで頂けなのでいいんです。そんなことを言えば、今時原作を読まずにアニメを見ただけでファンだのクラスタだの言ってる人のほうが、よほど俄かですよ」

「君は時たま、私の見聞の中にない表現を使うな。自らのことを集合体(クラスタ)と称するとは、現代人の集団意欲は憐憫(れんびん)を掛けるに忍びない」

「それ、どうせ科学用語のクラスタでしょ?もういいですよ。先生の科学の話は」

「ふむ、折角これからバルクの孤立原子と分子の新しい物質相からなる特異的性質(クラスター)が新規磁性や触媒材料に応用される、君の大好きな今時の話をしようとしたところなのだが」

「結構です。僕の脳容積にこれ以上不必要な知識は要りません」

「どうせあれだろう。空想の産物のものだろう?」

「その通りです、二次元は素晴らしいですよ。先生の嫌いな現代人の創作力を少しは受け入れるべきです。それより、貸した本、返してくださいよ」

「……あー。その事なんだが、済まないな。本棚にしまって以来どこにあるのか皆目見当も付かなくてだな」

「嘘……ですよね。まさか、この一万冊以上の書架の中から探せっていうんですか?」

「是非もなし」

「絶対使い方間違ってますよ。あと先生、汗かいてます。まだ夏でもないのに。風呂に入ってください、臭います。その間に、僕は貸した本を探します」

「気になる本がいくらでも持って行ってくれて構わない。そういえば前に君が話していた漫画に出てくる日本文学作品、目にとまった物を読んでみるといい。私の中では太宰治の『人間失格』なんかがオススメだ」

「先生にピッタリのタイトルですよね。見つければ、読んでみますよ。でも、まずはこの煩雑な本たちを整理します。早く風呂に入ってきてください」





「……やれやれ。それにしても不意に手に取った本を読むという作品を、現代人は全く理解していないな。まあ、物を勧めるのもいいことだ。しかし、ラーメンと映画の好みは人に押し付けるなと言ったように、本もまた、同じなのかもしれない。

それにしても、少年。好きなシーンを聞かれておいて、好きな登場人物の話をするとは」


「……まあ、私の一番好きなシーンは劉備が涿県に立てられた黄巾の乱の札前で、ため息を漏らすところなのだがね」




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